ここでは、「心」の見つめ方について書いていきます。「心」を見つめるだけで様々なことは分かります。しかし、正しい「心」の見つめ方を行なわない限り、様々なことは理解できません。だからこそ、正しい「心」の見つめ方について、ここで説明します。
 

【太陽を浴びる場合】

太陽を浴びると気持ちがいいです。この事実から、太陽は何かしらの良い影響を我々に与えてくれているのであろうということは分かります。それを具体的に書くと、太陽からの「火の気」が我々に入り、そのことによって「元気」になるということです。この例はこのホームページでよく使ってきたので、ここでは、これ以上の説明は控えさせて下さい。

太陽が我々に「火の気」を与えてくれているということに対して実感を持つためには(「気付き」を得るためには)、まず「太陽を浴びて気持ちがよくなる」という「経験」が必要です。そして、その次に必要なことは、自分の心が「気持ちよくなっている」ということを「見つめること」です。それは「自分がどのような気持ちを抱いているのかを分析すること」でもあります。これが「心を見つめること」です。何かを「経験」して、その時に「自分が何を感じているのかをありのままに見ること」が、「心を見つめること」になります。

当たり前の説明に感じられるかもしれませんが、この「経験」と「心を見つめること」のプロセスの流れを「意識化」することは、とても大事なことです。なぜならば、「心を見つめよう」という「意識」がないと、どんな「経験」も流れていってしまうからです。そのようにして、「経験」が流れていってしまうと、大事なことを学ぶことはできません。しかし、「意識化」することによって、そのように流れていくことを防ぐことができます。

実際、多くの人は「経験」はしても「心を見つめること」をしないが故に、大事なことを学ぶことができていません。例えば、「元気を出したい時は太陽を浴びるといい」という、我々の生にとって、とてつもなく基本的なことを「意識」して生きている人は多くはありません。このことに我々が如何に「心を見つめること」をしない状態で生きているのかということがよく表れています。

そして、あることを知らない限り、そのことを実践することはできません。だから、我々はいつもそこにある太陽という、とてつもなくありがたい存在を全然使うことができていません。だからこそ、「火の気(=元気)」が足りなくなり、心を病んでしまったり、病気になったりしてしまっています。

「ストレス」を抱えてしまったり、身体の調子が悪かったり、心を病んでしまったり、病気になってしまったら、まず太陽を浴びることが最も有効で、すぐそこにある解決策です。しかし、我々はその方法を知らないために、薬に頼ったりして、薬の副作用で苦しんだりしています。我々は本当に愚かなことをしています。きっかけは、「経験」から学ばなかったことであり、「心を見つめなかったこと」です。

この太陽の例から、「心を見つめること」がどれだけ重要かを分かってほしく思います。「心を見つめる」ならば、大事なことに「気付く」ことができます。そして、その「気付き」が我々の生を本当に助けてくれます。
 

【出来事の場合】

太陽を浴びている時に「心を見つめること」は難しくありません。しかし、出来事が起こった時に「心を見つめること」は太陽の場合よりも難しいです。

例えば、ある人が、Aさんに文句を言われた時は、Aさんのことを許せて、Bさんに文句を言われた時は、Bさんのことを許せなかったということを「経験」したとします。その時にもしこの人が「心を見つめること」をしたいのであれば、自分に対して「心の見つめ直し」を行ない、「私はAさんのことを許せるだけは『愛』があって、Bさんのことを許すことができないだけ『愛』に欠けていた」ということを「認める」ことが必要です。この一連のプロセスが「心を見つめること」です。

太陽を浴びていて気持ちよくなることは簡単に「認める」ことができます。しかし、この場合は太陽のケースよりは難しいです。何故ならば、「心の見つめ直し」の機会を自分で作る必要がありますし、自分の「愛」が欠けているということを「認める」というプロセスが入るからです。また、「許す」という心の動きが「愛」に基づく心の動きであるという「知識」も知っておかないといけません。この「心の見つめ直し」「認める」「知識」の三つについてそれぞれ書いていきます。
 

[「心の見つめ直し」]

