『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は非常に重要な意味を持った映画です。

というのも、この映画は「自己(意識)とは何なのか?」という非常に重要な問題を考えさせる映画であり、なおかつ、文明の発展によって「自己」に対する認識がどのように変化していく可能性があるのかということも示すからです。

「自己(意識)とは何なのか?」という「問い」は生きていく上でとても重要な「問い」ですし、哲学の分野でも様々な形で考察されてきたテーマでもあります。また、これから人類は更に様々なテクノロジーを発展させ、身体の延長にもより手を出していくわけですが、そういう未来を待ち受けている我々に対して、この映画が「自己(意識)」の変容の可能性について伝えることは大変多いです。

また、この映画は文明が進んだ世界において、どのような犯罪が起こり得るのかということも我々に教えてくれます。さらに、この映画の主人公である少佐の使う精神性も大変興味深いものなので、そういったことについても解説させて下さい。

[予告編]

 

【「自己(意識)」とは何なのか?】

「自己(意識)とは何なのか?」という「問い」について、少佐(草薙素子)のセリフが重要な意味を持っています。ですので、その素子の言葉を踏まえて、この映画が伝えるこの「問い」に対する「答え」を分析したいと思います。素子のその発言はこちらです。

「人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なの。 他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めのときに見つめる手、幼かった頃の記憶、未来への予感。それだけじゃないわ、私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして同時に、私をある限界に制約し続ける。」

このセリフは非常に重要な意味を持つので、このセリフの前半と後半に分けて解説していきます。
 

[前半]

「他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めのときに見つめる手、幼かった頃の記憶、未来の予感」という部分は現代を生きる我々にも共通しているものです。そして、これらの要素を整理するなら「身体・心・記憶・予感」の4つの要素に分けられると思います。それぞれを解説していきます。
 

・「身体」

自分の「身体」は「自分が自分である」という意識を形成する上で、とても分かりやすいものだと思います。というのも、逆に、例えば、ある日突然見た目が変わってしまったら、「自分が自分である」ことが分からなくなるからです。

この映画の中では、身体を作り変えること(義体化)が普通に行なわれています。素子は実際に身体のほとんどの部分をそうやって作り変えた存在なわけですが、元々の「オリジナル」の身体ではない「義体」としての手を目覚めた際に見つめる時、彼女は「義体化」することを選んだ自らの「選択」を無意識にも感じるはずです。

現代でも、大きな整形などをした人は既に感じることかもしれませんが、もし人間が「義体化」を行なうことがより普通になった時、自分の「身体」を見つめる行為は、「義体化」を選んだ自分の「選択」の「動機」を再確認することを促すはずです。

「身体」の「義体化」によって、自分の身体に対する認識がこのように変化する可能性を、この映画は感覚的に伝えてくれます。
 

・「心」

「身体」と同様に、自分が普段使っている「精神性」などによっても、我々は「自分が自分である」ことを認識しています。逆に、例えば、目覚めた時に「心」の性別が変わってしまっていたら、「自分が自分である」とは思えないと思います。

ただ、「心とは何なのか?」という「問い」に踏み込むなら、この問題は更に複雑になってしまいます。つまり、「心は自己を形成している」と考えることは分かりやすいのに対して、「心とは何なのか?」という「問い」は、現代においては簡単な「問い」ではないからです。

ただ、素子はこの点についても重要なセリフを残しています。海の奥底に潜っていく経験について、バトーに尋ねられた時に素子はこのような発言をします。

「恐れ、不安、孤独、闇。それからもしかしたら希望。海面へ浮かび上がる時、今までとは違う自分になれるんじゃないか、そんな気がする時があるの。」

我々人間は外界からの影響によって、自分の「心」に変化を経験しながら生きていますが、素子が海に潜ることは海からの影響を受けることを促し、そのことが結果として「今までとは違う自分になれるんじゃないか」と感じさせます。

つまり、我々はその時までの「自己」の「心」を、その時に外界から受ける影響によって少しずつ変化させながら、「自己」を成立させています。
 

・「記憶」

「記憶」について、この映画の中では非常に重要な意味を持つ人物が描かれます。それは、人形使いによって利用された清掃員の男であって、後から植え付けられた記憶により、自分には妻と子供がいると思い込んでいる男です。彼は「記憶」を植え付けられたことにより、行動を操作されている存在として描かれます。

そういった彼の姿から、逆に、如何に我々が「記憶」によって「自分が自分である」という意識を実現しているのかを分かることができます。この点を理解することは大変重要なことです。

