「愛」は「相手のため」に何かを「純粋」に行なうことを促すのに対して、「欲」は「自分のため」に何かを「不純」に行なうことを促します。

だからこそ、その「動機」が「純粋」な「愛」でなければ、つまり、その「動機」に「欲」が混ざっていれば「見返り」を求めます。その「見返り」には様々な形があり、お金や行動といった具体的な「見返り」のこともあれば、「感謝」や「好意」といった精神的な「見返り」のこともあります。

具体的な「見返り」は大変分かりやすく、例えば、「あの時はこちらが払ったんだから、今回はそっちが払えよ」といった「嫌悪」などです。精神的な「見返り」は、例えば、相手に何かをしたとしたにも関わらず、相手の自分に対する「好意」が全然上がらない場合に感じる「嫌悪」などです。

このような形で、実際の「見返り」が手に入らない時に人は「嫌悪」や「怒り」を感じやすく、そういう心から逆に自分の「純粋性」がどの程度のものだったかを振り返ることができます。「欲望」=「〜が欲しい」と「嫌悪」=「〜が手に入らなくて嫌だ」という心は表裏一体だからこそ、このような構造が生まれます。

自分自身の動機が何なのかを適切に見抜くことは難しいことです。だからこそ、本当は「見返り」を求める「欲望」で何かを相手にしていたとしても、本人がそれを「愛」だと思っているケースは少なくありません。

しかし、「見返り」が手に入らない場面に自分の心がどのように動くのかを見つめることを通して、自分の本当の動機が「愛」だったのか「欲」だったのか、どれだけの「純粋性」を持った「愛」だったのか、などが見えてきます。

本当に「相手のため」を思って「愛」で相手に何かをする場合、「見返り」が何もなくとも、一切心は動じません。それに対して、ちょっとでも「嫌悪・怒り」に同調できるなら「純粋」ではないとも言えます。

このような構造が見えると、自分の心も他人の心もその本質が見えやすくなるので、生きていく上で本当は知っておくべき心の基礎になります。そして、こういった心の本質の見抜き方を踏まえて、「不純」な「欲」の方に堕ちず、「純粋」な「愛」の方を高めるなら、人生は実り多いものになるはずです。