4月10日より、2回目のタイ調査を行なっています。あと20日間タイに滞在する予定です。

このページでは、この10日間に何を分析し、何を理解したかを整理して書いていきたいと思います。この10日間は主にタイの「闇」の調査にフォーカスを当ててきましたが、ここで書くのはタイの水掛け祭りについてです。
 

【水掛け祭りの概要】

タイの旧正月は4月13日から4月15日で、この期間のことをソンクラーン と言い、大規模な水掛け祭りがタイ全土で行われています。この水掛け祭りに参加し、映像を撮影するために、このタイミングで自分はタイに来た形になります。

タイの水掛祭りでは多くの人々が水鉄砲で水を掛け合ったり、白い粉のようなものを顔に塗り付け合うことを行なっています。しかし、昔からこのようなことをメインにやってきたわけではなくて、本来のソンクラーン は仏像や仏塔に水をかけたり、年長者などの手に水をかけてお清めをするといったことをメインに行なうものでした。今でもそういった行為はお寺などで行われていますが、メインではなくなっています。

水は様々な「邪気」を「浄化」してくれるものです。だからこそ、お清めのための道具となるもので、昔のタイ人達は一年間で仏像に入ってしまった「邪気」を「浄化」するために、一年に一回だけ水をかける習慣を作った形になります。また、自分の身の回りの人々を「邪気」から守るために、水を年長者の手などに掛けてきた形になります。

今のソンクラーン のメインは路上などでの水掛け祭りになってしまっていますが、どうしてこのような変化が起こったかというと、水の役割を見失っているからです。では、どうして水の役割を見失っているかというと、「気」のことを見失っているからです。

水は「気」を洗い流す力を持っていることを理解するためには、前提として「気」のことを知っている必要があります。逆に、「気」のことが分からなくなると、当然水の重要性も見失います。そういった構造によって、人々はソンクラーン 期間に行われる神事(祭り)の意味を見失い、意味を見失っている結果、その神事を狂わせてきた形になります。逆に言うと、昔のタイ人達はそういった水に関する基本的知識を持っていたということが、こういう神事(祭り)が生まれたことからよく分かります。

これは日本でも、世界の様々な地域でも同様に言えることですが、我々人間は「気」のことを忘れてしまったので、祭りの意味が分からなくなってしまっています。その結果、祭りがどのようにあるべきかを見失ってしまい、祭りが乱れていってしまっている形になります。

祭りは基本的に「光の気」を手に入れるため、または「闇の気」=「邪気」を取り払うための儀式であって、これは意味があることです。何故ならば、「光の気」は我々の心を正しい方向に導くからこそ手に入れるべきものであって、「闇の気」は我々の心を間違った方向にコントロールするからこそ手放すべきものだからです。日本語に書かれているように、「気」は「気持ち」の原因であり、「気付き」の原因であることがよく分かれば、自ずとこういうことはよく分かります。

「気」のことを分からなくなると、大事な祭りが乱れるだけではなくて、危険な祭りが流行りやすくなります。例えば、ハロウィンのような危険な祭りがどのような意味で危険かが分からないからこそ、ハロウィンが世界的に流行ってしまう形になります。ハロウィーンについては、こちらに書いています。

http://junashikari.com/other/halloween/

タイの水掛け祭りは、本来は素晴らしいものだったのに対して、現代では祭りが乱れ、ハロウィンのような危険な祭りになってしまっている現状があります。それは実際に参加し、その現場の空気感を肌で感じることによって深く理解できました。

参加する前は、水掛け祭りにはいい側面もあるのではないかと思っていました。何故ならば、水を掛け合うことは子供が遊ぶように「元気」で行なうこともできることだからです。強く「元気」を抱く時間が長ければ長い程、「元気(火の気)」が体に入るのでいい影響があります。しかも、水が人間にかかれば「浄化」はされるので、これもいいことです。

ですから、「元気」を強くする上でも、「邪気」の「浄化」の意味でも、水掛け祭りにはいい側面もあるのではないか、とも思っていました。しかし、三日間水掛け祭りの現場にいて、この祭りが「欲望」を強く促していることがよく分かりました。

以下、水掛け祭りがどのような「欲望」を促しているのか、どういった構造によって「欲望」を促しているのか、について書いていきます。
 

【水掛け祭りが人間に与える「欲望」】

・「攻撃欲」

水鉄砲は他人を攻撃するための道具です。そして、他人を攻撃することは「欲望」の実践のための手段にもできます。例えば、いじめっ子がいじめをするのは、彼らは他人を攻撃することから「快楽」を得ているからです。