というのも、ほとんどの我々人間は彼のように「記憶」を植え付けられることはなくとも、覚えていることと忘れてしまったことはあり、今の自分自身が覚えている「記憶」によって「自己同一性」を保っているということを認識することは非常に重要だからです。

また、この彼の描写から、いつか我々が「記憶」の外部化や操作ができるようになった時に、このような問題に直面し得るということを伝えていることに、この映画の一つの大きな価値はあります。というのも、そういう問題の可能性を具体的な物語の中で示すことにより、そのような問題が起こることを防ぎやすくなるからです。

余談ですが、「記憶」と「自己同一性」の関係性については、映画『トータル・リコール』などでも触れられています。
 

・「予感」

「予感」は未来への「道」を事前に我々に教えてくれるものだと思います。例えば、「なんだか、こういうことがあるんじゃないかと思う」といった「予感」は「道」を示すからです。そして、「道」は我々の「自己(意識)」と密接な関係にあります。

「予感とは何なのか?」ということも「心とは何なのか?」という「問い」と同様に、現代においては簡単な「問い」ではありません。

ただ、この映画の中で度々出てくる「ゴーストがそう囁く」というセリフが伝えるように、「予感」は我々に与えられているものとは言えると思います。というのも、我々人間は我々自身の「意志」として「予感」を「起こす」ことはできず、「予感」は「起こされる」ものだからです。
 

[後半]

「(自分が自分であるためには)それだけじゃないわ、私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出す」ということは、現代を生きる我々には大変分かりづらいです。

というのも、現代を生きる我々は電脳で情報やネットにアクセスしたことがないからです。だからこそ、そういうことを実現した時に、自分自身の「自己(意識)」がどのように変化するのかが分かりづらいです。

しかし、我々でも電脳を使わずに情報やネットにアクセスすることは日常であって、そのことにより「自己(意識)」を変化させていることは分かりやすいことだと思います。

例えば、ネット記事にせよ、YouTube動画にせよ、何か情報やネットにアクセスすると、我々は何か「アイデア」を植え付けられます。それは「この食品は体に良い」といった直接的な「アイデア」かもしれませんし、自分の好きな芸能人がある食品を食べている様子を見て、その食品に対するイメージを無意識に上げるといった間接的な「アイデア」かもしれません。

どういった形にせよ、我々は情報やネットにアクセスすることで、様々な物事に「印象付け」や「意味付け」を無意識にしています。そして、そういう「印象付け」や「意味付け」により我々の「自己(意識)」は変化しています。何故ならあ、そういう「印象付け」や「意味付け」は世界の見え方を変える力があるからです。

仮に電脳を通して、膨大な情報に直接的にアクセスすることができるようになれば、そういった「印象付け」や「意味付け」も膨大になることは明らかだからこそ、ネットから受ける影響も更に増大することは予想できます。

実際にそのような電脳化が実現可能かどうかは置いておいて、現代を生きる我々であっても、情報やネットにアクセスすることにより、どのように「自己(意識)」を変容させているのかを考えてみることはとても大事なことです。

というのも、そういう構造が見えてくれば、どのような自分になりたいのかということを踏まえて、どのような情報にアクセスすべきなのかも見えてくるからです。逆に言うと、現代はただのエンターテイメントとして情報にアクセスしがちで、その結果としてどのような自分になるのかということを意識しない人がほとんどの状況で、本人がなりたいと思っていない自分になっていくことを無自覚に選びがちです。これは現代の地球の抱える一つの大きな問題でもあります。

とにかく、素子の「私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出す」というセリフは、これから人類が電脳化を実現することになるのであれば、直面するであろう「自己(意識)」の変容の可能性を我々に伝えています。
 

[まとめ]

素子の一つのセリフについての解説が大変長くなってしまいましたが、こういった解説から、如何にこのセリフが重要なのかを感じて頂けると幸いです。

そして、現代を生きる我々において共通の部分を通して、「自己(意識)とは何なのか?」という「問い」について理解を深めて頂けると嬉しいですし、共通ではない部分に関しては、「義体化」「電脳化」を進めることで「自己(意識)はどのように変容するのか?」といった可能性を垣間見て頂けると幸いです。
 

【文明が進むことにより、どのような犯罪が起こり得るか】

文明の進歩は世界構造を変え、世界構造の変化は新しい犯罪を生み出します。そういった可能性を伝えていることにも、この映画の一つの大きな価値があります。何故ならば、この映画を通して、そういった危険な可能性を理解できたなら、事前にそういう犯罪が起こらないように文明を進歩させようと思うことができるからです。

