浜辺美波はこれからの日本において、とてつもなく重要な役者の1人です。というのも、彼女は非常に重要な意味を持っている役者であり、役者としての能力が並外れており、なおかつ彼女はまだ十代ですから、これから膨大な作品の中で重要な表現活動を続けることができるからです。

ここでは、どのような意味で浜辺美波が重要なのかということを、心理学的分析と神学的分析の両方から書いていきます。
 

【心理学的分析:浜辺美波の表現する精神性】

浜辺美波は様々な作品の中で異なる精神性を表現する女優です。ですから、一言で彼女の表現する精神性を説明することはできず、作品毎に彼女が表現している精神性の意味を解説せざるを得ません。

作品毎に全然異なる精神性を表現できることは、役者としての能力の高さを物語っています。同じ人間とは全然見えない程に、作品毎に全く異なる人間を演じることができますし、彼女の演技は「気持ち」を演じているわけではなくて、実際に真にその「気持ち」の中に入って演技をしています。

なおかつ、浜辺美波が表現している「気持ち」自体が、非常に重要な意味を持っていることが多いので、その点でも浜辺美波は非常に重要な役者です。

例えば、『君の膵臓を食べたい』という作品の中で彼女が表現した精神性は、「愛」が故に生まれる「美しさ」のある「元気」です。これは十代の女性が抱くことができる「愛」の中でも、非常に重要な精神性と言えます。
 


この作品のストーリーにも強く表現されていますが、彼女が表現した「愛」が故に生まれる「美しさ」のある「元気」の精神性は、その精神性を通して、人々を正しい方向へ導きます。「元気」は他人も「元気」にしますし、「美しさ」のある精神性は他者の心を惹きつけますし、「愛」は「他者のため」に何かをする精神性だからこそ、相手に「愛」を伝えるからです。

現代の日本人は、精神的な意味では「道」を見失いがちです。そんな現状があるからこそ、人生において何が大事なのかを教えてくれ、なおかつ魅力的な精神性を持った人間が非常に重要で、浜辺美波が『君の膵臓を食べたい』で演じた山内桜良という主人公は、まさにそういう精神性を持った人間の一つの立場です。

近年の作品だと、『ピュア~一日アイドル署長の事件簿』の中で浜辺美波が演じた黒薔薇純子という主人公は、正しい「欲」とは何なのかを教えてくれます。この主人公は「愛」ではなく「欲」によって、結果的に社会のためになること(事件解決)を実現していきます。
 


日本社会は年々「欲(自分のため)」が肥大化していき、「愛(相手のため)」がすり減っています。そんな状況の結果として、社会はどんどん生きづらいものとなっていっています。

この状況を改善していく上で、「欲」ではなく「愛」を抱きながら生きていくことが何よりも「王道」であって、『君の膵臓を食べたい』の山内桜良のような人間が増えていくことが一番良い方向性なのですが、「欲」を選んでしまうのなら、悪い「欲」ではなく、良い「欲」を選んでいくことも、また重要なことです。

そういった意味で、浜辺美波が演じた黒薔薇純子という人物の精神性は、我々に良い「欲」の「道」を示してくれます。彼女は「あざとさ」が故にいつも何かを考えているのですが、その結果として「賢さ」が彼女の中には養われています。そういった「賢さ」を重要な場面で使えるが故に、結果的に社会のためになるようなことを実現していきます。

また、基本的に「欲」に堕ちた人間は自己中心的になるが故に嫌な奴になっていくもので、その結果として、他者を「嫌悪(不愉快)」に堕としていくものですが、黒薔薇純子は「欲」に堕ちていても面白おかしさや可愛さのある人物なので、憎めない人間性を持っています。こういった意味でも、良い「欲」と言えます。

浜辺美波が主演を務めた『君の膵臓を食べたい』と『ピュア~一日アイドル署長の事件簿』は、「愛(相手のため)」と「欲(自分のため)」という意味で真逆の精神性ですが、彼女はその両方を非常に強く表現することができています。