水掛け祭りの間、他人を水鉄砲で攻撃することを「欲望」で楽しんでいる人達をたくさん見ました。普通、何らかの道具によって物理的に他人を攻撃することはできませんが、水掛け祭りの中ではそれが容認されます。だからこそ、そういう「攻撃欲」に本質的に共感できる人は、普段はできないその「攻撃欲」の実践を楽しむことができてしまいます。

「攻撃欲」を持っている人からすると、攻撃されると困るような人達は格好の標的です。何故ならば、「攻撃欲」を抱くならば、相手により大きなダメージを与えることから大きな「快楽」を感じられるからです。例えば、普通に旅行カバンを無防備に持っている人や、これから仕事に向かおうとしている人達など、そういった人達は濡れるとマズイからこそ、「攻撃欲」を抱えている人達は攻撃したくなります。

そういった攻撃が起こった場合、攻撃された方が寛容でなければ揉め事に繋がっていきます。水掛け祭りおいて、「怒り」はタブーとされてはいますが、外国人観光客などは「怒り」がタブーであることを知りませんから、「怒り」に堕ちるケースもあります。また、「怒り」にならなくても、攻撃された方は確実に「嫌悪」などには堕ちますから、そういったことが「闇」を助長します。

水掛け祭りに参加するとよく分かりますが、水鉄砲でよく狙われるのは耳の穴です。耳の穴に水が入ることはいいことではないからこそ、「攻撃欲」を持っている人達はそこを狙う形になります。
 

・「性欲」

また、「攻撃欲」と別の「欲望」が「性欲」です。水掛け祭りが激しく行われる地域にはたくさんの飲食店も並んでいますが、そういった飲食店の中には、客引きとしてセクシーな女性を宣伝に使っている店も多くありました。水掛け祭りに参加していると、そういった女性達を多く見ることになります。

そして、そういった女性を水鉄砲で攻撃することを男性は「性欲」の実践のために行なっています。一番暑い時期なので女性も露出の多い服をかなり着ていますし、服が濡れると服が透けますから、そういった状況が男性の「性欲」を掻き立てています。また、女性の中には自分のセクシーさをアピールすることを「自己顕示欲」や「優越感」で行なっている人もたくさんいました。

つまり、男性としてはセクシーな女性達を見たい、攻撃したいという「性欲」があるのに対して、女性としては自分のセクシーさをアピールしたい、という「自己顕示欲」を持っている人もいるからこそ、お互いの利害が一致してしまっています。だからこそ、そういう「性欲」の方向性がより強まっている形になります。

あと、白い粉を塗り付ける行為は実際に異性に触れることにもなりますから、その触れる行為を「性欲」で行なっている人達も多くいます。若い男の子達が女の子を襲うような形で白い粉を塗りたくっている場面もありました。

今回、水掛け祭りに参加するに当たって、この祭りに参加した日本人のインターネット上の文章なども色々読みましたが、その中には、「タイ人女性をビショビショにしてしまえ!」といった「性欲」を掻き立てるような文章も多くありました。そして、そういった文章を読んだ日本人男性が「性欲」を満たすためにタイに行っていることも多くあると思います。実際、日本人もよく見かけました。

あと、今回自分は行きませんでしたが、水掛け祭り中のナイトクラブでは、たくさんのモデル達を用意し水着を着せたりしています。そういった現場などでも、人々は「性欲」に同調してしまっているはずです。

このような形で、水掛け祭りは「性欲」を参加者に与える構造を持っています。
 

【「欲望」を助長する構造】

・クラブ音楽

人々が「攻撃欲」や「性欲」を抱くことを促しているのが音楽です。水掛け祭りが行われている様々な現場では、クラブ音楽が大音量で流れています。もし、タイの伝統音楽でも流れていれば、まだ人々の心も「欲望」ではなく「元気」の方に行けるのですが、「欲望」を強めるようなクラブ音楽が流れているケースがほとんどなので、人々は音楽によって「欲望」に行きやすくなっています。ちなみに、これは水掛け祭りだけではなくて、タイ全般において言えることですが、西洋のクラブ音楽がタイを荒らしている側面は強くあります。

