「賢さ」とは「物事の本質を見定められる力」なのに対して、「愚かさ」は「物事の本質を見定められないこと」です。曖昧に「賢さ」と「愚かさ」を理解していると、「賢さ」を獲得することも「愚かさ」を克服することも難しくなるので、この定義を理解しておくことはとても大事です。

例えば、「賢さ」を持つ人は今何を「すべき」なのかがよく分かっていたりしますが、その根底には目の前の現実の「本質を見定める」ことがあります。逆に、「愚かさ」を持つ人は目の前の現実の「本質を見定める」ことができていないからこそ、今何を「すべき」なのかがよく分かりません。

何かを知っていることを「賢さ」と考えたり、何かを知らないことを「愚かさ」と考える人もいますが、それはただ知識を持っているか持っていないかの違いでしかないので、本質的な「賢さ」と「愚かさ」の違いではありません。
 

【「感情」が生み出す「賢さ」と「愚かさ」】

一般的に「賢さ」と「愚かさ」は「思考力」の違いだけによるものだと考えられがちです。しかし、実際は「感情」が強く関与しています。何故ならば、我々の「思考」に「感情」はかなり影響を与えているからです。

例えば、心に「怠惰」を持つ人は、考えること自体が面倒に思いやすいので、「思考」がいい加減になりやすいです。それとは逆に、心に「厳しさ」を持つ人は、自分の考えが適切かどうかを吟味しやすいので、「思考」が良いものになりやすいです。

ですから、「愚かさ」を克服し「賢さ」を実現していくために最初に必要な段階は、適切な「思考」を行なうための「感情」を自分の中に獲得していくことです。そして、「思考」を行なう上で適切な「感情」は、「冷静」な「感情」のことです。「冷静」な「感情」こそ、「物事の本質を見定める」ことを実現しやすくなります。
 

【「論理的思考能力」が生み出す「賢さ」と「愚かさ」】

「賢さ」と「愚かさ」の違いには、当然「思考力」も影響しています。どんなに良い「冷静」な「感情」を抱いたとしても、適切な「思考」を行なう「能力」が無ければ、物事の本質は見定められないからです。

では、「思考力」とは何かというと「論理的思考能力」のことです。「論理」という言葉を聞くと、難しいことのように感じる方もいるかもしれませんが、実際は「論理」は難しいことではなく、足し算や引き算位簡単なものです。

例えば、「AだからB」「A何故ならばB」「AしかしB」といった構造は「論理」であって、我々は日常的にいつも使っているものです。これらの「論理」の本質は整理すると、以下のような「論理構造」を持っています。

「AだからB」  = 「A→B」
「A何故ならばB」= 「A←B」
「AしかしB」  = 「A⇔B」

つまり、基本的な「論理」は「矢印」と同じです。そして、我々はちゃんと「矢印」を使えるようにすべきですし、「A」と「B」の部分に適切な内容を入れるべきです。「論理的思考能力」とはこういった能力のことであって、難しいことではありません。

例えば、「野菜は体にいいから食べた方がいい」という文章は「A」=「野菜は体にいい」、「B」=「食べた方がいい」という構造を持っている文章で、ほとんどの人が日常的に使っている「論理」です。

「賢さ」を持つ人は、「A→B」「A←B」「A⇔B」といった基本的な「論理」や、標準的な「論理」や発展的な「論理」を適切に使う能力がある人のことですが、特に難しいことを行なっているわけではありません。何故ならば、「論理」は難しいことではないからです。

逆に、「愚かさ」を持つ人は何らかの「論理」に弱いことが多いです。例えば、「愚かさ」を持つ女性の中には異性から酷いことをされた時に、男性全体に対して人間不信になる人もいますが、こういう風に考えてしまう背景には、「包含関係」という「論理」を支えていない問題があります。

当然、世の中には性格の悪い男性もいますが、性格の良い男性もいます。以下の「包含関係」で考えると、「A」は「男性全体」、「B」は「性格の悪い男性」です。

「愚かさ」を抱える人は、「包含関係」を使って物事を考えないので、適切に「物事の本質を見定める」ことをせずに、間違った態度を生み出します。この例の場合、この女性は男性全体が「B」のように思ってしまっているが故に「男性不信」という間違った態度に堕ちてしまっています。

「矢印」の「論理」と異なり、「包含関係」の「論理」を適切に使わずに生きてしまっている人は少なくありません。しかし、「包含関係」の「論理」は難しいものではありませんし、生きていく上で必ず身につけておくべき「論理」です。「包含関係」を頭の中でイメージしながら思考をする癖を付けていけば、自ずと使えるようになります。
 

【まとめ】

つまり、「賢さ」と「愚かさ」には「感情」と「論理的思考能力」が強く影響を与えています。こういったことが分かってくると、「物事の本質を見定める」ために必要な「感情」と「論理的思考能力」を養うことの重要性が分かってきます。

そういった訓練は自分の日常で行なうしかありません。思考を行なう時に、適切な「感情」を抱いているのか、適切に「論理」を使えているのかをチェックし続けるしかありません。つまり、自分自身を「問う」態度が必要不可欠です。

こういったことについてより深く学びたい方は、以下の二つの文章を読んで頂けると幸いです。

​・文章を読むことと論理の関係性
文章を読むことと気持ちの関係性
 

※余談

日本の教育は本当に酷いもので、このページに書かれていることすら義務教育で教えられません。しかし、本当はこういったことこそ義務教育で教えられるべきです。何故ならば、思考という行為は生きていれば絶えず使うものであって、絶えず使うことをより良い形で行なうことを義務教育は促すべきだからです。

高校数学の『集合と論理』で「包含関係」が教えられてもいますが、多くの数学教師の教え方は酷いです。何故ならば、「包含関係」の「論理」が我々の人生においてどれだけ大事なことかを強く教える教員はとても少ないからです。

「何故それを学ぶ必要があるのか?」といったことを生徒に教えることが、そこで学んだ何かを生徒が人生に活かすことに繋がっていきます。しかし、今の日本の教員達の多くは、こういったことを伝える重要性を意識化していません。

適切に「論理」を使うことができない日本人が少なくない原因は教育にあります。この問題をなんとか解決していくことがこの国にとって非常に大事なことです。