このページでは映画『ボーダーライン』の解説をしていきます。様々な映画が表現するテーマは「善悪」に関することです。そういう観点で考えた時、映画『ボーダーライン』は邦題の通り「善悪」の「境界線」に相当する作品で、だからこそ、我々はこの作品を通して「善悪」に関する「問いかけ」を得ることができます。そして、その学びは我々が「善悪」について考える上での一つの重要な資料となります。一度映画を御覧になって頂き、この解説ページを読んで頂けると幸いです。以下、ネタバレを含みます。
 



【心理学的解説】

・「善悪」の基本構造

世の中を基準に「善悪」を考える場合、「善」とは世のためになることを実践することであり、「悪」とは世に有害なことを実践することです。そして、「善」は基本的に「誰かのため」の方向性、「悪」は基本的に「自分のため」の方向性を持ちます。つまり、「善」の前提には「愛」があり「悪」の前提には「欲」があります。この法則性が我々が「善悪」について初めに理解すべきことです。しかし、「欲」を実践することが結果的に「善」になることも、「愛」を実践することが結果的に「悪」になることもあります。そういった「境界線」の部分もこの映画は強く描いています。

このような意味で、主要な登場人物3人を理解することが大事です。大雑把に整理すると、主人公のケイトは純粋な「愛」を動機に「善」を実践する人物であり、アレハンドロは家族を奪われたことに対する「復讐心」が故に「善」を実践する人物であり、ジョシュは「欲」を動機に「善」を実践する人物です。ジョシュの動機について「欲」が100%なわけではなく、彼の中に「善意」も見えますが、自身の「欲」でも動いていることを感じ取れます。

このような意味で、ケイトは王道の「善」、アレハンドロは止むを得ない「善」、ジョシュは邪道の「善」を持ちます。ですから、彼らは「善」を実践しようとする者ではあっても、精神的にはかなり立場が異なります。
 

・「協力」と「利用」

「善」の実践のために誰かを「利用」することに関してもこの映画は描いています。映画の終盤において、アレハンドロとジョシュが「ルール」の限界を越えるために、ケイトを「利用」していたことが明らかになるからです。

共通の「善」の目的のために「協力」をするのが「善」の王道です。それに対して、自分の目的のために他者を「利用」することは「善」とは言い難いです。アレハンドロとジョシュの果たそうとしている目的は結果的には「善」ですが、彼らは王道的な「善意」によって動いている人間ではなく、その動機によってケイトを「利用」しています。しかし、この構造があったからこそ、敵を倒すことができ大きな「善」を実現することができています。だからこそ、アレハンドロとジョシュがケイトを利用していることは「悪」とは言い難いです。また、アレハンドロとジョシュはケイトを結果的におとりにしながら「善」を実践することも描かれていますが、このことは「善」の王道とは言い難いです。

こういった複雑な構造が我々に与える「協力」と「利用」に関する「問い」は非常に大きいです。そして、こういった「問い」を生み出すだけの見事な構造を描けている点に、この映画の大きな価値はあります。多くの映画で描かれる「善」とは、共通の「善」の目的のために仲間で「協力」し合いながら敵を倒す類のものです。そして、それは極めて王道の「善」だからこそ、我々が目指すべき「善」です。それに対して、この映画で描かれている「善」とは、極めて望ましくない「善」であり、このような意味でも、この映画は「善悪」の「境界線」の意味を持ちます。


・「氷の気持ち」の「可能性」と「危険性」

「善悪」の「ボーダーライン(境界線)」という意味で、この映画において最も重要な存在はアレハンドロです。何故ならば、彼の抱く「氷の気持ち」という精神性そのものが極めて「善悪」の「ボーダーライン」に相当する精神性だからです。「氷の気持ち」とは文字通り「氷」のように冷たい精神性であり、その方向性は「善」にも「悪」にも向かうことができます。「氷の気持ち」のそのような性質を最も分かりやすく描いた作品が『ターミネーター2』の闘うターミネーター二体であり、一方は「善」のために「氷の気持ち」を使い、もう一方は「悪」のために「氷の気持ち」を使っています。

