ここでは、物事を「理解する」ということが、どういう心の動きであるのかを説明していきます。「理解」という心の動きは、基本的に「分かる」ということと「知る」ことによって成り立つことなので、それぞれを説明していきます。
 

【「分かる」】

「分かる」という言葉が「分ける」と書くように、物事を「分かる」上で大事なことは「分ける」ことです。「分ける」ことによって、漠然とした物事に対して「位置付け」を行なうことができるようになり、その「位置付け」によって、その物事の「本質」を深く理解することができるからです。逆に言うと、「本質」を明らかにすることとは、「位置付け」を明らかにすることです。

例えば、様々な「気持ち」の「本質」を「分かる」ために、まず最初に必要な「分け方」が「愛(相手のため)」と「欲望(自分のため)」で「分ける」ことです。我々はいつも自分の心を「相手のため」もしくは「自分のため」に使っているので、この「分け方」は様々な「気持ち」の「位置付け」を理解することに繋がります。具体的に例を挙げると、「怠惰」は「自分のため」なので「欲望」の一種、「思いやり」は「相手のため」なので「愛」の一種というような形で、「怠惰」と「思いやり」の「本質」が見えてきます。

こういったことは他の様々なことにおいて同様に言えます。例えば、ある物質が「炭素」や「窒素」といったどんな「元素」によってできているのかを「分ける」ことによって、理解しようとしている物質の「本質」が見えてきます。

こういった説明を通して、我々が何かを「分かる」ことを目指す時、その時に「分ける」ことをよく行なっていることは意識化して頂けると幸いです。こういう意識化をすることで、何かを「分かる」ことを目指す時に「分ける」ことをすべきだということを意識しやすくなるからです。
 

【「知る」】

我々が何かを「理解する」ことを目指す時、「分ける」ことと同じくらい大事な要素が「知る」ことです。例えば、「愛」と「欲望」が「相手のため」と「自分のため」という対立軸を持っていることを「知る」ことなしに、「愛」と「欲望」で「分ける」ことはできません。また、それぞれの「炭素」や「窒素」といった「元素」を「知る」ことなしに、「炭素」と「窒素」で「分ける」ことはできません。

このような形で、我々は何かを「理解する」ことを「知る」ことと「分ける」ことを混ぜながら行なっている時もありますし、「分ける」ことだけによって行なう時もありますし、「知る」ことだけによって行なう時もあります。

また、「気付く」という心の動きも「知る」ということと似ています。「知る」は自分の外部から「情報」を手に入れるのに対して、「気付く」は自分の内部に「情報」が浮かぶことを意味しますが、両者は「情報」を手に入れるという意味では同じだからです。
 

【最後に】

このような形で、我々は何かを「理解する」時に「分ける」と「知る(気付く)」ことを使いながら、「理解」を深めている構造があることも意識化して頂けると幸いです。

物事を「分ける」上で非常に大事なことは、「分ける」上で必要な「観点」です。そういった「観点」を「知る」ということが、自分自身で物事の本質を「理解する」ということを実現していく上で非常に重要な点です。何故ならば、「観点」を持つことが「分ける(分かる)」ことを促すからです。

例えば、「誰かのため(愛)」と「自分のため(欲)」という「分け方」の「観点」があるということを「知る」ことによって、自分の心が「誰かのため」と「自分のため」のどちらを思っているのかを「問う」ことがしやすくなり、自分が抱いている「気持ち」の「本質」を明らかにしやすくなります。

このホームページは、物事の本質が見えるようにするための「分け方」の「観点」を伝えることを目指していますし、このページの内容自体がそのような意味を持ちます。「幸せ」に生きるためにも、「正しさ」のために生きるためにも、まず最初に重要なことが目の前の現実の「本質」を適切に見定めることです。そのことによって、より良い方向性が見えるようになるからです。

だからこそ、何かを「理解する」という心の動きがどのように成り立っているのかを学ぶことは大事です。というのも、「目的(目の前の現実の意味を見抜くこと)」の実現のための「手段(理解するという行為)」がどのようなものなのかを学んでいた方が、その「手段」をより適切に使いやすくなるからです。

「知る」ことがもたらす「恵」と書いて「知恵」です。本当の意味での「知恵」とは、我々が物事の「本質」をより深く見えるようにするための知識であり、このページやこのホームページを通して、そういった「知恵」を多く受け取って頂けると幸いです。