音楽は我々がどういう気持ちを抱くのかを操作できる道具です。正しい使い方をすれば大きな武器にもなるのですが、間違った使い方をすると自分自身を傷付ける諸刃の剣です。クラブ音楽は危険な音楽であって、これが水掛け祭りの雰囲気を危険なものにしてしまっています。


・タイ人の国民性

これは以前も書きましたが、タイは「微笑みの国」と言われる程、本質的に「火の気持ち」が強いです。そして、「火の気持ち(元気)」は楽しむことを目指す気持ちであって、そういった方向性が「欲望」に非常に近い構造を持っています。だからこそ、タイ人達は「欲望」に堕ちやすいです。

また、「火の気持ち(闘いの心)」は「闘い」のための気持ちですが、タイ人の「闘いの心」は非常に「元気」に近い側面もあり、「闘い」を「元気」で楽しんでいるようなところがあります。つまり、「元気」と「闘いの心」の境目が曖昧に見える程に、「元気」と「闘いの心」が近くなることがあるということです。逆に言うと、タイに行くと、「火の気持ち」には「元気」と「闘いの心」の二面性があるということを、より深く理解できます。

このような意味で、「闘い」を「元気」で楽しむことができる国民性が、水掛け祭りに水鉄砲を使い始めた最初の動機だったのだと思います。今でも「元気」で水鉄砲で攻撃し合っているタイ人達はよく見ましたし、それは何も問題はないのですが、「欲望」に堕ちる人が多いことも事実です。

また、「火の気持ち(元気)」は基本的に肯定的な気持ちですし、楽しもうとする気持ちなので、クラブ音楽といった海外からの様々な「欲望」の道具がタイ国内に入ることを、タイ人達も喜んで受け入れている側面があります。これは「火の気持ち(元気)」の肯定的な側面が悪く作用しているということを意味します。

「火の気持ち(闘いの心)」は大事な者を守るために敵と闘う気持ちですが、タイ人達は「欲望」がどのような意味で敵なのかを理解していないが故に、「欲望」と闘うことはできていません。ですから、「欲望」がタイ国内に入ることを防ぎ切れていない側面があります。これは、「気(持ち)」のことを見失ったが故に、敵が何なのかが分からなくなっているということを意味します。

このような形で、タイ人達の国民性やタイ人達が「気(持ち)」のことを理解していないことが、水掛け祭りの発展を支えてしまっている形になります。このような構造は水掛け祭りだけではなくて、タイにおいて全体的に言えることです。
 

・外国人観光客

全体的傾向として、外国人観光客はタイ人達よりも「火の気持ち」が弱く「欲望」が強いです。タイは本質的にはとてもいい国で、「火の気持ち」に守られ続けた国であるのに対して、タイ以外の国(例えば、日本も含めて)はタイよりは「火の気持ち」は弱いですし、「闇」が強い国ばかりです。

だからこそ、自ずと外国人観光客がタイ人よりも「火の気持ち」が弱く「欲望」が強い傾向はありますし、観光客はそもそも楽しむために来ているので、「欲望」を動機にしている人達が多いです。そういった「欲望」を抱えている人達が水掛け祭りの全体的な雰囲気を「欲望」に寄せていることがよく分かりました。

タイが「火の気持ち」に守られてきた大きな要因は仏教です。仏教の神々がタイをずっと守り続けている歴史があります。それに対して、悪魔としてはそういったタイを自分達の国にするために、観光客やクラブ音楽といった「闇」の要素を使って攻撃している形になります。

昔は戦争などを通して神々と悪魔は闘ってきたところがあります。しかし、今の神々と悪魔の闘いは戦争ではなく、一番大きな闘いはビジネスです。これは今の世界を理解する上で、最も基本的で重要な物の見方なので、覚えておいて頂けると幸いです。どうしてこのように言えるかというと、今世界を動かしている大きな要素がビジネスだからです。

そして、ビジネスの一つが観光であって、悪魔としては自分の使いとしての人間を攻撃したい国に送っています。これは神々としても同様で、神々としては自分の使いとしての人間を守りたい国に送っています。このような観点で観光ビジネスを理解することはとても大事です。

