『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の続編である『イノセンス』は非常に重要な映画です。

しかし、この映画の重要な意味を理解しなければ、我々が学ぶことは少なくなってしまいます。そういう問題を解決するために、このページでは、『イノセンス』が我々に伝える重要な意味を説明します。
 


『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は非常に重要な作品ですし、その解説は以下のリンクに書いています。この解説と重複する部分はこのページでは省略させて下さい。

http://junashikari.com/cinema/ghost-in-the-shell/

このページでは、『イノセンス』について3つの点に分けて説明していきます。その内容は、「闇」の哲学に関する事柄、テクノロジーの進歩によって起こり得る新たな犯罪の構造、バトーの精神性です。
 

【「闇」の哲学について】

この映画の持つ大きな価値は、映画という方法だからこそ、どのような人間が、どのような声で、どのように「闇」の哲学を信仰するのかを感じられる点です。

それと相反するものが、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の草薙素子の哲学です。素子は「真実」に辿り着く「哲学」を実践しているのに対して、『イノセンス』では「虚偽」に辿り着く「哲学」を実践している人物が描かれます。

二つの作品に、このような対立軸があることを踏まえて作品を鑑賞することは大事ですし、どういった人間が「闇」の哲学に堕ちるのかを理解することは非常に重要です。

何故ならば、「闇」の哲学は、間違った「アイデア」を我々の心に与えますが、そういった「アイデア」は我々の人生を台無しにしてしまう程に影響力のあるものだからです。

非常に重要な法則として、病んだ人間は病んだ「哲学」を生み出します。特に、「賢さ」を持つ病んだ人は、非常に危険な「哲学」を生み出します。何故ならば、一見「真実」に見える「虚偽」の哲学を生み出すからです。

だからこそ、「賢さ」を持つ、精神を病んだ人間が「哲学」を語る場合、その時に危険な「アイデア」を我々は与えられかねません。こういうことが分かると、現実の中でもそういう人物の哲学が如何に危険かが見えてきます。

例えば、ニーチェは精神を病んだ哲学者として有名ですが、『ニーチェの言葉』のような本が書店で平積みにされていることがあったりします。そういうものの危険性を分かることはとても大事です。

この物語の中で、病んだ「哲学」の語り手が二人登場します。一人はハラウェイ、もう一人はキムという男です。以下、この二人の発言について解説していきます。
 

[ハラウェイ]

・「疑い」の危険性

「人間とロボットは違う。でも、その種の信仰は白が黒でないという意味において、人間が機械ではないというレベルの認識に過ぎない。」

この言葉は「闇」の哲学を信仰する人間において、一つ典型的な「罠」です。「白が黒ではない」ということは、この世界を成り立たせている確かな「前提条件」としての「真実」ですが、ハラウェイはその「前提条件」が違えば、「結論」も異なるということをここでは伝えています。

この世界に生きている以上、この世界を成立させている「前提条件」を「疑う」ことに意味はありませんし、そういう「疑い」は「前提条件」を見失わせてしまうので、「真実」としての「結論」も見失わせてしまいます。

例えば、「1+1=2」はこの世界の「真実」としての「前提条件」だからこそ「1+2=3」です。しかし、「1+1=3」である可能性もあり得るなどと考え始めると「1+2=4」という「結論」になりかねなくなってしまいますが、この世界においては「1+2=4」になることはありません。

このようにして、「前提条件」に対する過度な「疑い」は「真実」を見失わせます。だからこそ、過度な「疑い」を信仰することは大変危険な「哲学」を生み出しやすいです。

このハラウェイの発言の後、バトーはデカルトの異常な行動の話を取り上げていますが、例えば、デカルトは「疑い」を非常に信仰している「哲学」を実践しています。

「前提条件」に対する過度な「疑い」の危険性が見えてくると、そういった哲学者の言葉を鵜呑みにすることの危険性が見えてくるので、大変重要なことです。

では、少佐(草薙素子)はどのように思考していたかというと、彼女は「疑い」ではなく「問い」を使って思考しています。こういう「疑い」と「問い」の違いを感覚的に感じられる点に、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』と『イノセンス』の価値はあります。

