ここでは、芥川龍之介の『侏儒の言葉』について解説を書いていきます。この本は、悪魔が創った「嘘」だらけの本であって、この本を理解することは悪魔が人間にどのような「嘘」を付くのかを理解する上で非常にいい方法です。逆に言うと、この本に書かれている様々な「嘘」を信じると「呪い」をもらってしまうので、気を付けて下さい。

「呪い」とは、間違ったことを信じることです。間違ったことを信じるのであれば、人は狂ったことをし始めます。悪魔はその悪魔の意図通りに人間を動かすために、人間の心に「気」で関与することで、その人間に「嘘」を信じ込ませるような様々な思考をさせますし、時にその「嘘」を人間に広げさせます。

芥川龍之介は悪魔によって様々な「嘘」を広げさせられていた人間であって、芥川龍之介は悪魔と共に文章を書いてきた作家になります。悪魔から様々な「アイデア」をもらい、それを文章に落とし込んでいた方です。ですから、芥川龍之介の文章は悪魔の「嘘」に満ちています。『蜘蛛の糸』の解説は既に書いています。

http://junashikari.com/art/『蜘蛛の糸(芥川龍之介)』について/

いつも書いていますが、「気付き」という言葉は「情報(アイデア)」が乗った「気」が我々に「付く」ことで「気付き」という現象は発生していることを意味しています。我々が文章を書く時、神々も悪魔も「気」で我々に関与することで、我々に「情報(アイデア)」をもたらし、我々が文章に書く言葉を教えています。

『侏儒の言葉』のそれぞれの文章は短いので、非常に学習をしやすいものでもあります。だからこそ、このホームページではこの『侏儒の言葉』を悪魔がどういったことを狙って書いたのかということの分析を書いていきたいと思います。『侏儒の言葉』は解説がこのホームページで解説が書かれていない部分は読まないで下さい。どうしてかというと、悪魔の「嘘」に引っかかってしまう可能性があるからです。本文と解説をセットで理解して頂ければ、と思います。
 

・タイトルについて

『侏儒の言葉』というタイトルにも悪魔の関与があることがよく分かります。「侏儒」とは、見識のない人をあざけって言う言葉です。つまり「侏儒」とは「馬鹿」と言い換えられます。ただ、芥川龍之介は自分のことを本当に「馬鹿」だと思っていないことは、芥川龍之介の様々な文章を読むと分かります。芥川龍之介の様々な文章は自分の「賢さ」に酔っている「優越感」の書き方だからです。どういった気持ちを抱くかによって、文章はかなり変わってきます。

芥川龍之介は自分が悪魔から様々な「アイデア」をもらいながら文章を書いていることを知りませんでした。だからこそ、自分の中に浮かんでくる様々な「アイデア」は自分自身が生んでいると思ってしまい、そのことが原因で自分は「賢い」と思ってしまい、そういった自分に酔ってしまった形になります。そうすると、「優越感」という「闇の気持ち」に堕ちてしまいます。

人間が「光の気持ち」を抱く時は神々からの「光の気」が入り、人間が「闇の気持ち」を抱く時は悪魔からの「闇の気」が入ります。悪魔は「闇の気」によって芥川龍之介に「アイデア」を入れるために、芥川龍之介に「闇の気持ち」を抱いている必要がありました。だから、悪魔としては、「闇の気持ち」を抱かせるために、芥川龍之介に様々な賢い「アイデア」をもたらし、そのことで「優越感」を抱かせていた形になります。そして、決して悪魔が「アイデア」を入れていることを芥川龍之介には知られてしまわないように、芥川龍之介の心を「闇の気」で支配していました。

このような形で悪魔は人間を「支配」し、自分のための道具としていくので、本当に恐ろしい存在です。なおかつ、悪魔はその人間が要らなくなれば簡単にその人間を殺します。芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」から自殺をしていますが、「ぼんやりとした不安」を悪魔が芥川龍之介の心に「闇の気」で起こすことで、芥川龍之介を殺しています。

どうして自分のことを「賢い」と思っていた芥川龍之介が『侏儒の言葉』というタイトルを付けたかというと、こういったタイトルを付けておけば、様々な批判が来た時に「いや、ただの馬鹿の戯言だから」と批判を逃れることができます。ですから、この本の序文も以下のような形になっています。
 

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 「侏儒しゅじゅの言葉」の序

「侏儒の言葉」はかならずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々うかがわせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草つるくさ、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。
 

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「その時々の思想の変化を書いているのであって、私の思想そのものではない」ということ書くことによって、様々な批判を免れようという姿勢が感じられます。この序文もタイトルもそういった意味で、芥川龍之介が自分を守るために用意した保険です。