悪魔としては「欲望」の強い、自分の使いとしての観光客をターゲットの国に送り込むために何をするかというと、「欲望」に取り憑かれている人間が好きそうなビジネスをターゲットの国の中に用意します。例えば、タイで顕著な「欲望」の餌は、様々な性サービスビジネスです。タイでは日常的に売春が行われていますし、様々な風俗店があります。「性欲」に取り憑かれている人からすると、これはタイに行きたくなる動機であって、そういう動機でタイに来るならば、徹底的に「欲望」を撒き散らして観光客はタイから去って行く形になります。そういったことによって、悪魔としては、タイの中の「欲望」を強くすることによって「愛」を弱くし、神々からタイを奪おうとしている形になります。

タイは非常に強く観光ビジネスによって悪魔から荒らされているからこそ、悪魔がどのような形でターゲットの国に攻撃をしているのかを理解する上でとても分かりやすい国です。また、タイを守り続けている神々も当然様々な形でタイを守ろうとしていますから、神々と悪魔の闘いが非常に分かりやすいです。つまり、タイという国は現代の光(神々)と闇(悪魔)の闘いを理解する上で、非常に参考となる国です。そのような意味があって、最近始まった新しい旅はタイから始まったと認識しています。

(この写真はタイのある画廊の中の正面の壁です。この画家は神々と共に絵を描いているからこそ、タイの本質を見事に表現してくれています。映画『ダークナイト』のジョーカーを演じたヒース・レジャーは悪魔に取り憑かれながら演技をしていたからこそ、このジョーカーは悪魔そのものです。それに対して、ブッダはタイをずっと強く守り続けている神様です。そういった対立軸が見事に正面の壁に表現されています。)

悪魔は観光ビジネスを使っていることについて、一つ触れておきたいのが台湾とタイの違いです。台湾もタイも素晴らしい国ですが、両者で圧倒的に異なる点が観光客の多さです。台湾はタイほどには観光客は多くはなく、だからこそ神々が守りやすい側面があり、台湾はいい国であり続けることができています。それに対して、タイは台湾よりも圧倒的に観光客が多く、そのせいでどんどん闇が強くなっています。

どうして台湾の観光客がそんなに多くないかというと、「欲望」に取り憑かれている人達が好みそうなビジネスも少ないですし、観光地としての魅力もタイ程強くないからです。タイは美しいビーチがたくさんあり、これは多くの人が好むものであって、観光地としての魅力です。しかし、台湾はタイ程美しいビーチもないので、そういうこともあって観光客がそれ程多くない現状があります。しかし、観光客がそれ程多くないことが台湾を守っています。

ビジネスの観点からすると、観光ビジネスがうまくいくということはいいことで、観光ビジネスがうまくいかないことは悪いことです。しかし、実際は観光ビジネスがうまくいくことによって、その国が狂うこともあれば、観光ビジネスがうまくいかないことによって、その国が守られることもあります。これはタイと台湾の両方に行ってみると、対立軸を通してよく理解できます。

自分としては、最近台湾とタイの両方にいて、このことが理解できて良かったと思っています。非常に理解が深まったので、この点をシェアできるようになったからです。このことについては、また別で詳しく書くかもしれません。台湾は日本人観光客が多いのに対して、タイは西洋人観光客が多いですが、日本人観光客と西洋人観光客は悪影響の与え方が異なるので、これはいつか触れるかもしれません。
 

・商売

観光ビジネスの話とも繋がりますが、水掛け祭りが流行ることを促している原因の一つが商売です。水掛け祭りによって、人がたくさん集まれば、そこで商売をする人達や、そこに商売をしに行く人達からすると、とてもいいビジネスチャンスです。つまり、お金を儲けたいという人々の「欲望」がこの水掛け祭りをより大きくしていっています。

このようなビジネスチャンスの構造によって、よく人間は悪魔と手を組み、お金という利益と引き換えに、悪魔の実現したい目的のための駒として操作されます(ビジネスが全部悪いと言っているわけではなくて、光のビジネスもあれば、闇のビジネスもあります)。

これはとても分かりやすい話なのですが、水掛け祭りが行われるにあたって、大量の水鉄砲が売れます。しかし、水鉄砲は年中使うものではないですし、観光客は使い捨てで買うだけなので、本当に大量の水鉄砲のゴミが生まれます。これだけ考えても、水掛け祭りの水鉄砲ビジネスはいいものではないことは明らかです。けれども、「欲望」に取り憑かれると人間は自分のことしか考えられなくなるから、こういった問題を無視できるようになってしまいます。

