映画『ダンケルク』解説(2017/9/21更新)
2017.09.17 映画について
2017年9月9日から劇場公開している『ダンケルク』について解説していきます。このページを通して、少しでも多くの人が『ダンケルク』を観たいと思って頂けるととても嬉しいです。映画の予告動画はこちらですので、まずこちらの予告を御覧になって頂ければ、と思っています。
『ダンケルク』については解説録音と解説文章を作成しました。映画のネタバレにあまりならないような話し方・書き方をしていきますので、まだこの作品を御覧になっていない方も聴いたり読んだりして頂けると幸いです。というよりも、映画を観る前にこちらの解説を理解して頂くことによって、この映画の持っている本当の意味を理解しながら映画を観ることができると思っています。
解説録音はこちらです。文章よりも、音声の方が様々なニュアンスが伝わりますので、文章を読んで頂くことよりも、こちらを先に聴いてみて頂けると幸いです。
以下、解説録音と重複する内容も含みますが、解説文章を書いていきます。
【作品概要】
『ダンケルク』は『ダークナイト』『インセプション』などの監督であるクリストファー・ノーランが監督を務めた戦争映画になります。クリストファー・ノーランはこの時代においてとても重要な映画監督であって、彼の様々な作品の持っている本当の意味を理解するならば、我々は心の成り立ちの多くを学ぶことができます。だからこそ、私は心理学者の立場からクリストファー・ノーラン作品の持っている意味を様々な形で分析し、このホームページにも書いてきました。
『ダンケルク』は実話を基に作られた戦争映画です。第二次世界大戦中、フランスのダンケルクからイギリス・フランス連合軍の兵士達がイギリスへと船で撤退する様子が描かれています。当時、イギリス・フランス連合軍はダンケルクの戦いにおいてドイツに敗れ、ダンケルクへと追い詰められていました。そういった追い詰められた状況にある兵士達をイギリスの様々な船舶が助けに行く時のダンケルクの様子が映画の中で描かれています。
この映画では三つの視点が描かれます。ダンケルクでドイツ兵から追い詰められている兵士達の一週間、ダンケルクに助けに行く民間の船乗り達の一日、イギリスからダンケルクへ向かう戦闘機乗り達の一時間、という異なる三つの視点が交差するような形で映画は描かれています。以上が映画の内容説明です。
【「光」と「闇」】
以下、『ダンケルク』について作品の持っている様々な意味を解説していきます。
クリストファー・ノーランが自身の様々な作品で一貫して描いていることは「光」と「闇」の対立です。例えば、『ダークナイト』では「光」と「闇」の対立が最も分かりやすく、バットマン(ブルース・ウェイン)が「光」であるのに対して、ジョーカーが「闇」です。
「光」とは「愛」=「誰かのため」という立場であるのに対して、「闇」とは「欲望」=「自分のため」という立場です。我々は生きている間、いつも「光」=「愛」=「相手のため」と「闇」=「欲望」=「自分のため」の間を振れています。だからこそ、この「光」と「闇」の対立は我々が何よりも理解すべき「真実」であって、クリストファー・ノーランはそのことを強く描いてきました。「愛」と「欲望」の対立については、ここに詳しく説明しています。
http://junashikari.com/emotion/愛と欲望/
映画『ダンケルク』の中でも「光」と「闇」の対立が描かれています。特に、この映画で描かれているのは戦争中において人間がどのような形で「光」と「闇」の間を振れるのかということです。
戦争中は自分の命の危機を経験するからこそ、人は自分の命を守ろうとします。けれども、自分の命を守ることと他人の命を守ることが矛盾するようなことは起きます。例えば、この映画の中でも、自分の命を危険にさらしてでも仲間を助けに行くのかということや、自分の命を守るために他人を犠牲にするのかといったことが描かれています。
「相手のため(愛)」と「自分のため(欲望)」という対立はそのまま「相手を守る(愛)」と「自分を守る(欲望)」という対立に繋がります。『ダンケルク』の中で最も強く描かれているのはこの点であって、「相手を守る(愛)」という「光」を選択できた人と「自分を守る(欲望)」という「闇」を選択してしまった人が描かれます。我々はその様子を観ることから「愛」の価値と「欲望」の醜さを感じ、「光」と「闇」の対立を学ぶことができます。「相手を守る(愛)」と「自分を守る(欲望)」という対立についてはここに詳しく書いています。