太陽を浴びている時は、その時間に「心を見つめること」は簡単です。なぜならば、その時に他のことを行なっていないからです。しかし、出来事の場合はその時に「心を見つめること」もできますが、出来事も進行します。ですから、より「見つめ直し」の機会を自分が作る必要があります。

現代人はそういった「見つめ直し」の機会をあまり作りません。何故ならば、「より良い人間になりたい」と思いながら生きている人が少ないからです。それは、「楽に生きたい」と思っている人が多いとも言えます。なぜならば、自分の心を見つめながら生きることは楽ではないからです。また、「より良い人間になりたい」と思っている人であっても「自分の悪いところを改善したい」という気持ちを持っていない限り、「見つめ直し」はなかなかできません。

「出来事」から「気付き」を得るための第一歩はこういった「見つめ直し」の機会を自分で作ることです。それは、あなた自身しかできないことですし、あなた自身がいつでもできることでもあります。
 

[「認める」]

また、「見つめ直し」を行なったとしても「認める」というプロセスを行なうことが人は苦手です。なぜならば、自分の否を認めるためには、魂の「強さ」が必要だからです。どうして「強さ」が必要かというと、自分の悪いところを「認める」のは苦しいからです。上の例で考えると、この場合の「認める」とは「自分には『愛』が足りない」ということを「認める」ということになりますが、自分が「愛」の方向性で生きたければ生きたい程、「自分の『愛』が足りない」ということは「認める」のが苦しいものです。

その苦しさを引き受けられるだけの「強さ」がないと、自分の否を「認めない」ために様々な方法を使います。例えば、以下のような方法です。
 

例1:「アイデア」を使う

「私は『愛』が欠けていたのではなくて、こんな文句を言われたら許せなくて当然でしょ」といった「アイデア」で自分を守るという方法です。「これが普通」「これが当然」「皆そうだから私もこれで大丈夫」というのは、「甘さ」という闇の感情であって、このアイデアは「甘さ」の「アイデア」です。こういった様々な闇の「アイデア」を使うことで「自分の否を認める必要がない」と自分に思い込ませることができます。

例2:「他者の共感」を使う

上のような「アイデア」を肯定するために他人に「愚痴」を言い、「共感」を求めるといった方法です。他者の「共感」は自分が正しいと思うための一つの方法です。この場合だと相手に「本当にその人はひどいね」と言ってもらうことで、「愚痴」を言った方は「これだけ言われたら許せなくて当然」と自分を再肯定することができます。
 

しかし、実際はこの二つの方法は方法として誤っています。ただ、現代人はこれらの方法をよく使っています。そして、こういった誤った方法はこれだけではなくて、様々であって、現代人はそういった誤った自己肯定法をよく使っています。

この二つの例で問題なのは、「自分は間違ってない」と思いたいがために上のようなことを行なっていることです。「自分が正しい」ということを証明するためには明確な根拠が必要です。しかし、これらの二つの方法はどれも「自分が間違っていない」ということを証明する方法にはなっていません。

1のように「アイデア」で考える場合、その「アイデア」が「完全に正しいアイデア」=「真実」であるならば、それは正しい方法です。「真実」が根拠になれば、その「アイデア」は「真実」だからです。しかし、「皆がそうだから、私もそれでいい」という「アイデア」は「真実」ではありません。皆がしていることが正しいことだとは限らないからです。ですから、1のような方法自体が誤っていることになります。

2のように「他者の共感」を使う場合、それも他者の「意見」を聞いているだけであって、「真実」ではありません。他人と「意見」が一致すると我々はホッとするものです。その「安心」を求めている行為であって、「何が正しいか」を証明する行為ではありません。ですから、1と同様に、この方法自体が誤っていることになります。
 

このような形で、我々は「自分の『否』を認めないため=自分の『闇』を正当化するため」に様々な方法を取ります。しかし、実際はその方法自体が誤っています。では、どうしてそのような誤った方法を取っているかというと、皆がやっているからであって、その方法自体が正しいかどうかを考えられる「賢さ」が足りないからです。

ですから、このことから理解して頂きたいのは、「心を見つめること」を行なうためには「賢さ」が必要だということです。「賢さ」がないと、間違った方法を選んでしまい、「心を見つめること」が成り立ちません。