このような意味で、浜辺美波は様々な「気持ち」を演技で表現することによって、我々に精神的な「道」を教えてくれるので、非常に重要な役者です。外見に「美しさ」のある女優は、人々が間違った精神性を好きになることさえも促すことができるのですが、浜辺美波は人々が正しい精神性を好きになることを促しています。

浜辺美波はカメレオン役者なので、彼女自身の主軸にある精神性を演技の時にいつも表現しているわけではありませんが、彼女自身の主軸にある精神性は「温かさ」と「美しさ」のある「水」の精神性です。

その人間の精神性は声に最も表れるものですが、演技をしていない時の彼女の声から、人は「透明感」のある「水」のような「美」を感じると思います。そのことを「温かさ」と「美しさ」のある「水」の精神性と説明しています。ラジオの場合は、特に顕著にその精神性を表現しています。
 


「愛」には様々な方向性がありますが、そういった方向性の違いは感覚的に「水・火・風・土・金」で分けて考えられます。これは私の考え方などではなくて、中国古代の五行思想や西洋古代の四大元素説の考え方そのものですし、こういった分け方は我々が使っている言葉にも表現されています。

例えば、「情熱」は燃え盛る「火」のような精神性ですが、だからこそ「情熱」という言葉は「火」に関する「熱」という文字を含みます。また、「冷静」は冷たい「氷」のような精神性ですが、だからこそ「氷」を意味する二水を含む「冷」という文字が含まれています。

こういった観点で考える時、浜辺美波が主軸に持つ精神性は「温かさ」と「美しさ」のある「水」の精神性です。では、「水」の精神性とは何なのかというと、「問題解決の心/向上心」です。自分以外の「問題」を「解決」しようとする精神性が「問題解決の心」、自分の「問題」を「解決」しようとする精神性が「向上心」です。「水」は様々な「汚れ」=「問題」を「浄化」=「解決」する力を持っていますが、そういった「水」の「問題解決の心/向上心」の性質を「水の気持ち」と言います。

彼女の役者としての能力が高い背景には、彼女が「水の気持ち」を強く持っているからです。自分自身の演技に関する「問題」を発見しては、そういう「問題」を「解決」することを目指すような形で経験を積み重ねるからこそ、日々演技のレベルが上がっていきます。また、自分自身の「問題」を見ようとする人は「謙虚」になるので、「傲慢」に堕ちることなく、どこまでも「向上」していくことができます。

「問題」を「解決」するためには「冷静」である必要があります。「冷静」でなければ何が「問題」なのか、適切な「問題解決」の方法が何なのかも見誤りますし、具体的な「問題解決」の手段も着実に実践できないからです。そして、「冷静」の精神性は「冷たさ」のある精神性なので、「問題解決の心」に入ると人は「冷たい」精神性になりやすいのですが、浜辺美波の場合は「問題解決の心」に入っても「温かさ」を保つことができます。
 


また、「水の気持ち(問題解決の心)」の中の振れ幅も彼女は演じ分けることができます。先程リンクで貼り付けたラジオは「温かさ」のある「水の気持ち」を表現していますが、『賭ケグルイ』の中で浜辺美波が演じた蛇喰夢子というキャラクターは、勝負の時は「冷たさ」のある「水の気持ち」である「氷の気持ち」を抱く人物として描かれています。「氷の気持ち」は様々な精神性の中でも最も「冷静」な精神性で、どのような場面であっても心を乱しづらい精神性です。そういった精神性を主軸に持つからこそギャンブルが強い人物を見事に演じています。

また、表現できる精神性の多様さに加えて、浜辺美波の役者としての能力の高さを物語っているのは、演じている演技が完璧にできている点です。例えば、『ピュア~一日アイドル署長の事件簿』の中では、主人公が下手な演技をしている様を的確に演じ、『賭ケグルイ』の中では、主人公が上手な演技をしている様を的確に演じています。役者にとって、演じていることを演じることは一つの難しい演技のパターンですが、そんな中で、下手な演技の演技と、上手な演技の演技を浜辺美波が使い分けることができていることは、彼女の役者としての能力の高さを物語っています。