「疑い」は何らかの事柄に対する「不信感」が元々含まれているものであり、そういった「不信感」は「嫌悪感」から生まれることが多いです。そして、そういった「疑い」の性質が、中立的な思考を阻害します。

例えば、ハラウェイの場合、彼女が「人間嫌い」であることが感じられますが、そういった人間に対する「嫌悪感」が、人間に対する「不信感」へと繋がり、中立的な思考ではなく、人間を否定的に捉える思考を生み出します。

それに対して、「問い」は何らかの物事に対する「不信感」や「嫌悪感」を元々含まず、より「中立的」な思考を生み出すからこそ、より「客観的」であり、「客観的」だからこそ、「真実」へ到達しやすいです。

少佐(草薙素子)の思考はそのようなものであることは感じられますし、その背景には彼女が「嫌悪感」などに堕ちない「強さ」を持っていることがあります。
 

・「傲慢・甘さ」と「愛」の欠如

「女の子が子育てごっこに使う人形は実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。女の子は決して育児の練習をしているのでなく、寧ろ人形遊びと実際の育児が似た様なものなのかもしれない。つまり子育ては、人造人間を造ると言う古来の夢を一番手っ取り早く実現する方法だった。そういう事にならないかと言ってるのよ。」

ハラウェイは子育てをしたことがないにも関わらず、「子育ては、人造人間を造ると言う古来の夢を一番手っ取り早く実現する方法」という形で、子育てのことを話します。こういった思考の背景には、未経験の事柄に対して分かった気になるという、思考の「傲慢」や「甘さ」があります。

こういった思考をしてしまう人は実際の現実でもいますが、そういった思考を行なってしまう背景には、「経験」の重要性の見落としがあるとも言えます。そして、その背景には、思考の「慎重さ」の欠如があるとも言えます。

また、「人形遊びと実際の育児が似た様なものなのかもしれない」という発言の背景には「愛」の欠如があります。何故ならば、「愛」が欠如しているからこそ、人形遊びと実際の育児の際に感じる「愛」の差を踏まえずに思考をしているからです。

これは大変重要な点ですが、「愛」が欠けてしまった人間は、「愛」に関する様々な事柄が見えなくなります。何故ならば、「愛」に欠けてしまうなら、「愛」に関する「経験」は不可能だからです。そして、この世の重要な「真実」はかなりの部分で「愛」と繋がっているからこそ、「愛」に欠けると重要な「真実」が見えなくなります。

しかし、「愛」が欠けてしまっているにも関わらず、この世の重要な「真実」が見えていないという自覚が足りない人は大変多く、特に、「賢さ」を持つ人に多いです。こういったことが起こってしまう背景には、「愛」と「真実」の関係性が常識化されていないことや、「賢さ」があれば「真実」に辿り着けると思いやすい部分などがあるはずです。

残念ながら、実際の現代社会も「真実」に辿り着く上で必要となってくる様々な重要な事柄が常識化されていませんし、『イノセンス』の舞台は今以上に病んだ世界ですから、常識化されているわけもありません。そんな中で、「賢さ」を持つ病んだ人がどのような哲学を展開するのかということの一つの可能性を、ハラウェイは我々に教えてくれます。
 

[キム]

・「美意識」の狂い

「人形に魂を吹き込んで人間を模造しようなんて奴の気が知れんよ。真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身の事だ。崩壊の寸前に踏みとどまって、爪先立ちを続ける死体。」

このセリフはキムの「美意識」が狂っていることを示すセリフです。心が病んでしまうと、「正気」を失ってしまうので、本質的に美しくないものを「美しい」と感じてしまいやすくなり、このような「美意識」が生まれます。

「美」は「価値」を生み出します。だからこそ、狂った「美意識」は狂った「行動」を生み出します。何故ならば、「価値」を感じれば人は「行動」するからです。

実際、キムは全身を「義体化」し、気味の悪い姿で死んだフリをしている人間として描かれます。つまり、狂った「行動」を実際に行なっている人間です。そういった人間の「行動」に、狂った「美意識」があるということは大変重要な点です。