そして、この二つの例は結局は「自分の『愛』が足りないこと」を「認める」ということが嫌だからこそ、発生した心の動きです。では、どうしてそれを「認める」のが嫌だったかというと、魂が「弱さ」を持っているからです。

ですから、「認める」というプロセスを行なうためには、魂の「強さ」と「賢さ」が必要です。何故ならば、「強さ」があれば、自分の否を「認める」ことができ、「賢さ」があれば、自分をごまかすための誤った方法を取らないからです。また、「賢さ」がないと自分をどのように見ればいいのかも分からないという面があります。

ですから、「心を見つめること」は魂の「強さ」と「賢さ」を養っていく過程だと思って下さい。そして、こういったこと程に我々の魂の「強さ」と「賢さ」を養う方法はないと思って下さい。


※「なぜ、誤った自己肯定法を皆が行なっているのか?」

少し発展系の話なので、初期の段階は絶対にここを読み飛ばして下さい。理解して頂けない限り、「オカルト」のように感じられてしまうからです。

神々も悪魔も「気」を使って、我々に様々な「アイデア」を与えることができることは、よく書いてきました。その「アイデア」の一つが、「方法」です。どうして、我々がこういった全く無意味な「自己肯定法」を行なっているかというと、悪魔にやらされているからです。

悪魔は我々の魂の「弱さ」に付け込みます。結局、ある人が自分の否を認めたくない時に、それを認めなくてもいいような「方法」を悪魔は「気」を送ることによって我々に与えます。そして、「賢さ」が足りなかったり、魂が「弱さ」を抱えていると、それを「食う」ことになります。これが悪魔が我々にもたらす「餌」です。

我々人間は「賢さ」が足りず、魂が「弱い」が故に「誤った自己肯定法」という悪魔の「餌」を食ってしまっています。そして、それは悪魔的に言うと「ウマイ」ものです。自分の否を認めず、自分は正しいと思うのは、我々にとっては「ウマイ」からです。このような形で、悪魔は我々の魂の「弱さ」や「愚かさ」に付け込んで、「餌」を渡し、我々の魂が「光」へ向かうきっかけを奪っていきます。何故ならば、我々が「光」の方へ向かうと、悪魔にとっては都合が悪いからです。

ですから、正しい「心の見つめ方」を実践していく過程は悪魔の「呪い」を解いていく過程でもあります。「呪い」とは「悪魔のもたらす『餌』を魂が『好き』になってしまっていること」です。「呪い」というと、それこそ「オカルト」のように感じられるかもしれませんが、この世界はこういった「呪い」に満ちています。「呪い」の意味とは「その魂を支配するための方法」であって、それは「その魂に何かを好きにさせること」です。

真に心を見つめながら生きていくと、「自分はこういう時にこういう方法を使って、自分を肯定化する癖を持っているな」と「気付き」を得ていきます。そういった「魂の悪い癖」の全てが「悪魔の呪い」とも限りませんが、自分が自分自身にかけた「呪い」か「悪魔の呪い」のどちらかです。「呪い」とは「悪い癖」のことです。そして、それは自分か他者がかけていることであって、それを言い換えると自分か悪魔がかけたものです。

「呪い」を解くために必要なのは「賢さ」と「強さ」です。そういった魂の闘いをするために我々は生きているのですが、こういった態度とは今の人間の在り方とは随分かけ離れています。実際は我々が「心を見つめること」をしないことが、我々が悪魔にかけられてしまった最も大きな「呪い」です。「心を見るのは大変で、見ない方が楽」という「餌」を皆が食ってしまっています。しかし、実際はその「餌」を食えば食う程、悪魔に我々は心を奪われていきます。どうして心を奪われるかというと、魂が「闇」へ向かうと、簡単に悪魔は我々に「闇の気」を入れることができ、「闇の気」を大量に入れると、我々の「感情」「思考」を悪魔が「コントロール」できるからです。

初期の段階ではここは分かる必要はありませんが、理解が進んでいく中で、理解して頂けると幸いです。
 

[「知識」]