とにかく、十代にして「愛」と「欲」という真逆の精神性をどちらも強く表現でき、なおかつ、「水の気持ち」の中の「温かさ」と「冷たさ」という真逆の精神性さえもどちらも強く表現できるということは、浜辺美波の役者としての能力の圧倒的な高さを物語っています。彼女は様々な「気持ち」の中に真に入り、その「気持ち」を真に表現できるので、我々は彼女の演技を通して、様々な「気持ち」に関する「真実」を学ぶことができます。

特に、彼女が表現する強い「愛」に関する精神性に関しては「こんな素晴らしい精神性もあるのか」という気付きを得られますし(例:『君の膵臓を食べたい』で常に表現されている「愛」に基づく「元気」)、逆に、彼女が表現する「欲」に関する精神性に関しては、「こんな恐ろしい精神性もあるのか」という気付きも得られます(例:『賭ケグルイ』でごく短く表現される「狂気」)。そういった気付きは、この世界に存在する精神性の振れ幅を我々が学ぶことを促すので、我々が彼女の演技を通して受け取ることができる恩恵は非常に大きいです。この世の精神性の多様さを知ることは、この世がどういう場所であるのかを学ぶことだからです。
 

【神学的分析:浜辺美波の名前の意味と繋がっている神、浜辺美波が本質的に巫女である点などについて】

・名前の意味

我々人間の名前にはその人間の意味合いが元々書かれていますが、「浜辺美波」という名前にも、彼女の意味合いは元々書かれています。

彼女の名前が「美しい波」と書くのは、彼女自身の中心軸にある精神性が「美しさ」のある「水の気持ち」だからです。そういった精神性を、演技をしていない時の彼女の声から我々は感じ取っています。

「浜辺」という名字も「水」に関する言葉で、この名字も彼女が「水の人」であることをよく表現しています。また、この「浜辺」という名字の意味を考える上で「みなみ」という名前の読みが非常に重要な意味を持っています。

「みなみ」という読みは通常「南」ですが、そういう意味で「浜辺美波」という名前は「南の浜辺」という意味も持っています。世界には様々な浜辺がありますが、南の浜辺には「温かさ」があります。そういった「温かさ」の意味合いを込めるための名前として、浜辺美波は「南の浜辺」とも理解できる名前を持って生まれています。

整理すると、「浜辺美波」という名前の示す意味は、「南の浜辺」にある「美しい波」という意味です。言い換えると、「温かさ」と「美しさ」のある「水の気持ち」です。そういった精神性を、浜辺美波は生まれる前から持っていたからこそ、このような名前を持って生まれています。
 

・繋がっている神

浜辺美波という名前や彼女の演技を分析すると、浜辺美波が金星神(ヴィーナス)と繋がっている役者であることが理解できます。金星神とは古代西洋世界からヴィーナスやアプロディーテーという名前で、「愛」と「美」の女神として信仰されてきた女神です。

ギリシャ神話において、ヴィーナス(金星神)はヨーロッパ最南端とも言えるキプロス島周辺の海で生まれ、生まれて間もなくキプロス島の浜へ運ばれます。そういう背景があり、有名な『ヴィーナスの誕生』という絵画はよくキプロス島の浜辺に描かれます。

キプロス島の浜辺とは「南の浜辺」です。そして、キプロス島はヨーロッパの中で一番海が綺麗と言われることもある程に美しい海を持っています。ですから、キプロス島は「美しい波」を持っています。

このような意味で、「浜辺美波」という名前と金星神(ヴィーナス)に関する神話はとても辻褄が合いますが、浜辺美波が金星神の使いであることを示すために、彼女はこのような名前を持って生まれています。