アレハンドロは「氷の気持ち」が故に、非常に「冷静」に、手段を選ばず「善」を実践していきます。例えば、アレハンドロは「氷の気持ち」が故に酷い拷問を悪党にすることができ、そのことによって必要な情報を集めることができています。しかし、最後のシーンでカルテルのボスの家族まで殺しますが、このシーンが我々に「善悪」の境界性や「氷の気持ち」の「可能性」と「危険性」を強く伝えます。彼は「氷の気持ち」が故にカルテルのボスを倒すことができましたが、「氷の気持ち」が故に女子供までを殺害したからです。冷たい精神性だからこそ、家族まで殺すことができてしまっています。

「善」を実践する上で、彼がカルテルのボスの家族まで殺す必要があったかどうかは誰にも分かりません。何故ならば、家族らが殺されずに生き残った場合に、世の中にとって有害な「悪」を彼らが実践するかどうかは分からないからです。普通に考えたら家族の殺害は「悪」とも言えるからこそ、この映画の中でこのシーンが「善悪」の「境界線」に関する問いかけを最も発しています。
 

※余談ですが、この3人が抱いている「気持ち」の種類も書いておきます。分かる方だけ参考にして頂けると幸いです。

ケイト:水の気持ち
アレハンドロ:氷の気持ち
ジョシュ:火の気持ち

ケイトの「水の気持ち」とは「問題解決の心」であり、「誰かのため」に「問題」を「解決」しようとする精神性
アレハンドロの「氷の気持ち」とは「水の気持ち」を更に冷たくした精神性であり、「光」と「闇」の中立的な精神性
ジョシュの「火の気持ち」とは「闘いの心」であり、「誰かのため」に「敵」に「勝つ」ことを目指す精神性

「敵」に「勝つ」ことを目指すことは、「誰かのため」にも「自分のため」にも実践できます。そういう意味で、ジョシュは「火の気持ち(闘いの心)」と「負けず嫌い(勝つことを欲望する心)」の両方を持っています。


【神学的解説】

度々書いていることですが、我々人間は「気」によって動かされている存在です。我々は自分の中に起こる「気持ち」によって、何らかの行動を実践しますが、自分の中に起こる「気持ち」の多くは「気」を「持つ」ことによって起こるものだからです。我々人間は自分自身がどういう「気持ち」に同調しながら生きるかを「選択」することにより、どういう「気」に動かされるのかを「選択」しています。

この映画のメインの三人は「善」を実践する存在ですが、その精神性の違いから我々は神々のことを学ぶことができます。神々は最も司る精神性は、極めて王道な「愛」や「善意」であり、そういった精神性をケイトは抱きながら生きています。それに対して、神々は必要に応じて「光のための闇」や「光のための中立(氷)」も使えるようにしており、そういった精神性をアレハンドロやジョシュから感じ取ることができます。

そういったことから我々が神々について学ぶべきことは、神々が何故「光のための闇」や「光のための中立」を使えるようにしているのかということです。世の中には、「愛」があるからこそ実践できない「善」や、「光のための闇」や「光のための中立」を使わざるを得ない状況はあります。そういった際にも人間を正しい「道」へ導けるように、神々は「光のための闇」や「光のための中立(氷)」の「気」を使えるようにしています。


【最後に】

神学的解説の部分は理解して頂かなくても問題ないと思うのですが、この映画が「善悪」の「境界線」に関する大きな「問いかけ」を持った作品であることを、心理学的解説の部分から少しでも御理解頂けると幸いです。そして、この映画はそういった「境界線」について描いた大傑作ですから、繰り返し観る中で得られる「気付き」が非常に多くあるはずです。ですから、一生付き合っていくに値する映画の一つだと言えます。特に、「善」の「道」を進む者にとっては、必ず一度は通っておくべき作品です。