「欲望」に同調した状態で自分の金儲けのために商売を始めると、自分のことしか考えないが故に何らかの問題を生み出し、社会に悪影響を与えてしまうことは、「欲望」の基本法則です。
 

・時間帯

日中は太陽の光があるので、我々の心は太陽からの「火の気(元気)」を通して「元気」に行きやすいです。それに対して、夜は太陽の光がないので「元気」の方に行きにくくなります。水掛け祭りは昼間からやっているのですが、夜遅い時間まで続いています。そして、参加すれば分かりますが、夜になればなるほど「欲望」は強まっていきます。夜まで水掛け祭りが続いていることも、「欲望」を強めている大きな原因の一つです。
 

・湿度の高さ

これは少し分かりづらい話なので、理解できない方は読み飛ばしてほしいのですが、もう一つ「欲望」を強く促しているのが、湿度の高さです。気温が高いと水は水蒸気になりやすいですが、ソンクラーンの時期はタイで最も暑い時期かつ、水掛け祭りが激しく行われる場所は必ず人口密度が異常な程高くなりますから、人々の体温のせいもあって、ものすごく湿度が高くなります。水鉄砲で掛け合っている水が水蒸気になりやすいということです。

水が浄化を促すのは、水は「気」を強く宿すことができるものだからです。これは水が水蒸気になった場合も同様で、水蒸気には乾燥した空気よりも圧倒的に多くの「気」が宿ることになります。だから、湿度が高い現場で呼吸をするのであれば、様々な「気」が宿った水蒸気を身体に入れることになります。

(余談ですが、こういう理由によって換気をしない部屋で加湿器を使うことは良くないです。日本は「闇」が強くなっていて、「気」のことを忘れているからこそ、日本人は換気をしない部屋で加湿器をよく使っています。水掛け祭りでもそうであるように、「気」のことが分からなくなると、自分自身で毒を飲むようなことをし始めますが、これは日本の日常でも常に起こってることです。)

水掛け祭りの間、多くの人は「欲望」に同調していますから、辺り一帯「欲望の気」=「邪気」に満ちています。だからこそ、その現場にいるのであれば、そういった「邪気」が宿った水蒸気を呼吸によって摂取することになります。

水には「気」を強く宿す力がある、という基本的な知識を見失っているからこそ、水をかけることによって仏像に宿った「邪気」を「浄化」するといった伝統的な習慣の重要性を忘れ、むしろ、水を「邪気」を吸うための道具として使ってしまっている形になります。

このような意味で、タイのソンクラーン は神々と人間の間で行なわれてきた神事としての側面が乱れ、悪魔と人間の間で行われている悪魔の儀式と化してしまっています。悪魔に対して、本当に「敵ながらあっぱれ」としか言えない状況を悪魔は作り出しています。

実際、悪魔のようなお面を付けた人達をたくさん見かけましたが、悪魔としては、人間が全然何を自分達がやっているのかを知らないことを馬鹿にするために、こういうお面を付けさせている形になります。これは、悪魔の神々に対する挑発です。

悪魔は「邪気」=「闇の気」によって人間の心を操作できます。つまり、「欲望」に同調するのであれば、悪魔がもたらす「快楽」と引き換えに、人間は「邪気」を身体に抱えてしまい、心を悪魔に操作されます。ですから、悪魔のお面を付けた人間は本当に悪魔が乗り移っている人達の姿であって、悪魔がそういった「真実」を人間に見せておきながら、人間がそこに「真実」があることに全然気付かないということは、神々からすると悔しいことです。何故ならば、神々としては人間を「邪気」から守るために、その「真実」を人間に伝えたいと思っているからです。

神々が人間に対して伝えたいと思っていることを悪魔が表現しているにも関わらず人間に伝わらない、という状況は悪魔の神々に対する「皮肉」です。こういった「皮肉」は神々からすると本当に嘆かわしいことだからこそ、悪魔からするとやっていて面白いことです。

自分はこの「皮肉」の構造を通して「真実」を伝えるためにこれを書いていますが、伝わるかどうかは読み手次第です。伝わらなければ、この文章さえも「皮肉」になってしまいますし、伝われば読み手は「真実」を理解できます。神々は「真実」を人間に伝えたいと思っているので、読み手がこの文書を通して「真実」を理解できるのであれば、神々としてはとても喜ばしいことです。