http://junashikari.com/mind/「相手を守る」⇔「自分を守る」/
『ダークナイト』では非常に強い「光」の人であるバットマンと非常に強い「闇」の人であるジョーカーが描かれています。これは『天空の城ラピュタ』のパズー・シータ(光)とムスカ(闇)の対立なども同じですが、我々は非常に強い「光」と強い「闇」の対立を見ることによって、「光」と「闇」の本質的な違いを分かりやすく理解できます。
『ダンケルク』では、『ダークナイト』や『天空の城ラピュタ』程に強い「光」の人も「闇」の人も登場せず、だからこそ、現実世界を生きる我々人間と重ねて理解することができます。個人個人が「光」と「闇」の選択を迫られている様が徹底的に描かれます。
現代を生きる我々日本人は、自分の命を守るのか、他人の命を守るのか、といった究極の選択を迫られることは日常においてほとんどありません。しかし、戦争中はそういった決断を迫られていくことになります。是非、このような「光」と「闇」の観点を持ってこの映画を観て頂けると幸いです。このことによって正しい形でこの映画を観ることができます。
【時間軸をズラすことと戦争の追体験】
クリストファー・ノーランは一本の映画の中で、時間軸をズラしながら表現することを今までによく行なってきました。例えば、『インセプション』は主人公達が夢の中へ入っていくという物語ですが、夢の中にいる人間・夢の中の夢にいる人間・夢の中の夢の中の夢にいる人間の様子が重ねて表現されています。
映画『ダンケルク』の中でも同様に時間軸がズラされながら描かれます。ただ、単純に時間軸がズラされるだけではなく、その時間をどういう視点で見るのかということが変えられています。ある人がある人を助けた場合、助けた方の視点を先に描き、そのしばらく後に助けられた方の視点を描きます。
このことによって我々鑑賞者は何を経験するのかというと、助ける側と助けられた側の人間の追体験です。両方の立場がどのような「気持ち」でその経験をしたのかということを真に感じることができます。こういったことを感じることを通して、我々は人を助けることの価値を感じることができます。
例えば、戦闘機のパイロットが地上にいる人間を助けるならば、戦闘機のパイロットからすると地上にいる人間を助ける様子は極めて一瞬のことです。何故ならば、戦闘機は一瞬でそこを通り過ぎるからです。しかし、地上にいる人間からすると、その戦闘機が通るまでに長いドラマがあってからのその出来事ですから、全然重みが異なります。こういった両者の立場の違いを我々は感じることができます。
クリストファー・ノーラン自身が宣伝動画の中で話していますが、この映画を通して彼が目指したのは戦争の追体験です。時間軸や場面をズラすことによって、それぞれの人間の経験を我々が強く感じられることに加えて、それぞれの描写の方法によっても我々は戦争の追体験をすることができるような描かれ方がされています。我々はこの映画を観ている時、あたかもその場にいるような感覚を得られるようにこの映画は撮影されています。
【「恐怖」について】
『ダンケルク』において、強く描かれている感情は「恐怖」です。「恐怖」がこの映画の大きなテーマであることを意識して頂いた上でこの映画を御覧になって頂けると幸いです。
エンターテイメント的な戦争映画はお客さんが観ていて面白いと思うような表現を好みます。それに対して、『ダンケルク』の中で描かれているのは戦争の「真実」が伝わるような表現です。地上にいる人間からすると、空襲を受けることはどのような「恐怖」を経験するのかといったことや、敵襲を受けて船が沈没してしまう時に水が船に入ってくる「恐怖」とはどのようなものなのかといったことを描いています。
戦争が我々に与える悪しき感情は強い「恐怖」です。現実に、戦争から帰ってきた人間が、戦地で経験した強い「恐怖」によって廃人と化してしまうケースはよくあります。『ダンケルク』の中でも「恐怖」によって廃人と化してしまった人間の様子も描かれます。
