修行は修行が「やりたい」と感じてやるものではなく、修行をやる必要性が分かるからこそ「やるべき」だと感じてやるものです。そして、ほぼ全ての人間は修行をやる必要性がある状況を生きています。

例えば、自分自身の心の「未熟」は誰かを無意味に苦しめることを促しますが、親子の関係性などは良い例です。心が「未熟」な親は子供に対して誤った接し方をしてしまい、そのことが原因で子供の心に悪影響を与えるようなことが少なくありません。

だからこそ、親は子のために自分自身を「成熟」させていくべきで、そういう時に正しい動機による心の修行が始まります。この構造にこそ、子育てというものの存在価値はあります。何故ならば、我々は守るべき誰かを持つ事で、心の修行を行ないたいと思い、精神の成長が実現するからです。

子育てに限らず、我々は守るべき誰かを持つ時、その「相手のため」に心の修行をしたいと思い始めます。また、迷惑をかけたくない誰かを持つ時も、我々はその「相手のため」に修行をしたいと思えます。そして、我々人間は必ず誰かとの関係性の中で生きていますから、その誰かに対する「愛」を抱く事ができれば、修行を望む事ができます。

我々人間は「未熟」です。というか、「未熟」だからこそ人間として生きています。だからこそ、我々は本来修行をすべきであって、子育てに象徴されるような、修行を望む事が実現しやすい様々な構造があります。