「闇」の哲学の一部は、本来「無価値」なものに「価値」を与えるものもあり、「価値」を付ける上で「美」が使われることもあります。このような構造を理解することは大変大事ですし、「正気」を保つことの重要性も分かります。何故ならば、「正気」を保つことで、狂った「美意識」が自分の中に生まれることも、そういったものに共感することも防ぎやすくなるからです。
 

・狂った「向上心(ナルシズム)」

「人間はその姿や動きの優美さに、いや、存在においても人形に敵わない。人間の認識能力の不完全さは、その現実の不完全さをもたらし。そして・・・その種の完全さは意識を持たないか、無限の意識を備えるか、つまり、人形或いは神においてしか実現しない。」

狂った「美意識」とも繋がる話ですが、キムは狂った「向上心(ナルシズム)」によって、全身「義体化」の道を選びます。その一つの理由がこの発言に表れています。

自分自身の「問題」を「解決」することを「向上心」と呼びますが、その動機が「自分のため」の「ナルシズム」であることがあります。キムは、そういう「ナルシズム」と狂った「美意識」を合わせたことにより、気味の悪い姿に成り果てています。

「人間の認識能力の不完全さは、その現実の不完全さをもたらす」ということは「真実」であって、人間の認識能力は極めて不完全です。そういった人間の「問題」を「解決」するために、全身を「義体化」することをキムは選んでいます。

キムは「完全」に「価値」を置き、「不完全」を「問題」と捉えます。そして、意識を持たないか、無限の意識を備えるかのどちらかでしか「完全」ではないと考えます。しかし、意識の有無の差はあまり考えていません。

確かに、認識が「不完全」なのは「問題」ではありますが、意識が「無い」ことも「問題」ではあります。しかし、キムは「正気」ではない「ナルシズム」に囚われているので、「完全」かどうかという点にばかり気が取られています。

我々の思考は、その思考の中でどの点を「論点」とするのかを無意識に決めています。そして、「論点」になるのは、その人が重要視している点の表れであって、狂った「ナルシズム」は、その「論点」の置き方が良くないことに繋がりやすいです。というのも、「ナルシズム」は「正気」を失わせやすい心だからです。

だからこそ、「ナルシズム」系の哲学は危険な哲学になることが多く、非常に危険なものが多いです。そして、「ナルシズム」に囚われると、「ナルシズム系」の哲学に魅力を感じやすくなってしまい、危険な哲学の「アイデア」をもらってしまいます。

このキムの発言は他にも様々な重要な点を持っていますが、このような意味で、「ナルシズム系」の哲学の危険性を理解するために、このキムの発言を理解することが、実際の我々の人生には大事だと思ったので、このように説明させて頂きました。
 

[まとめ]

ハラウェイとキムの様々な発言は、色々な形で話を膨らませることができますが、中でも最重要な4点に絞って解説しました。

残念ながら、今の世界は危険な哲学の危険性を適切に理解することも、どのような人間がどのように危険な哲学を生むのかということも、常識化していません。だからこそ、危険な哲学が新たに生まれることもあれば、かつて生まれた危険な哲学の影響を人々が受けてしまうこともあります。

そのような意味で、この映画が危険な哲学を聞かされる現場を様々な形で描いていることは大変大きな「価値」がありますし、その話を聞いていると感じる不穏な空気感も音楽などで適切に表現しています。

映画『リバティーン』なども、危険な「ナルシズム」と「疑い」が故に、退廃的な哲学と共に生きる人物が描かれていますが、この映画程に「闇の哲学」というポイントについて、興味深い形で描かれている作品は少ないですし、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』と対比させることで見えてくる事柄もあることは本当に素晴らしい構造です。
 

【文明が進むことにより、どのような犯罪が起こり得るか】

『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の解説ページでも書きましたが、この映画においても、文明の進歩によって新たに起こってくる犯罪の構造が描かれています。


・視覚イメージの操作

特に、この映画において描かれてるのは、ネットを通してハッキングされることで視覚を変更されることであって、その恐ろしさを描いています。

バトーが視覚を乗っ取られたことでコンビニで騒動を起こす際は、現実の見え方を操作されているのに対して、キムの館でトグサとバトーが経験しているのは、現実ではないものを現実と思わされることです。

余談ですが、この方法は幻覚と大変似た構造を持っているので、コンビニのシーンは幻覚が故に犯罪を起こしてしまう人の心境なども教えてくれます。また、キムの館のシーンは、ドラッグによるバッドトリップを追体験するような意味もあると思います。