強い「恐怖」は我々を「支配」する力があります。人は「恐怖」に囚われると、他人のことを考えることができず、自分のことしか考えられないような状態になるからです。つまり、「恐怖」は「他人を守る(愛)」ことよりも「自分を守る(欲望)」ことを促す力があり、これは「恐怖」が「欲望」に転じることを意味します。他にも、例えば、
「恐怖」が故に自分のことしか考えられず他人に対する「怒り」を抱く
「恐怖」が故に何かにすがりたくなり「依存」に堕ちてしまう
「恐怖」が辛いからこそ「逃げ」に堕ち自分の命を自ら絶ってしまう
「恐怖」が故に仲間に対する「疑い」を持ってしまう
「恐怖」が故に「甘さ」の判断をしてしまう
「恐怖」が故に「不安」や「被害妄想」に堕ちてしまう
といった心の動きに繋がります。そういった非常に大きな「闇」の力を「恐怖」は持っています。「恐怖」が故に生まれてしまう、こういった悪しき心の動きが『ダンケルク』の中では多く描かれています。そういった点を意識しながら映画を御覧になって頂けると幸いです。
クリストファー・ノーランは「恐怖」というものが人間の心をどれだけ「支配」する力があるのかということを様々な映画で描いてきました。例えば、『バットマン ビギンズ』の中でもコウモリに襲われた幼少期のブルース・ウェインに対してお父さんが「どうして彼らが襲ったか分かるか?彼らは恐れたからだ」というセリフがあったり、ラーズ・アル・グールがブルースに対して「恐怖は人間の五感を鈍らせる。その力はすべてを歪め、支配する」といったセリフがあったりします。また、『ダークナイト』や『ダークナイト ライジング』の中でもジョーカーやベインが「恐怖」を使って他人を「支配」していく様子が描かれています。
どうしてクリストファー・ノーランがこれだけ「恐怖」について表現してきたかというと、「恐怖」がどれだけ悪しきものであるのかを我々に伝えたいからです。我々現代を生きる人間は「恐怖」というものがどれだけ強い「闇」の力を持っているのかを忘れてしまっています。だからこそ、我々は簡単に「恐怖」に同調してしまっています。もし、我々がもっと「恐怖」の恐ろしさを知っていれば、もっと「恐怖」に同調しないように生きていくはずです。そういう意味で、我々がクリストファー・ノーランの映画を通して「恐怖」について理解することはとても大事なことです。
【「問題解決の心」「闘いの心」について】
「愛」には複数の種類があります。「愛」とは「相手を大事に思う気持ち」のことですが、そういった「愛」は「相手を助けたい・相手を元気にしたい・相手を守りたい・相手を支えたい」という、異なる「愛の気持ち」に繋がっていきます。この内容をもっと具体的に説明すると、
「相手を助けたい」=「愛」の実践のために、愛する者が抱えている問題を解決しようとする(問題解決の心)
「相手を元気にしたい」=「愛」の実践のために、愛する者を傷付ける敵と闘おうとする(闘いの心)
「相手を守りたい」=「愛」の実践のために、愛する者を元気にしようと笑いなどを実践する(元気・笑い)
「相手を支えたい」=「愛」の実践のために、愛する者に思いやりを行い、相手を支えようとする(優しさ)
「愛」にはこういった方向性の違いがあります。そして、『ダンケルク』の中で強く描かれている「愛」は「問題解決の心」「闘いの心」です。自分の命を危険にさらしてまで兵士を迎えに行く船乗りの様子は「相手を助けたい」という気持ちであって、「問題解決の心」です。また、自分の仲間を守るために敵の戦闘機を撃ち墜とそうとする空軍の様子は「相手を守りたい」という気持ちであって「闘いの心」です。
『ダンケルク』の中で描かれているのは、大きく分けて二種類の人間です。「恐怖」という「闇」に堕ちることなく「問題解決の心」「闘いの心」という「光」を貫くことができる人間の様子と「恐怖」という「闇」に堕ちることによって「欲望・怒り・依存・逃げ・疑い・甘さ・不安・被害妄想」といった「闇」に堕ちていく人間の様子です。
我々は「相手のため(相手を守る)」を思えている内は「愛」を抱くことができ、その「愛」によって「恐怖」に堕ちることを防ぐことができます。それに対して、「自分のため(自分を守る)」を思い始めると「恐怖」に堕ちやすくなり、「恐怖」が故に様々な悪い感情に堕ちていきます。この映画の中で描かれるのは、そういった二つの異なる立場の人間の姿です。
【戦争批判】