「真実」が人間に伝わるかどうかということについて、いつも神々と悪魔はこのようなスタンスで人間を見つめているということも、この文章を通して理解して頂けると幸いです。神々は「真実」が人間に伝わることを喜び、悪魔は「真実」が人間に伝わらないことを面白がっています。

 

【この期間の深刻な交通事故数について】

ソンクラーン の期間中、タイでは交通事故が多発します。何故ならば、人々は「邪気」を体に抱えてしまうが故に、それが「甘さ」などに繋がり、「甘さ」が飲酒運転などを誘発し、なおかつ「邪気」を使って運転を操作するからです。

交通事故の多い4月11日から17日のことをタイでは「危険な7日間」と呼んでいるのですが、今年のこの期間の交通事故数は3724件で、死亡者数は418人でした。前年を7%上回っている数字になります。年々交通事故数は増えているのですが、この数字が表すことは闇の儀式がより力を強めているということです。私も事故の現場を複数見かけました。
 

【最後に(この問題を解決するための方法)】

今後タイの水掛け祭りがどうあるべきかですが、警察が規制をするしかないと思っています。実際、夜の遅い時間になると警察も動き、お店の音楽を止めるように指示を出している場面を見たのですが、しばらく音楽が止まったかと思うと、それぞれのお店は警察の忠告を無視して再び音楽をかけ始めていました。

この構造には何があるかというと、警察とお店の両者が抱えている「甘さ」です。警察がストイックに取り締まらないのは、「まあ、この辺でいいだろう」という「甘さ」、お店が音楽を止めないのは、「儲かりたいし、まあ、他の店も音楽を鳴らし始めるだろうから、警察も手を出さないだろう」という「甘さ」です。また、タイでは警察が「甘さ」を原因として賄賂を受け取ったりすることが多いのも事実です。そういった賄賂が色々な物事を狂わせています。

「火の気持ち(元気)」はとても「甘さ」に近い気持ちだからこそ、タイ全般において「甘さ」が「闇」を助長している側面はいつもあります。例えば、そもそもタイは交通事故が非常に多い国なのですが、その背景には運転の「甘さ」があります。

また、「火の気持ち(元気)」自体も物事に肯定的で楽観的なものです。だからこそ、問題を見ようとする気持ちではなく、良くも悪くも「火の気持ち(元気)」は寛容です。そういった寛容の精神を警察などが使い過ぎるのであれば、取り締まるべき部分も取り締まれなくなっていきます。

タイ人は本質的にいい人が多いです。だから、「欲望」が大事な人達を傷付けていく本当に危険なものだと分かるならば、もっと「欲望」と「闘おう」とし始めます。ですから、タイ人達が「気」のことを理解することが最もいいのですが、「火の気持ち(元気)」は能天気な側面があるので、なかなか学ぼうとしてくれないことも予想できます。

ただ、このことについては一つ希望があって、タイの出家制度です。タイではほとんどの男性が人生の中で一度出家し、寺院で修行をします。そのことがタイの「光」をとても強く支えてきたのですが、現代のタイの仏教寺院の質が下がってきていることが、この出家制度の質を下げています。もし、タイの仏教寺院の質が上がったり、「気(持ち)」のことをもっと教えるようになるのであれば、国民全体の「光」が強くなっていくので、仏教寺院はタイにおいて、とてつもなく重要な要素です。

しかし、手っ取り早い方法は、権力を持つ警察を動かせる人間が、「気(持ち)」のことを理解することです。「気」のことを理解しなくても、「欲望」がタイを狂わせているという問題をもっと意識することです。権力を持った人間がそういうことを理解し、その上ですべき行動を取ってくれれば、そういう人達は警察を動かせますから、警察を使って「欲望」を強制的に封じ込めることができます。

「火の気持ち(元気)」は学ぼうとする方向性ではないので、タイ人全体が「気」の知識を理解していくことは絶対に不可能です。また、「欲望」に取り憑かれた人達は自分達の「欲望」を止められるとなると「怒り」に堕ちることは間違いないです。そういった「怒り」を黙らせることができるのは、国家権力しかありません。

だからこそ、警察がもっと厳しく夜間の水掛け祭りを取り締まるといったことしか、この問題を解決する方法はありません。もし、この祭りが日中の間だけに厳しく限定されるだけでも、「欲望」をかなり抑え込むことができます。そういったことを行なうためには、警察を動かせる人間が「愛」の気持ちで厳しくタイ国民に接するしか道はないと思っています。