また、彼女の表現する演技からも、彼女が金星神の使いであることはよく理解できます。古代西洋世界から、金星神(ヴィーナス)が「愛」と「美」の女神と理解されてきた最も大きな理由は、彼女の「愛」が非常に「美しさ」を持ったものだからです。

そして、浜辺美波は「美しさ」のある「愛」と共に生きていますし、演技の中でも「美しさ」のある「愛」をよく表現します。そういった、彼女自身の精神性と演技の中で表現する精神性を踏まえても、彼女が金星神の使いであると考えることは非常に自然です。

金星神は「美」を司る神であって、「美」を通して地球の価値を上げようとしている神です。そういった「美」の精神性とは何なのかを表現を通して伝えるために生まれてきた役者が浜辺美波であって、だからこそ、彼女が様々な作品の中で表現する精神性の深い意味を理解できたなら、我々は金星神について理解を深めることができます。

浜辺美波は様々な役柄を演じることができる女優です。それは言い換えると、彼女は金星神が司る様々な精神性を地上に表現できる、ということです。この点に、深い意味での浜辺美波の価値があります。

浜辺美波は長澤まさみなどが見出された東宝シンデレラオーディションでニュージェネレーション賞を受賞したことで芸能界入りをした役者なのですが、その授賞式の時に、シンデレラのように片方の靴が脱げてしまった映像が今でも残っています。こういったことが、浜辺美波が如何に神々から期待されている存在なのかを物語っています。

我々が自分自身の意図で行なったわけではなく、意味のある出来事を起こしてしまうことはありますし、浜辺美波はそういったことをよく行なう役者だと神木隆之介は言います。そういった我々の意図を超えた言動に目に見えない存在は関与しているものですが、神々としては、浜辺美波がシンデレラであることを伝えるために、靴を脱がせた形になります。

シンデレラは「美」の象徴で、浜辺美波も「美」の象徴になるために生まれています。浜辺美波はその時の東宝シンデレラオーディションでグランプリではなくニュージェネレーション賞を取ったのですが、神々としては本当のシンデレラは浜辺美波だということを伝えるために、こういう構造を残した形になります。

このことも浜辺美波が元々非常に重要な存在として生まれてきたことを理解する上で、非常に重要な資料です。


・浜辺美波が巫女であることについて

浜辺美波は役者ではなく巫女です。自分のことを役者だと思っている巫女とも言えます。巫女とは目に見えない存在を自分に宿すこと(チャンネリング)を行なえる人間のことですが、彼女程の役者としての能力を得るためには、完璧に目に見えない存在を自分に憑依させる能力が必要です。逆に言うと、チャンネリングをしているからこそ、彼女は自分自身ではない存在になることができ、様々な人物を演じ分けることができます。

このような意味で、彼女は演技という手段を通して活躍をしている巫女です。日本の巫女のレベルは今は非常に低いですから、日本だけで考えると、彼女は巫女と呼ばれている人々以上に、巫女としてのレベルが高いとも言えます。では、どうして彼女の巫女としてのレベル(チャンネリングできる能力)が高いかというと、「気」を感じる感度(霊感)が非常に高いからです。だからこそ、強い形で「気」を「持つ」ことができ、強く「気持ち」を表現できます。

ただ、「気」を感じる感度(霊感)が高いと様々な「気」を受け取りやすく、「悪い気(邪気)」さえも受け取りやすくなるのですが、彼女自身の中心軸にある「水の気持ち」が強いからこそ、「邪気」に自分自身が飲み込まれてしまわないことができています。

逆に言うと、浜辺美波の中心軸にある精神性がとても清いからこそ、金星神としては、彼女の「霊感」を上げることができています。「霊感」をどの程度の高さにするのか、ということは神々からすると非常に頭を悩ませる問題です。何故ならば、「霊感」を上げた方が能力は上がるけれども、「霊感」を上げると心が「邪気」に飲み込まれてしまう可能性も上がるからです。