この映画は病んだ世界を舞台としていますが、病んだ世界では人は「儲かる」か「儲からないか」を基準に動くので、その文明の進歩が本質的に「良いもの」か「悪いもの」かを問わなくなります。そういった結果として、病んだ世界では危険な文明の進歩は起こりやすくなるものです。

一度進んでしまった文明の進歩を後戻りさせることはできないからこそ、この映画を大きな参考としながら文明を進めていくことが今の時代を生きる我々にとって非常に重要です。

だからこそ、以下、この映画の世界の中での犯罪構造について説明していきます。
 

・「ハッキング」の変化

「電脳化」を通して個人が直接ネットにアクセスできるようになった世界では、個人が直接「ハッキング」される可能性が生まれます。つまり、現状の世界では「ハッキング」されるのは機械ですが、「電脳化」を実現した世界では人間が「ハッキング」される可能性があるということです。

実際、この映画の中では「ハッキング」されたことにより、「人形使い」の「人形」にされてしまった人物達が描かれます。また、「電脳化」を既に行なっている素子やバトーなどは、直接「ハッキング」されることの「不安」を感じざるを得ない状況も迎えています。

個人とネットを直接繋ぐことを可能にすることに、このようなリスクがあるということを我々が認識することはとても大事なことです。
 

・プログラムの暴走

人形使いの正体はコードネーム2501というプログラムですが、その暴走がこの物語の一連の事件の中心となっています。

『ターミネーター』シリーズでは機械の暴走により、核戦争が起こってしまう世界を描いていますが、このような意味では、この映画も似た側面を持っています。こういったことの危険性を理解することは、新しいテクノロジーと向き合っていく上で非常に重要な点なので、この映画がプログラムの暴走を描いていることには大きな意義があります。


・自分が自分の所有物ではなくなる可能性

このこと自体は犯罪ではありませんが、この映画の中では「義体化」を行なった少佐の体が政府の所有物であることが描写されます。このような構造は「義体化」が行われるからこそ起こり得る構造です。この点も「義体化」を我々が取り入れていく上でよく考えなければならない問題を伝えています。
 

【少佐(草薙素子)の精神性】

素子は非常に「冷静」な「問題解決の心」を並外れた形で使う人物です。こういった「問題解決の心」を「水の気持ち」と言います。

『鬼滅の刃』の水柱である冨岡義勇なども、素子と同じく、非常に「冷静」に「問題解決の心」を実践しますが、その意味では、素子と冨岡義勇は同じ立場にあります。『もののけ姫』のアシタカも同じ立場の人間ですが、そういった「水の人」の中でも、素子がどういう「水の人」であるのかを感じ取ることはとても大事なことです。

また、そういうことが見えてくると、素子が海に潜ることを好んでいることの深い意味も見えてきます。素子は本質的に「水の人」だからこそ、「水」である海と非常に相性がいい形です。以下、素子の司る「水の気持ち」の意味を解説していきます。
 

・「問題解決」の能力の高さ

彼女はどのような場面においても、人間離れした「賢さ」と共に、非常に「冷静」に「問題解決」を行ないます。そして、そういう態度が瞬時に最善の形で物事を進めることを促しています。

例えば、トグサとの会話の中で「援護される身としては、好みより実行制圧力を問題にしたいわ」といった一連の発言はそういう立場を象徴しています。この発言は「好み」よりも「問題解決」を優先することの表れです。

また、その会話の後に敵に襲われた際、「トグサ、まだ生きているなら、回収車の二人を拘束!」といった発言にも彼女の特徴は出ています。この発言には彼女が「問題解決」を最重要視し、「優しさ」が希薄であることも伝えますが、「問題解決の心」と「優しさの心」は全く相反する精神性だからこそ、片方に寄ると、片方が養われないということはよくあることです。

素子は凄まじく「問題解決の心」が強いからこそ、「優しさ」に関しては希薄な人間として描かれています。そういうところが、「冷徹」とも思える態度さえも生み出します。また、「問題解決」を最優先するからこそ、バトーが素子を「守ろう」とするが故に色々伝えるアドバイスをあまり聞かないスタンスも形成しています。

このような形で、凄まじい「問題解決の心」の有効性をかなり描いている一方、その短所も描写していることも、この映画の一つの価値です。
 

・「問い」の能力の高さ

「問題解決の心」は物事の本質を見極めようとします。何故ならば、根本的な「問題」とは何なのかを見極めることが、「問題解決」の最初のステップだからです。

そして、そういう態度が「問い」を立てることを生み出します。何故ならば、根本的な「問題」を明らかにする上で必要なものが「問い」を立てることだからです。

そういった「問い」に対して、良い形で「答え」を見出すために必要なものが、「賢さ」であり、自分にとって都合の悪い「答え」であっても受け入れられるだけの「強さ」であり、「感情的」に判断をしない「冷静さ」です。

