『コラテラル』は映画史に残る傑作です。しかし、残念ながら、現代ではこの映画が我々に伝える教訓はあまり活かされておらず、そういう現状を少しでも変えるためにも、この映画の意味の概要を解説していきます。
 


【人間の進歩】

この映画は、ある一晩の様子のみが描かれます。あるタクシー運転手(マックス)が殺し屋(ヴィンセント)を車に乗せ、様々な試練がマックスに訪れ、そういった中でマックスは「向上」を実現し、あるべき自分へなっていく様が描かれます。

つまり、この映画で描かれているのは人間の「進歩」であり、本来の自分自身を実現することです。そして、そういうことを実現した最も大きな背景には、ある女性に対する「愛」があるということは大変重要な点です。

我々人間はなんとなく「自分のため」に生きていると、自分自身が本来持っている良い「力」を目覚めさせることはできません。それに対して、本気で「他人のため」に生きようとすることで、自分自身が本来持っている良い「力」に目覚めます。

この意味では、『千と千尋の神隠し』と似ています。ただの情けない女の子だった千尋はハクを守ろうとする「愛」が故に、本体持っている良い「力」に目覚めるからです。また、物語の中で「向上」のための様々な種類の試練を経験するという意味でも、この二つの作品は似た構造を持ちます。

『コラテラル』が大変優れているのは、マックスの「向上」の仕方にリアリティがある点です。いきなり急激な「向上」を実現するわけではなく、非常に泥臭く、情けない形でも、その時々の自分にできるヴィンセントに対する対抗手段を取りながら、徐々に「向上」していきます。

本来の自分の持っている良い「力」に目覚めるというテーマは、我々の生きている人生にとって非常に重大なテーマで、この映画程にその真実に臨場感がある映画は他にないかもしれませんから、この映画は大変重要な作品です。
 

【「火」と「氷」】

既に説明した点が最も重要な点ですが、主人公の二人の対立の意味を理解することも大事なので、補足として書きます。

ヴィンセントは「冷徹」な殺し屋であり、「自分のため」に他人を殺すことを何とも思っていません。そのような彼が使っているのは「氷の気持ち」であって、「氷の気持ち」自体は「善」にも「悪」にもなる中立的な精神性なのですが、ヴィンセントは「悪」のためにそれを徹底的に使う恐ろしい存在です。

マックスは「温かい」側面を持つタクシー運転手であり、「他人のため」に他人を楽しませることを夢見ています。そのような彼が使っているのは「火の気持ち」であって、「火の気持ち」自体は「善」となりやすい精神性ですが、マックスはまだ自身の「未熟」によって、「火の気持ち」だけを貫いている人間ではありません。

このような意味では、「悪」として非常にレベルの高いヴィンセントと、「善」としてレベルの低いマックスが出会うところから物語が始まり、最終的には、マックスが自身の「未熟」を徐々に乗り越えることにより、ヴィンセントに勝つという物語です。

「氷の気持ち」とは、非常に「冷徹」な形で「問題解決」を目指す精神性であり、ヴィンセントは金のために人を殺すという「問題解決」を実践し続ける人間です。トム・クルーズの演技はそういった「氷の気持ち」の本質を見事に表現しています。

「火の気持ち」は「愛」を動機に、誰かを「楽しませよう」とする心でもあり、誰かを「守ろう」とする精神性でもあります。マックスは最終的に自らの死のリスクを引き受けながらも、アニーを「守ろう」とするためにヴィンセントと闘います。
 

【『マイアミ・バイス』『ヒート』】

 

この作品を監督した巨匠、マイケル・マン監督は、「男とはどうあるべきか」という点を長年映画を通して伝え続けてきた監督です。そのような意味で、この映画はある「男」が一晩の試練を通して、本当の意味で「男」になったことを描いた映画でもあります。

「愛」が故に大事な人を「守ろう」とするために、敵と「闘う」という「闘いの心(火の気持ち)」は極めて「男性的」な精神性です。マックスを演じたジェイミー・フォックスはその精神への入り口の部分を『コラテラル』を通して我々に教えてくれます。

そして、ジェイミー・フォックスはマイケル・マン監督が『コラテラル』の後に作った『マイアミ・バイス』において、より「成熟」した「闘いの心(火の気持ち)」を表現しています。ですので、この映画と『マイアミ・バイス』はセットで向き合いたいところがあります。

また、マイケル・マン監督は『ヒート』という映画において、「闘いの心(火の気持ち)」の衝突を素晴らしい形で描いています。「ヒート(heat)」とは「熱」のことを意味しますが、「火の気持ち」を象徴するタイトルです。

ですので、この3本をセットで理解するなら、我々は「闘いの心(火の気持ち)」について理解を深められますし、「男とはどうあるべきか」という「問い」の様々な「答え」を受け取ることがしやすくなります。
 

【最後に】

大きな危機に遭遇した時、その時に我々が心負けなければ、我々人間は一晩で変わることができると思います。しかし、一晩で変わった自分はその後もずっと残り、良い形で変わった自分は、前の自分よりもより良いことを実現していけるはずです。

この映画の最後、マックスは震えるアニーの肩を抱えて歩いて去って行きますが、この描写は「愛」が故に大事な人を「守ろう」とする姿であって、本来の自分に辿り着いたマックスを象徴しています。

「コラテラル」とは日本語で「巻き添え」を意味します。我々のほとんどは影響力のある政治家でもなければ、有名な芸能人でもなければ、マックスのような庶民です。

しかし、そんな庶民もある時突然「コラテラル(巻き添え)」になることがあります。そんな時、今まで経験もしたことのないプレッシャーと向き合わざるを得ない状況を迎えます。そんな時に、どのようにその試練に向き合うべきなのかをこの映画は我々に教えてくれてもいます。