そういう葛藤の中で、神々は自分が繋がっている人間の「霊感」を決めているのですが、浜辺美波の場合は、彼女が「邪気」に飲み込まれない(悪い「気持ち」に同調しにくい)心の清さを保っているからこそ、金星神は「霊感」を上げることができ、その結果として、浜辺美波の役者としての能力の高さは実現しています。

こういう構造を理解する上で非常に参考になる存在が『ハウルの動く城』のハウルです。彼は「愛」の実践のために「邪気」と共に働く魔法使いとして描かれている存在ですが、「邪気」を抱え過ぎることによって、自分自身を見失い、悪魔になりつつある人物でもあります。しかし、ソフィーの存在によって「愛」を抱くことができ、「邪気」に飲み込まれてしまわないことができました。

それとは対照的に、『もののけ姫』の冒頭に登場するタタリ神は「愛」へ戻ることができず、「邪気」に飲み込まれてしまった存在です。彼は「憎しみ」に堕ちてしまったが故に、「愛」へ戻ることができなくなり、「邪気」から逃れられなくなります。

宮崎駿は凄まじい神懸かりを実現している映画監督なので、「気」の本質を描くことができます。そして、「邪気」に飲み込まれてしまうことの危険性を彼は様々な作品で表現してきたのですが、現実世界では、浜辺美波が時折ハウルに近いことをやっています。

例えば、彼女が『賭ケグルイ』の中で演じている蛇喰夢子は、人間のレベルを圧倒的に超えた「闇」を抱えた人物です。そういった役柄までも、浜辺美波は的確に演じることができてしまうのですが、そういうことを通して「邪気」をもらってしまいます。しかし、彼女の心の「光」が強い分、彼女は彼女自身に戻ってくることができています。

このような構造は、役者としての能力の本質を日本人が理解する上でも非常に大事なことです。特に、今の日本では「気持ち」を演じてしまっている役者も少なくないので、実際にその「気持ち」に入ることとはどういう現象なのか、強く「気持ち」に入るためには何が必要なのか、といったことを考える上でも、浜辺美波は非常に重要な教科書の意味を持っているのかもしれません。

役者に必要なのは清い心です。清い心を持っていれば、邪悪な心を演じても、自分自身へ戻ってくることができます。そういった清い心を実現すれば、神々はその人間の「霊感(気を感じる感度)」を上げることができますから、その役者も演じる能力を上げることができます。
 


こういった話の延長線上で、浜辺美波が主演を務めた、Aimerの『花の唄』『I beg you』『春はゆく』のMVの映像についても説明をしたく思っています。

Aimerについては、数年前に文章を書きましたが、Aimerと浜辺美波は非常に似た立場の人間で、両者共に金星神の使いとしての人間であり、「水の気持ち」を中心軸に持ち、様々な「気持ち」を表現することができる人間です。Aimerについては、こちらに詳しく書いています。

http://junashikari.com/singer/aimer/

この三つの映像は浜辺美波の本質を理解する上で、とても重要な意味を持っています。Aimerと浜辺美波に加えて、この歌とMVを作り上げていった人々が的確に神々と働くことを実現したからこそ、このMVに神々がメッセージを込めることができた形になります。

(アーティストが何かを作る時に必要とするものは「アイデア」ですが、「アイデア」は我々人間が作り出せるものではなく心に浮かぶものです。つまり、「アイデア」は自分自身が作り出すものではなく、「気」を通して目に見えない存在から与えられているものです。そういった構造を「気付く」=「気」が「付く」、「思い付く」=「思い」が「付く」といった言葉は意味しています。こういった構造が分かると、3本のMVに神々が浜辺美波の本質を描いたことも理解できるようになります。)

浜辺美波は「花」に関する名前を持つ人物を演じることが非常に多いです。山内桜良や黒薔薇純子に限らず、彼女が初めてヒロインを演じたドラマは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』で、初めて主演を務めたドラマは『咲-Saki-』です。「花」という存在が「美」の象徴だからこそ、「美」の女神である金星神の使いとして生まれてきた浜辺美波は、花に関する役柄を多く演じることを導かれてきました。