「優越感」を抱いている人間にとって最も恐ろしいのは、「劣等感」を抱くことです。「優越感」と「劣等感」は同じ「比較の闇」という気持ちであって、すぐに「優越感」は「劣等感」に、「劣等感」は「優越感」に転じます。だからこそ、「優越感」に生きる人間は自分が「劣等感」を感じるような機会を作ってしまうことをことごとく恐れます。これは「比較の闇」を強く抱えている人にとってはよく分かるものだと思います。

芥川龍之介は自分の「賢さ」に「優越感」を感じていたのですから、自分が「馬鹿」だと思われて「劣等感」を感じてしまうことが本当に怖かったということは、「比較の闇」という「気持ち」の成り立ちから分かります。そういう意味で、芥川龍之介は自分が「馬鹿」と思われてしまうことが怖いが故に、初めから自分で『「侏儒」=「馬鹿」の言葉』という言葉をタイトルを付けることによって自分を守っています。

悪魔はこのような心の動きを芥川龍之介の心に起こすことで、このタイトルを芥川龍之介に付けさせています。悪魔は芥川龍之介の身体に大量に宿らせた「闇の気」を操り、それを「優越感」にすることも「劣等感」にさせることも可能です。そのようにして芥川龍之介の「気持ち」を「支配」します。

そして、悪魔としては自分の「闇の気」をできるだけ多く芥川龍之介に抱えさせるために、絶対に時折「劣等感」を感じさせていたことは間違いなく言えます。悪魔がその人間に多くの「闇の気」を抱えさせる為に必要なのは、強い「闇の気持ち」との共感です。「劣等感」という「気持ち」はかなり人の気分を落とすことができるものなので、悪魔は「闇の気持ち」と強く共感させるために、

また、そういった「劣等感」の経験が芥川龍之介の心に「恐怖」さえも植え付けます。「恐怖」も「闇の気持ち」なので、悪魔としては芥川龍之介が「劣等感」を感じることに「恐怖」しながら文章を書くことはとても便利です。芥川龍之介が「恐怖」を抱いている時でも、悪魔は芥川龍之介に「闇の気」を通して「アイデア」を入れられるからです。

あと、悪魔にとって、「優越感」で人を動かすのは気分が悪いものです。何故ならば、相手が自分のおかげでいい思いをしているからです。しかし、「恐怖」で人を動かすのは気分がいいものです。何故ならば、相手が自分のおかげでいい思いをしておらず、「恐怖」させること自体が面白いからです。闇に満ちた魂にとって、自分のおかげで相手がいい思いをすることはむかつくことですし、「恐怖」で人を「支配」することは楽しいものです。

とにかく、このような「気」の関与によって、悪魔はその人間を自分の奴隷にし、自分の道具にしていきます。「気」の成り立ちと、悪魔の性格と、芥川龍之介の文章の書き方を根拠に、悪魔が芥川龍之介の心をどのように支配していたのかは特定できます。

※念のために書いておくと、私自身は人を「恐怖」で「支配」することを楽しんだり、他人が自分のおかげでいい思いをすることに関してむかついたりしません。では、どうしてこのようなことが分かるかというと、いつも「闇」の魂と闘っているからこそ、彼らの性格がよく分かるからです。悪魔も人間も同じ魂であって、悪魔とはものすごく性格の悪い人間とイメージして頂ければ、と思います。あと、悪魔のことを適切に説明する為には、私も悪い言葉遣いを使わないといけないので、その点は御理解頂ければ、と思います。

悪魔としては、この『侏儒の言葉』にどういう意味を込めたかというと、芥川龍之介=「馬鹿」という皮肉を込めています。どうしてそのように言えるかというと、「闇」に満ちた魂にとって人を馬鹿にすることは楽しいことですし、悪魔からすると芥川龍之介は本当に「馬鹿」だからです。悪魔が何故芥川龍之介を「馬鹿」だと思っていたかというと、芥川龍之介はただ悪魔に取り憑かれて文章を悪魔に書かされていただけにも関わらず、それを自分が書いていると思っていたからです。悪魔にとって、そういった「馬鹿」=「侏儒」が『侏儒の言葉』という本を書いているのは面白おかしいものです。

この序文にも悪魔は自分のメッセージを込めています。「『侏儒の言葉』は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない」という最初の一言に悪魔が込めた裏の意味は、「『侏儒の言葉』は必ずしも芥川龍之介の思想を伝えるものではない」ということです。つまり、「『侏儒の言葉』は悪魔が書いた」ということをまず最初に書いています。

