「ダメよ、そんな怪我で入ったら!この湖の水はダメだったら!」

「水の気持ち(問題解決の心)」には「冷たい水の気持ち」と「温かい水の気持ち」があります。そういう意味で考えた時、ナウシカの「水の気持ち(問題解決の心)」は「温かい水の気持ち」です。

「水の気持ち」であれば「問題解決」は目指しますが、その際に「全体」と「目の前の相手」のどちらに比重を置くかによって、「水の気持ち」の「冷たさ⇄温かさ」は決まってきます。

「全体」のみを重要視する場合、「目の前の相手」を全く重要視しないので、極めて「冷たい」態度が生まれるのに対して、「全体」を全く重要視せずに、「目の前の相手」のみを重要視するなら「温かい」態度が生まれます。

このような意味で考えた時、ナウシカの「水の気持ち」は「全体」のことを考えつつも、「目の前の相手」のこともとても大事にするが故に、彼女の「水の気持ち」には「温かさ」があり、映画終盤の王蟲の子を助けようとするシーンはそういうことをよく象徴しています。

この時、ナウシカは風の谷を王蟲の攻撃から守るという「全体」のための「目的」と、傷付けられた王蟲の子を助けるという「目の前の相手」を大事にしようとする「目的」を持っています。このシーンには、そのような2つの「問題解決」を目指している意味があります。

どちらの「目的」を達成するためにも、王蟲の子を助けなければならない状況を彼女は経験しているのですが、ナウシカが「風の谷(全体)」を守るという「目的」の「手段」として「王蟲の子(目の前の相手)」を助けようとしているわけではなく、彼女にとっては「王蟲の子(目の前の相手)」を助けること自体がとても大きな「目的」です。

湖に入りそうになっている王蟲の子を守るために、自らの右足を傷付けてまで王蟲の子を止める様子には、そういったナウシカの「温かい水の気持ち」が強く象徴されています。

他にも、映画冒頭にユパを守るために王蟲の暴走を止めるシーンでも、彼女はできるだけ誰も傷付けないように「問題解決」を実践しており、ペジテの大型船が風の谷に落ちた時も虫を一切傷付けないようにしながら虫を誘導するという「問題解決」を実践します。

つまり、ナウシカは「水の気持ち」を実践している時であっても、一人一人のことを大事にしています。「水の気持ち」はより大きな「問題」を「解決」しようとしやすい精神性だからこそ、一人一人に対する配慮に欠けやすいにも関わらず、ナウシカは違います。

ナウシカの根底には「慈愛」=「親が子を慈しみ可愛がるような深い愛情」があり、「博愛」=「博く(ひろく)愛すること」があります。そういったナウシカの「愛」が彼女の「水の気持ち」を「温かさ」のあるものにしていると言えます。

「水の気持ち」は様々な「問題」の「解決」を促す、大変優れた精神性です。しかしながら、「水の気持ち」は「冷静」が故に「冷たい」ものになりやすいもので、その「冷たさ」が故に「問題」となることもあります。

例えば、『鬼滅の刃』の冨岡義勇のように非常に「冷たい水の気持ち」を抱く人間は印象が悪く、印象が悪いと、誤解も生まれやすくなりますし、嫌われやすくもなります。『アルプスの少女ハイジ』のオンジや『踊る大捜査線』の室井慎次も似たような意味があります。

そのような意味で考えた時、ナウシカやアシタカは非常に素晴らしい「水の気持ち」を使う人物であり、女性と男性の理想的な「水の気持ち」を彼らは伝えているとも言えます。というのも、「全体」と「目の前の相手」の両方を大事にできる「水の気持ち」だからです。

しかし、この2人よりも冨岡義勇のような「冷たい水の気持ち」の方が「全体」に良い影響を与えるような局面があることも事実です。というのも、「全体」を重要視することと「目の前の相手」を大事にすることの両立が困難なケースは現実にあるからです。

大事なことは、「水の気持ち」に関するこのような観点を持って宮崎駿の映画や『鬼滅の刃』『アルプスの少女ハイジ』『踊る大捜査線』といった作品を観ることで、様々な「水の気持ち」の違いをよく認識し、それぞれの「長所」と「短所」を理解することです。

そういう理解を得ることで、我々は様々な「水の気持ち」を適切に使いやすくなりますし、様々な「水の人」の本質を適切に「見定める」ことがしやすくなるからです。

「全体」と「目の前の相手」のどちらを重要視するのか、ということは「愛」や「善」を選ぶ者にとって永遠のテーマでもある、大変難しい試練です。

そのような意味で考えた時、映画『風の谷のナウシカ』は「全体」と「目の前の相手」の両方を大事にすることが素晴らしい結果を生み出した理想的なケースを描いている作品だと分かりますし、そのような理想を実現することができた背景には、ナウシカの素晴らしい「温かい水の気持ち」があったということを知ることはとても大事です。