そして、この歌のタイトルは『花の唄』で、浜辺美波だけが出演しています。ですから、この歌で表現されているものは浜辺美波自身だと考えることはとても自然な解釈です。そして、この映像の意味を分かる上で大事な点は、歌っている主語が金星神であることと「花」が浜辺美波だということを踏まえて観ることです。そのようにこの映像を観ると、浜辺美波の意味合いがよく分かるようになっています。(Aimerは金星神を自分に宿して歌っているので、Aimerの歌声は金星神の歌声と言えます。)

特に、そういうことを象徴する『花の唄』の歌詞は、「冷たい花びら 夜を切り裂く 私が摘んだ光をみんな束ねて 貴方の上に全部 よろこびのように 撒き散らしてあげたいだけ」という歌詞です。金星神からすると、浜辺美波に様々な「光の気」を送ることは「私が摘んだ光をみんな束ねて 貴方の上に全部 よろこびのように 撒き散らす」ことです。そして、現代の日本は「闇」が強い時代であって、そんな時代に「水」という「光」の立場として生きている浜辺美波は、「冷たい花びら 夜を切り裂く」ことを行なっていると言えます。

この延長線上で理解すべき点は、浜辺美波の置かれている現状です。彼女は「闇」の強い時代に、非常な貴重な「光」の立場として活躍しています。これは非常に過酷な状況を生きることを意味し、このMVが悲しげな作品であることにはそのような背景があります。また、このMVの中で月光が彼女を照らし、浜辺美波と同じ容姿をした黒い服を着た女性と抱き合いますが、これは月が浜辺美波を襲っていることを意味します。

太陽系において、「太陽」と「太陰(月)」が「光の気」と「闇の気」の根源です。だからこそ、両者は地球から見ると、ほぼ同じ大きさに見えますし、こういった構造を古代中国人達はよく理解していたからこそ、「太陽(光の大本)」と「太陰(闇の大本)」という名付けを行なっています。この点については、こちらに詳しく書いています。

http://junashikari.com/cosmos/太陽系の成り立ちについて/

ですから、月は地球に「闇の気(邪気)」を常に送っていて、「闇」の立場の月からすると、「光」の立場の浜辺美波は敵であって、「邪気」を通して浜辺美波を攻撃しています。そういう「邪気」が、浜辺美波の心に悪い「気持ち」を起こしたり、悪い「気付き(アイデア)」が起こしています。ただ、「邪気」はその人のフリをして、その人間に悪い心を起こすので、現代人はこういう構造に気付いていません。そして、このMVで描写されていることは、浜辺美波自身のフリをして忍び寄る月の姿です。だからこそ、浜辺美波が月の「邪気」と一体化した後に、「花びらが散った」という歌詞でこの歌は終わります。
 


そして、『I beg you』の映像に続いていきます。この映像では黒いテープを使って「邪気」が非常に的確に表現されています。そして、浜辺美波が闘いを投げ出してしまうことを、「白(光)」と「黒(闇)」のチェス台の駒を手で跳ね除ける描写で比喩しています。

この二つの映像が示すことは、浜辺美波が歩んでしまってはならない最悪な「道」のことです。月が最も狙うことは、浜辺美波を役者の舞台から下ろすことであって、そのために「邪気」によって「ストレス」を与え、浜辺美波が役者を投げ出すことを目指します。浜辺美波が「光」の使いとして、あまりにも優れた役者だからこそ、月がこのようなことを狙うことは当然です。

「闇」が強い時代に役者として活躍することは非常に大変なことです。というのも、「闇」が強い時代は「闇」を描いた作品がよく観られることになりますが、だからこそ、強い「闇」を持った人物を演じさせられるからです。的確にそういった役柄を演じるためには、自分自身の中で強い「闇」に同調するしかありません。しかし、そういうことを行なってしまうと、その「闇」に自分自身が乗っ取られてしまいます。こういうことが分かってくると、「闇」の強い人物を演じることが命がけの行為であることが分かってきます。例えば、『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーは、ジョーカーを演じたことで「闇」に自分自身が乗っ取られたことにより亡くなりました。