悪魔はこの『侏儒の言葉』を読んでいる人間の様子も日々観察します。悪魔は我々人間よりも圧倒的な認識能力を持っています。力のある悪魔は同時に日本人全体の心の中を見ることも簡単にできます。ですから、日本人が『侏儒の言葉』を手に取り、読んでいる時に「『侏儒の言葉』は悪魔が書いた」ということを書いているにも関わらず、その言葉の意味に気付かない様子を見るのは愉快なものです。悪魔は自分が楽しむために生きているので、わざと最初に「『侏儒の言葉』は悪魔が書いた」と書いておいて、そのことに気付かない日本人を見ながらニヤニヤしているような存在です。

また、その次の「唯わたしの思想の変化を時々窺わせるに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、ーーしかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない」に悪魔はどのような意味を込めたかというと、「唯芥川龍之介の心に悪魔が入れたアイデアを時々窺わせるに過ぎないものだ。そして、それは『真実』ではなく、迷路のような『嘘』だ」ということを意味しています。

芥川龍之介の心は悪魔が完全に「支配」していたので、芥川龍之介の思想の変化は悪魔が芥川龍之介の心に入れた思想の「アイデア」の連続に過ぎません。また、「真実」は絶対に言い切ることができるのに対して、上手な「嘘」はそれが「嘘」であることを見破られないように、「嘘」である根拠が見えないような迷路のような構造を持っています。そういった構造を持った巧妙な「嘘」を悪魔は芥川龍之介に書かせています。

ただ、このことを「それは『真実』ではなく、迷路のような『嘘』だ」と直接的に表現するのではなく「一本の草よりも一すじの蔓草、ーーしかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない」と「かっこよさ」を持った文章を芥川龍之介に書かせることによって、読者を「かっこよさ」に引きつけさせ、悪魔が本当に何を意味しているのかを読者に見えないようにしています。悪魔が芥川龍之介の文章にいつも行なっていた関与はこういった関与です。真実を見えないようにするために、芥川龍之介に「優越感」の「気持ち」で「かっこよさ」を持った文章を悪魔は書かせます。

読者は「真実」は言い切ることができるのに対して、上手な「嘘」は言い切ることができないようにする、という構造を知らないが故に、「一本の草よりも一すじの蔓草、ーーしかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない」という言葉があっても、この言葉が「嘘を書いている」ということを本当は意図していることを見抜くことができません。また、悪魔が文章に関与できるという知識がないことも、この文の真意を見抜けない大きな理由としてあります。

これらのことを踏まえて、序文に関して原文そのままと悪魔が込めた意味を並べて書いてみたいと思います。

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 「侏儒しゅじゅの言葉」の序

「侏儒の言葉」はかならずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々うかがわせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草つるくさ、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

 

 「芥川龍之介という馬鹿の言葉」の序

「侏儒の言葉」は悪魔の「嘘」を伝えるものである。唯芥川龍之介に悪魔が入れていった様々な「嘘」を窺わせるものに過ぎない。言い切ることができる真実よりも、言い切ることができない嘘を、ーーしかもその嘘は迷路のように張り巡らされているかもしれない。

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こういった構造が分かると、『侏儒の言葉』が悪魔によって創られたものであって、どれだけ恐ろしいものであるのかを少し理解して頂けると思います。この本は本当に、悪魔によって「嘘」が張り巡らされています。
 

私は20歳頃に『侏儒の言葉』を神々の導きによって読み、悪魔の様々な「嘘」に多く騙されました。そのことによって「呪い」を多く抱え、生きることがかなり辛い時期を過ごしました。悪魔の「嘘」を信じてしまうと、本当に生きるのが辛くなっていきます。

シャーマンになって、「光」と「闇」の構造や神々と悪魔が何をやっているかなどを知った今だから、この本に悪魔がどのような「嘘」を込めていったのかを見破ることができますが、以前は全く見破ることができませんでした。

神々としては、この本を元々私に解説させるつもりで、20歳頃にこの本を読ませ、わざと私を悪魔の「嘘」に引っ掛けています。悪魔のもたらす「嘘」という「罠」の恐ろしさを知るためには、一度そういった「罠」に引っかからないといけません。私はそういったものの怖さを伝えることも人生の役割として持っていますから、そういった「罠」に引っかかるように神々は私を導いています。

神々はこの本から日本人が悪魔の恐ろしさを学んでほしいと思っています。この本は本当に学びやすい教材です。それぞれの文章は短く、簡潔で、嘘のからくりも説明しやすいです。このホームページでは、この『侏儒の言葉』のそれぞれの短い文章を、一つの文章に対して1ページずつ解説していきます。

芥川龍之介は日本人の誰もが知っている作家です。しかし、ほとんどの人が芥川龍之介が悪魔に文章を書かされていたことを知りません。ですから、芥川龍之介が悪魔に文章を書かされていたことに確信を持って頂くことは、日本人全体が色々なことを改めるいいきっかけにもなると思います。

そういう形でこのホームページを活用して頂けると幸いです。