このような意味では、この映画は外部から視覚を操作されることの恐ろしさを教えてくれるだけではなく、ドラッグによる幻覚の恐ろしさを教えてくれるものでもあります。

「電脳化」により、個人が直接ネットと繋がることによって、視覚イメージを操作される可能性があるということ、そういった可能性を映像を通して教えてくれることは大変意義深いと思います。

というのも、こういう映像を通して、「電脳化」のリスクも分かることができますし、実際に「電脳化」などの技術に近づくに当たって、どのようなことに配慮しながら文明を進めていくべきかを教えてくれるからです。
 

・ロボットを使った犯罪

一連の事件の構造そのものでもありますが、この映画では、ロボットでは完全には発生しづらい「意志」を生ませるために、人間を「利用」することが描かれてます。現実世界で、どのようにこのような構造が生まれるのかは予想できませんが、あり得る構造ではあると思います。

また、それよりも更にあり得ることで、この映画で近いことが描かれていることは、人間がロボットを操作することで犯罪を起こす可能性です。

この映画では、女の子が自分の存在に気付いてもらうために、本来あり得ないロボットの事件を起こしますが、それとは反対に、人間がやったとバレないようにしながら、人間がロボットを操作して事件を起こす形です。また、そういうことをハッカーが起こすということもあり得ると思います。

これから確実にロボットは我々の生活にとって身近な存在になっていくわけですが、こういった構造があり得ることを事前に分かった上でロボット開発を進めていくことは非常に重要な点です。

『アイ ロボット』なども似たような意味がありますが、このような重要な警告をこの映画は我々に発しているところに、もう一つの大きな価値があります。
 

【バトーの精神性】

『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の解説の部分でも書きましたが、少佐(草薙素子)は「水」の精神性を司る人間であるのに対して、バトーは「火」の精神性を司る人間です。そういった「火」の本質をこの映画は的確に伝えています。
 

・「闘いの心」

「水の気持ち」は「問題解決の心」であるのに対して、「火の気持ち」の一つは「闘いの心」です。そして、「闘いの心」とは「愛」の実践のために「敵」と「闘う」ことを目指す精神性であり、「水の気持ち」が「冷静」であるのに対して、「火の気持ち」は「情熱的」です。

そういったバトーの「火の気持ち(闘いの心)」は様々な部分で確認できます。例えば、映画の終盤、敵地に侵入した時に、バトーはトグサが脳を焼かれてしまうことを阻止すべく、トグサに「馬鹿野郎!!無茶するんじゃねえ!!」と叫びます。また、映画の最後、自分の存在に気付いてもらうために人を殺した女の子に対して、「犠牲者が出ることは考えなかったのか!」とかなり厳しく戒めます。

こういった「熱さ」のある精神性が「闘いの心」の本質です。トグサに叫んだのはトグサを「守る」ために、女の子を戒めたのは犠牲者を「守る」ために、「闘う」ように「厳しさ」のある声を出します。
 

・人間離れした「強さ」

「闘いの心」はこのような性質を持つわけですが、バトーは人間離れした形で「闘いの心」を使います。それをよく伝えるのが、トグサとの対比です。

例えば、ヤクザに殴り込みに行ったシーンでは、手榴弾が降ってきた際、トグサは「焦り」や「恐怖」などで固まってしまいますが、バトーは瞬時に判断し、手榴弾を撃ちます。

こういった瞬時の判断は、どのような状況でも「闘いの心」を維持していることを意味します。そういったことを可能にするのは、一切のことに動じないだけの心の「強さ」です。逆に言うと、トグサがそこで固まってしまったことは、「焦り」や「恐怖」に関する「隙」を彼が心に持っていることの表れです。

また、キムの館から出た時、トグサはちゃんと現実に戻ることができたかどうかを考え「混乱」に堕ちています。しかし、バトーは非常に落ち着いています。こういう描写は如何なる状況でも受け入れることができる心の「強さ」の表れです。

どのような状況であっても「正気」を保つということは非常に困難なことです。というのも、自分も予想もしなかった脅威や、自分でも分からない状況に直面する時、普通の人間であれば「焦り」や「恐怖」を抱いてしまうからです。