「気持ち」という言葉が「気」を「持つ」と書くことが示すように、「闇の気持ち」を抱くと「闇の気(邪気)」を「持つ」ことをしてしまいます。彼女が金星神の司る「闇の気」を「持つ」分には問題がないのですが、月の司る「闇の気」を「持つ」と、心を侵されていきます。特に、蛇喰夢子の「狂気」の演技などは、「気合」を入れざるを得ない描写なので、強く「気」が「合わさる」ことが実現してしまいます。その時に月の「邪気」を吸いすぎると、彼女は役に自分を侵されてしまいます。

沢尻エリカも『ヘルタースケルター』などで同じような危険なことを成し遂げてきました。非常に強い「闇」を抱えた人物を彼女は演じなければならず、そういう人物を演じるからこそ、「邪気」を抱えてしまい、自分が蝕まれていきます。『ヘルタースケルター』当時の記者会見の様子などを見ると、彼女が役に自分を侵されてしまっていることが分かります。
 


沢尻エリカは薬物の事件を通して、女優業を続けにくい状況を作り出してしまいましたが、このような形で何らかの罠に引っ掛けることにより、「邪気」は重要な役者を舞台から下ろすことを行なっています。薬物に手を出す精神は基本的には「欲望」や「依存」であって、それは「邪気」がもたらす「気持ち」だからこそ、このように言えます。沢尻エリカの「別に」事件も「邪気」に取り込まれたが故に引っ掛けられた罠です。

ヒース・レジャーは命を落とし、沢尻エリカは役者としての危機にさらされていますが、役柄を演じることがどういうことなのか、といったことや、「気」のことを見失っている現代の日本社会では、浜辺美波の成し遂げていることがどれだけ危険で命がけのことなのかが知られていません。けれども、こういった構造を理解することは大事です。そして、こういう意味合いが分かってくると、この二本のMVが如何に的確な描写なのかが分かってきます。
 


『I beg you』の流れは『春はゆく』のMVへ続いていきますが、このMVが伝える内容は浜辺美波が「光」へ包まれていくということです。この描写は、浜辺美波が「闇」に堕ち切ってしまうのではなくて、「光」が彼女を守るということを意味しています。

しかし、このMVの最後は、『花の唄』の冒頭のMVに続いていきます。だからこそ、この三本のMVが『花の唄』→『I beg you』→『春はゆく』→『花の唄』→・・・といった形で続いていく構造を意味しています。

こういった構造が意味することは、浜辺美波が「光」と「闇」の間を揺れながら生きていくということです。人間はそもそも「光」と「闇」の間を揺れながら生きていくものですが、揺れるからこそ「光」と「闇」の本質がよく分かることができます。

そして、本当に優れた役者の多くは「光」と「闇」の本質を経験的によく知っている方が多いです。「光」と「闇」の本質を感覚的によく知っているからこそ、どういったことを表現すべきかがよく分かるようになり、演技の質を高めていきます。そして、今の時代にとても重要な役者である浜辺美波が同じように、自分自身の経験を通して「光」と「闇」を理解していくことはとても大事なことです。

また、現代は「闇」が強いですし、このまま時代が進んでいくと、さらに「闇」は強くなりますから、浜辺美波が「光」を保つことがあまりにも困難な状況は自ずとやってきます。例えば、『賭ケグルイ』のような「闇」の強い人物を演じなければならない状況などです。そういった時に「闇」に堕ちては、そこから這い上がり、「光」へ戻るということを繰り返しながら、役者として生きて行かざるを得ない状況があります。