戦争というものの本質を理解するためには、戦争を経験した時に人間の心が何を経験するのかを理解する必要があります。何故ならば、人の心がどのように毒されるのかということを理解することなしに、戦争の本質は見えてこないからです。
戦争の恐ろしさは人間の心を「闇」に堕とす点にあります。そのきっかけに「恐怖」があります。酷い「恐怖」の経験が故に、戦争が終わった後にも自分自身を見失ったままになる人もいれば、「恐怖」に同調したが故に他人に対して酷いことを行なってしまい、そのことによって一生「罪悪感」を抱えたまま生きていくことにも繋がります。
『ダンケルク』は、戦争を通して人の心を「闇」に堕とす「恐怖」というものの本質を描くことによって、戦争がいかに悪しきものなのかを我々に教えてくれる作品です。そういった意味で、戦争が如何に悪しきものなのかを『ダンケルク』から理解して頂けると幸いです。
【発展的な解説】
以下は少し発展的な内容なので、必ずしも理解する必要はないのですが、書いておきます。こういった内容について抵抗感がある方は無視して頂ければ、と思います。
「問題解決の心」は「水の気持ち」と言います。それは水が汚れた物を洗い流す様子が「問題解決」を行なっていることと重なります。そして、「闘いの心」は「火の気持ち」と言います。それは火が何かを焼き尽くす様子は「闘い」が敵を打ち負かすことを目指すことと似ています。ちなみに、この「水の気持ち」「火の気持ち」という名前は私が決めたわけではなく、古代からある知識です。「水の気持ち」「火の気持ち」についてはここに詳しく書いています。
「水の気持ち(問題解決の心)」:http://junashikari.com/emotion/水の気持ち/
「火の気持ち(闘いの心)」:http://junashikari.com/emotion/火の気持ち(闘いの心)/
この映画は海という「水」の上で「愛」を実践する人間達は「水の気持ち(問題解決の心)」を実践しています。それに対して、スピットファイアーという「火」という名前を持った戦闘機に乗った人物達は「火の気持ち(闘いの心)」を実践しています。
こういった構造と名前の一致は偶然起こっているわけではなく、クリストファー・ノーランが神々と共に映画を作っているからこそ起こっている一致です。クリストファー・ノーランは「水の気持ち」「火の気持ち」という考え方を知っているわけではないのですが、神々はこういった構造の一致を元々狙ってクリストファー・ノーランの映画製作に関与しているからこそ、こういった一致は起こります。
「あの人は神がかっている」というような言葉は今でも使われますが、優れた芸術家は神々と共に働いています。クリストファー・ノーランもそういった芸術家の一人であって、この時代においてとても大事な人間です。だからこそ、彼の作品は我々にとって非常に大事なメッセージを持っています。
神々は大事なことを忘れた人間に対して、人間が忘れてしまっている「真実」を伝えようとしています。その方法としてアートを使っています。芸術家が作品を作る時、必ず必要なものは「アイデア」です。そういった「アイデア」に神々は「気」で関与することができるので、神々は作品製作にかなり関与することができます。
神々は「気」を操っている存在であり、「気」には「アイデア」を乗せることができます。そして、「アイデア」が乗った「気」が我々に「付く」時に、我々の心には「アイデア」が浮かびます。その現象を説明している言葉が「気付く・気が付く・思い付く」といった言葉です。これらの言葉は「思い(=アイデア)」が乗った「気」が我々に「付く」ことによって、我々の心に「アイデア」が浮かぶことを説明しています。この点については、ここに詳しく書いています。
http://junashikari.com/energy/「気」と「アイデア」の関係性1/
http://junashikari.com/energy/「気」と「アイデア」の関係性3/
神々と共に働く芸術家の作品は神々からの人間に対するメッセージであり、そういった芸術家とは神々の代弁者です。だからこそ、我々は神々と働く芸術家の作品を通して神々が我々に伝えたいメッセージを理解する必要があります。人間は心の成り立ちを忘れています。だからこそ、我々現代人は自分自身の心に振り回されています。そういった現状があるからこそ、神々は映画などを通して心の成り立ちの本質を伝えようとしています。それは宮崎駿・庵野秀明・高畑勲・北野武・小津安二郎といった様々な映画監督の作品も同様です。