そういった全ての能力について、素子は非常に長けているからこそ、物事の本質を見極めることができます。

この映画の次回作である『イノセンス』においては、「問い」ではなく「疑い」の性質がよく描かれています。「問い」は非常に客観的に疑問を立てることであるのに対して、「疑い」は感情的に疑問を立てることを促します。というのも、「疑い」は元々何かを「否定的」に捉える心が混ざっているのに対して、「問い」はそういった心を含まないからです。

「問い」の前提にある心はどのような結論であっても受け入れられるだけの「強さ」であるのに対して、そういった「強さ」が無ければ、心の奥底で元々何らかの「答え」を求めてしまい、そういう「弱さ」が「疑い」を生み出します。このような意味で、「強さ」が「問い」を生み、「弱さ」が「疑い」を生むという構造は非常に大事な点ですし、素子が「強さ」を持っているが故に「疑い」に堕ちずに「問い」を貫けるという構造を理解することも大変重要な点です。

このような意味で、「問い」と「疑い」の両者の違いを理解することはとても大事だからこそ、是非この点について、『イノセンス』と対比させながら映画を活かして頂けると幸いです。『イノセンス』の解説はこちらに書いています。

http://junashikari.com/cinema/innocence/
 

・「思考」と「直感」のバランスの良さ

「問題解決の心」を素晴らしい形で使う人であっても、頭で物事を「思考」することに拘り過ぎ、「直感」の力を使わなくなる人は少なくありません。

しかし、素子は素晴らしい形で「思考」するだけでなく、「直感」の力を信じているところもあります。それを象徴するのは「そう囁くのよ 私のゴーストが」というセリフです。

このバランス感覚は非常に重要な意味を持っています。というのも、我々人間にとって「思考」と「直感」の両方を良い形で使い分けることが理想だからです。

全ての物事について、最善な方法を「思考」で見出すことは不可能です。何故ならば、我々は「思考」に必要な全ての前提を認識することが不可能な存在だからです。

だからこそ、「直感」に頼らざるを得ないことはあり、素子の「思考」と「直感」のバランスは、「問題解決の心」を実践する人間の一つの理想を我々に教えてくれます。
 

・「向上心」の危険性

ただ、彼女は「問題解決の心(水の気持ち)」が故に、人形使いに惹かれている部分もあります。この構造を理解することは大変重要です。

「問題解決の心」が自分自身の「問題」を「解決」することを目指す時、それは「向上心」となりますが、素子は非常に強い「問題解決の心」が故に、人間離れした「向上心」も持っています。

そういった精神性が、「それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして同時に、私をある限界に制約し続ける」という思考も生み出します。

つまり、彼女は「自己(意識)」の本質を「問う」ことを重ねていった結果、「自己(意識)」の限界を見極め、それを「問題視」することを行ない、「向上心」が故にその限界を突破することを願います。だからこそ、映画の終盤、素子は人形使いとの融合に応じます。

人形使いと融合を果たしたことが良いことか悪いことなのかは置いておいて、「問題解決の心(水の気持ち)」がこのような特徴を持つということを、草薙素子の存在を通して理解することは大変重要です。

というのも、様々な映画やアニメの中で、様々な「水の人」は描かれてきましたが、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の中での草薙素子のような「問題解決の心」がどのような性質を持つのかを事前に理解することはとても大事だからです。

人間離れした「問題解決の心」だからこそ、彼女の「正義」の実践能力は非常に高いです。しかし、人間離れした「水の気持ち」だからこそ、「向上心」が故に判断を誤りかねない部分も持っています。

「水の気持ち」の「向上心」が故に危険に見える判断を行なう人物が描かれた映画は非常に少ないです。だからこそ、この映画の中で、草薙素子が人形使いと融合したことを参考に、「向上心」の危険性を理解することは非常に大事です。
 

【最後に】

大変長い解説になってしまいましたが、この映画は他にも考察に値する重要な事柄が多く、約80分の作品にも関わらず、内容はとても多く濃く深いです。

是非とも、セリフを覚える程御覧になって頂き、この映画の意味を問い、時折この映画を見返すことをしつつ、この映画と向き合って生きていくことをオススメします。

もちろん、全ての人がそのようにこの映画と向き合って生きていく必要はないと思いますが、人によっては非常に重要な意味を持ちます。

そのようにこの映画と向き合って生きていく上で、この解説が何らかの役に立つことを願っています。