「生きろ、そなたは美しい。」

アシタカの発言は我々に多くを教えてくれます。この発言は彼が「美」の価値を知っていたからこそ生まれている発言です。というのも、「美しい」から「生きろ」ということを言うためには、様々な前提知識が必要だからです。

「美」は様々な「価値」を持っています。例えば、ある時は人を癒し、ある時は人を感動させ、ある時は人を惹きつけ、ある時は人を動かします。そういった様々な「美」の「力」が「美」の「価値」に繋がっていて、アシタカはそれを知っていたはずです。

アシタカが育った村が、そういう「価値」を教えることができた村であることは想像できます。では、現代はどうかというと、我々は「美」の本質を学びづらいです。というのも、そういったことを義務教育で教わることもなければ、それを教えられる人も少ないからです。

「美」の本質を知るということは、「美しさ」と「醜さ」の違いを知るということでもあり、「美」と「善」の関係性を知るということでもあります。そして、「美」と「善」の関係性を本当の意味で学ぶためには、自分自身の中に大きな「善」を養う必要があります。

大きな「善意」が己の中にあるからこそ、ある人の「美」の持っている「力」が見えるようになりますし、その「力」の存在を嬉しくも感じます。そういった意味で、「美」の「価値」を感じるということは、どれだけその「美」の存在を嬉しく感じるかということでもあり、その根本には「善意」があります。

つまり、「美」の「価値」を知るということは、言葉のレベルでこういった構造を理解するということでは不十分で、自分自身をより「善」なる存在にしていくことと結びついており、なおかつ、「美」の「力」を経験を通して学ぶことができるような人生を生きる必要もあります。

「美」の本質を教えられる人が少なく、「善意」を失いがちで、「美」の「力」を実践できる人が少なくなってきている現代社会の中で、「美」の本質が見えるようにすることは大変難しく、その本質を言葉に変換して相手に教えることは更に難しいことだと思います。

だからこそ、とても「美しさ」のある心を持っているにも関わらず、それを自覚していない人は少なくありません。また、周りの人もその「美」を見抜けないからこそ、その「美」を失わせるようにその相手に影響を与えてしまう現場もあります。また、「美」の「価値」が常識化されていない世の中だからこそ、「美」を持つ人もその「力」を100%発揮せずに生きてしまいがちです。

本当の「美しさ」を手に入れ、なおかつ、「美」の「価値」を知り、その「美」を「他者のため」に可能な限り使って「生きる」こと。それは明らかに「正しい」ですし、「正しさ」を重要視していたアシタカは当然このような構造を当たり前のものとしていたと思います。

こういったことを踏まえて「生きろ、そなたは美しい」というアシタカの言葉を捉え、この言葉の意味を振り返り、この言葉と共に生きていくなら、この言葉は我々に「正しい道」を教えてくれると思っています。