つまり、「闇」に堕ちざるを得ない状況は自ずとやってきても、そういう経験を通して、「気持ち」に対する様々な理解を深めることで、「闇」のもたらす試練を活かしながら生きていくという構造があります。この三本のMVの構造に神々が込めたメッセージはそういったことになります。

現代を生きる我々は、我々が生きている現実を軽く見てしまう病に囚われがちです。それに対して、この三つのMVは非常に重みがある表現だからこそ、浜辺美波が背負っている役割の重みと、彼女の生きている人生の重みを感じられます。このように重みを感じられるのは映像だからこそできることであって、この映像自体が浜辺美波の本質を人間に伝えるためのメッセージとなっています。

 

【最後に】

このページで例として挙げた浜辺美波の作品は『君の膵臓を食べたい』『ピュア~一日アイドル署長の事件簿』『賭ケグルイ』だけですが、彼女は他にも重要な演技をたくさん残してきました。例えば、『センセイ君主』についてはこの文章で一切触れていませんが、浜辺美波の演技は非常に重要な意味を持っています。また、これからもたくさんの映像作品に出演する中で、様々な重要な精神性を表現していくはずです。

浜辺美波が『君の膵臓を食べたい』で演じたのは山内桜良、『ピュア~一日アイドル署長の事件簿』で演じたのは黒薔薇純子ですが、彼女は「桜」と「黒薔薇」という二つの花の本質を見事に表現しています。

「桜」という植物は「女」を内に含むように「女性性」の強い植物で、金星神は古代西洋世界から「女性性」の神として、金星の惑星記号も「♀(メス)」とされてきました。ですから、「桜」という植物は金星神の植物であって、『君の膵臓を食べたい』の山内桜良は金星神の使いとしての「愛」の強い女性の一つの理想像でした。また、「桜」の色であるピンク色は「火」の象徴である「赤」に「白」を足したもので、彼女が表現した「愛」の強い「元気(火の気持ち)」は「火」というポイントで見事な演技でした。

それに対して、「黒」という色は「闇」の色で、「光の気持ち」は「愛」に基づく精神性、「闇の気持ち」は「欲」に基づく精神性ですから、「黒薔薇」とは「闇の美」の象徴です。そのような意味で、浜辺美波は見事に「闇の美」を使いこなす存在としての黒薔薇純子を演じました。彼女はこれからも様々な「花」を表現していくはずです。

現代に生きる我々日本人は、本当に浜辺美波という既に「咲き」始めた「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」という現状にあります。どうしてかというと、彼女を通して我々が見ている金星神という神のことを、名前も含めて我々はまだ知らないからです。そういったことを伝えるためにも、彼女の演技の持っている意味を作品毎に解説していきたいと思います。

また、一般的な目線だと、金星神といった考え方自体が常識とかけ離れすぎているので、神学の領域ではなくて心理学の領域に収まるレベルでの解説を作っていくことも、作品毎にやっていきたいと思います。心理学の領域での理解だけでも、我々が彼女の演技から学ぶことができる要素はとても多いからです。

西暦2000年という千年単位の節目の年に、浜辺美波程の才能を持った役者が生まれていることは偶然ではないと思っています。私は長年人間分析をしていますが、彼女の魂はあまりにも優れています。オカルトのように思われることは避けたいので、あまり書くことに気が進みませんが、彼女は元々人間ではなく天使だったはずです。

宮崎駿にせよ、ジョン・レノンにせよ、人間離れしたことを成し遂げる人々の多くは元々人間ではありません。元々天使だったからこそ、天使のレベルでの「善」を成し遂げることができるとも言えます。浜辺美波もそういった人間の1人であって、これから非常に重要になってくる役者です。

ただ、どんなに彼女が優れた演技をしても、そこから何かを学ばない限り、我々日本人は彼女の成し遂げていく偉業から恩恵を受け取ることができません。そういった恩恵を日本人が受け取ることを促す、橋渡しを促す立場でありたいと思っています。だからこそ、浜辺美波の出演する作品については、今後解説を作品毎に書いていくつもりです。