「自分が救われたい」という心を抱くなら「他者を救いたい」とは思えなくなるのに対して、「他者を救いたい」という心を抱くなら「自分が救われたい」とは思えなくなります。この構造は大変重要な意味を持っています。

「他者を救いたい」という心は「愛」であるのに対して、「自分が救われたい」という心は「欲望」であり、この「欲望」は他者に対する「依存」や「執着」を生み出します。そして、それは「苦しみ」に通じています。

例えば、「自分が救われたい」と思っている、心に苦しみを抱えた女性が、ある男性と恋人となり、その恋人と一緒にいる時に「自分が救われた」感覚を抱く場合、その女性は男性に対して「依存」や「執着」をしやすいです。しかし、いつも一緒にいられるわけでもないので、「依存」や「執着」は「苦しみ」も生み出しますし、別れた場合は大きな「絶望」さえも生み出します。

「自分が救われたい」と思っている限り、このような「欲望・依存・執着」などの「罠」に捕まってしまいます。それに対して、「他者を救いたい」と思うなら、自ずと「自分が救われたい」と思わなくなるので、「救われる」必要がなくなります。

つまり、「救われたい」と思うからこそ「救われる」必要性が生まれるのに対して、「救われたい」と思わなければ「救われる」必要が無くなります。言い換えると、「救われる」必要性の有無を決めるのは我々の心に過ぎません。

このような構造が見えてくると、「自分が救われたい」と思う心が如何に危険なのかが見えてきますし、「他者を救いたい」と思う心が如何に我々の心を守るのかも見えてきます。

とにかく大事なことは「救われたい」と思わないことです。「救われたい」と初めから思わなければ「欲望・依存・執着」などによる「苦しみ」も生まれませんし、その「苦しみ」が故に「救われたい」とより一層思ってしまうような、負の循環に捕まらずに済みます。

とは言っても、「自分が救われる」ために「他者を救いたい」と思おうとしても、「自分が救われる」ことを心が無意識に目指してしまいますから、「欲望・依存・執着」などに囚われます。大事なことは本当に「他者を救いたい」と思うことです。

それを実現する上で重要なことは、自分が大事に想う誰かと出会うことですし、そういう相手と共に生きていくことです。何故ならば、自分が大事に想う誰かと共に生きていくことは「相手のため」という「愛」を抱くことを促し続けるからです。また、必ずしも相手が人間である必要もなく、ペットに対して「愛」を抱くことも大変大事です。

また、自分の身近な範囲でも、世界規模の範囲でも、どのような「問題」が人々を苦しめているのかを知ることで、それらの「問題」を「解決」したいという心が生まれやすくもなります。そういうことが「他者を救いたい」という心に繋がります。

本当の意味で「他者を救いたい」と思うなら、「自分が救われたい」と思う時間さえもなくなります。何故ならば、本気で「他者を救いたい」と思うなら、それだけで非常に忙しくなるからです。

ただ、我々の抱く精神性は一瞬一瞬の心の選択なので、基本的には「他者のため」に生きることができている人でも、ふとした瞬間に「自分のため」を思ってしまうことはあると思います。

そういった時に、この文章の内容を思い出して頂き、「いけない、自分に囚われるな、罠に囚われる」と思えるようにして頂けると、「欲望・依存・執着」などに囚われることを回避しやすくなるので、そのようにこの文章を活かして頂けると幸いです。