神々と共に働く映画監督達が必ずしも協力関係を持っているわけではありませんが、そういった映画監督に関与している神々は同じ組織の仲間です。だからこそ、そういった映画監督の作品が持っているメッセージは繋がってきます。
例えば、宮崎駿の『風立ちぬ』とクリストファー・ノーランの『ダンケルク』は繋がっています。『風立ちぬ』の中で強く描かれるのは戦闘機を作る人間達の姿であり、『ダンケルク』の中で描かれるのは戦闘機がどのように人間の心に関与するのかということです。また、この二つの作品はほとんど同じ時代の日本とイギリス・フランスのことを描いています。
『ダンケルク』の中では戦闘機の音が人の心をどのような状態にしていくのかということが強く描かれています。イギリス空軍のスピットファイヤーはとても綺麗なエンジン音を持っている戦闘機として描かれ、ドイツ空軍のメッサーシュミットはかなり暴力的なエンジン音を持っている戦闘機として描かれます。だからこそ、スピットファイヤーが通る時にイギリス人は強い「安心感」を感じるのに対して、メッサーシュミットが通る時にイギリス人は強い「恐怖」を感じます。その違いが『ダンケルク』の中では強く描かれ、そういったことを示唆するようなセリフもあります。
音は人間の心に強い影響力を与えるものです。そして、人の心を良い状態に導く音もあれば、人の心を悪い状態に導く音もあります。だからこそ、戦闘機を作る上でその戦闘機がどういう音を発するのかということはとても大事な要素です。そして、戦闘機を作るのであれば、人の心を「恐怖」に堕とさないような音のする戦闘機を作るべきであって、このような意味で物作りとはとても大事です。そして、心に「光」が強い人は心に「闇」が強い人よりも、正しい物作りができるものです。
『風立ちぬ』の中では、零戦を作った堀越二郎のことが描かれていますが、堀越二郎は心の「光」が強い人間として描かれ、美しい飛行機を作ることを目指している人間として描かれます。普通に考えると、戦闘機を作ることは全て間違っているように思われますが、結局誰かが戦闘機を作るのであれば、心に「光」の強い人がそれを作った方がいいです。そのような意味で、堀越二郎は戦闘機を作るために生まれてきた人間として描かれ、具体的に零戦を作っていく過程が『風立ちぬ』の中で描かれています。
『風立ちぬ』だけを観ていても、何故堀越二郎が戦闘機を作ることが正しかったのかという理由は見えづらいです。しかし、『ダンケルク』を観ると、堀越二郎が何故戦闘機を作る必要があったのかということを理解しやすくなります。このような意味で、神々は『ダンケルク』をクリストファー・ノーランと共に作る上で、元々『風立ちぬ』に関するこういった補足説明をすることを狙い、それを実現しています。
神々は計画的に人間の作品制作に関与しているので、それぞれの作品がこのような形で繋がることはよくあります。そういった神々の大きな計画の一部として、クリストファー・ノーランがいて、彼は「水の気持ち」の価値や「恐怖」の危険性について多くを描くことを大きな役割として持っていることを知って頂けると幸いです。
そして、『ダンケルク』は戦争における「恐怖」と「水の気持ち・火の気持ち」を描いています。そのことを通して、我々はそれらの「気持ち」の本質と戦争の本質を理解できるようになっています。
【最後に】
今後もクリストファー・ノーランの映画の解説録音や解説文章を作っていきますので、是非映画と合わせて活用して頂けると幸いです。クリストファー・ノーランの様々な作品はそれぞれの作品が独立して我々に大事なことを伝えてくれますが、それぞれの作品を組み合わせて理解することを通して重要なことを理解できるようにもなっています。ですから、是非それぞれの作品を鑑賞して頂き、解説を理解して頂ければ、と思います。そのことによって『ダンケルク』の持っている意味もより深く理解できます。
また、『風立ちぬ』との繋がりを説明しましたが、クリストファー・ノーランの作品は宮崎駿といった神々と共に働く他の映画監督の作品とも繋がっています。そういったことについても、今後もっと説明していきます。そういった解説を理解することによって、神々が映画を通して人間に伝えたいメッセージの意味をより深く理解できます。