このような意味で、バトーの心の「強さ」は人間レベルでないということがこれらのシーンからよく分かります。このような意味が分かった時、バトーとトグサの2人の対比に非常に深い意味があることも見えてきます。
 

・人間離れした「賢さ」

バトーが非常に大きな「賢さ」を持っているということも、トグサとの対比で分かるようにこの映画はできています。トグサも普通に考えると「賢さ」を持った人間ですが、バトーはトグサよりも上の「賢さ」を持っており、人間離れした「賢さ」を持っています。そういったことは、二人の事件の解決に向けての思考の差から分かります。

また、この映画では、様々な偉人達の言葉が引用されます。それぞれの言葉を、それぞれの人物達がどのように捉えているのかを感じられることも非常に興味深い点です。そして、この描写はそれぞれの人物の「賢さ」などを我々に伝えます。

偉人達のこのような言葉は何らかの哲学を持っています。そういった哲学をどのように感じられるかは、「賢さ」といった、その人間の中の様々な要素によって決まります。ですから、それぞれの人物がどのような声でそれを引用するのかは極めて興味深い描写です。

その引用されている言葉に理解を深めた上で、バトーとトグサの引用のやり取りを観ると、この二人の「賢さ」の差について見えてくることもあります。また、「孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように」という釈迦の言葉は度々引用されますが、それぞれの人物がこの言葉をどのように発生するのかは、それぞれの人物の人間の「成熟度」を示してもいます。

「成熟」しなければ見えてこない「真実」はあります。そのような意味で、「賢さ」を「真実」を見極められる能力と定義するのであれば、本当の「賢さ」とは単純な「思考能力」と同じではないとも言えます。
 

・「闘いの心」が故の「隙」

『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の解説ページでは、少佐の「向上心」が故の心の「隙」のことを解説しましたが、『イノセンス』では、バトーの「闘いの心」が故の心の「隙」が描かれています。

それを象徴するのがコンビニで視覚を操作されるシーンであって、犬に対する「愛」が故に行動パターンを作ってしまったバトーのミスです。石川は「ドライフードなら半年は保つからドライにしろ」と言うのに対して、バトーは「あんなもん、食いもんじゃねえよ」という形で譲りません。これはバトーの犬に対する「愛」の表れであって、犬を「守ろう」とする「闘いの心」の表れでもあります。

このような形で、「闘いの心」と共に生きる人間が、誰かを「守ろう」とするが故にミスを犯してしまうことは現実世界でもあることです。そういった、「闘いの心」の本質を描いている点も非常に重要な描写です。
 

【最後に】

大変長い解説になってしまいましたが、是非『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』とセットで『イノセンス』の持つ意味を知ってほしく思っています。

両作品の本質を整理すると、「光の哲学」と「闇の哲学」の対比、両方で描かれる文明の進歩による新たな犯罪の可能性、「水」と「火」の対比です。

宮崎駿作品などは子供でも観ることができる作品であるのに対して、この二つの作品は極めて大人向けな作品だと思います。特に、哲学的なことに関心を持つ人にとっては非常に重要な意味を持つと思います。

哲学に一切触れずに生きていくなら、危険な哲学に触れる可能性も低いですから、『イノセンス』が我々に教えてくれることはそれ程重要ではないかもしれません。しかし、哲学に少しでも触れそうな人ならば、危険な哲学に触れる可能性はありますから、『イノセンス』は非常に重要です。

また、これからのテクノロジーの発展に少しでも影響を与える人にとっては、新たなる犯罪の可能性を描いた両作品は極めて重要です。どのように文明を進めるべきかをこれらの作品は我々に垣間見せてくれるからです。

そして、どのような人にとっても、この二つの作品が伝える、人間離れした「水」と「火」の精神性は重要です。というのも、どんな人であっても、「水」と「火」の精神性は比較的身近な存在ですし、二つの理想形を感じる経験は大事なことだからです。

この二つの作品にはこのような三段階の意味があるわけですが、それぞれの方がそれぞれの方に必要なメッセージを受け取りやすくするために、二つの解説を書きました。御活用頂けると幸いです。