「心を見つめること」のためには「知識」も必要です。しかし、それは特別な「知識」ではなくて、言われれば当然といった内容です。上の例で言うと、「相手を『許す』ためには『愛』が必要である」といったことです。しかし、それは「知識」として自分の中で整理しておかないと「心を見つめる」時に使うことができないので、そういった重要な「知識」を「理解」しておく必要があります。

私の様々な文章は、こういった「心を見つめること」を支える「知識」です。言い換えると、「心を見つめること」を行なうために必要な様々な「観点」です。

そういった「知識」の中でも特に重要な要素は、一体どういった感情が「光の感情(いい感情)」で、どういった感情が「闇の感情(悪い感情)」であるかということを知っておくことです。言われれば当然というような内容ですが、これも「意識化」していない限り、日常で活かすことができません。例えば、「愛」「向上心」「優しさ」「勇気」は「光の感情」、「嫌悪」「欲望」「怒り」「恐怖」「不安」などは「闇の感情」です。以下に一覧を書いていますので、それぞれの解説を読んで頂き、よく「理解」して頂ければ、と思います。

「心を見つめること」において大事なことは自分が一体どういう「感情」を抱いているのかを「見極めること」です。この「見極め」の過程において、「知識」と「強さ」が必要になります。どういった「感情」があるのかということを知らない限り、「選択肢」が曖昧です。そして、「強さ」がないと、自分が見たいようにしか見ることができません。

例えば、ある女性がいて、その方が恋人に対する気持ちが「愛」なのかどうかを問います。しかし、その時に「愛」とはどういう感情のことなのかを知っていないといけません。また、「愛」と近い感情も知っておいた方が適切に判断できます。例えば、「愛」に近い感情は「恋」であったり、「依存」「欲望」であったりします。ですから、この場合に自分がどんな「感情」を恋人に対して抱いているかを知るためには、「愛」と「恋」の違いを知っていたり、「依存」や「欲望」のことをよく知っておく必要があります。そして、その上で、現実を受け入れるだけの「強さ」が必要です。特に、恋人に対する気持ちは「愛」であってほしいと多くの人は思うものです。だからこそ、自分の恋人に対する気持ちが「依存」であったりする場合は、それを「認める」のはとても苦しいことです。

本当は、我々が恋人や結婚相手と共に生きていく時、自分の相手に対する気持ちが「愛」であるかをよく自分自身に対して問いながら生きていくべきです。何故ならば、そういった恋人や結婚相手のことは大事にすべきであって、もしその気持ちが「愛」ではなく「依存」「欲望」であるならば、相手を自分のために利用しているだけだからです。

だから、誰かのことを大事だと想い、そういった人達と生きていきたいと思うのであれば、「感情」について理解すべきです。そうでなければ、相手を傷付けてしまいます。

逆に言うと、我々がこれだけ傷付け合っているのは「感情」について理解が浅いからです。ですから、「感情」に関する様々な「知識」は理解をして頂ければ、と思います。
 

[まとめ]

以上が「心を見つめること」についての概要です。「心の見つめ方」の話は具体例を上げると果てがない話なのですが、今後もこの文章はより良い形に書き直していきます。

他人はあなたの「心を見つめること」はできません。何故ならば、人間はお互いの心が見えないからです。だから、自分の「心を見つめること」ができるのはあなたしかいません。我々は自分の心を、自分にとって都合のいい形ではなく、ありのままに見る必要があります。ありのままに「心を見つめること」はとても大変なことです。何故ならば、人は自分を見たいように見たいという「弱さ」を持っているからです。だからこそ、人間全体が自分の心を見ない方向へ向かい、そのことによって、大事なことを忘れてしまった形になります。

これから人間がしなければならないことは、自分の心を曇りなき眼で「見つめること」です。大事なことを思い出す過程とは、本を読む事などとは違い、魂の闘いです。魂の闘い無しに、大事なことに「気付く」ことはできません。その一つの闘いであって、この闘いの最も基本的なものが「心を見つめること」になります。「心をみつめること」をするためには「強さ」が必要です。ですから、大事なことを思い出していく過程は、「強さ」を養っていく過程だと理解して頂けると幸いです。

これらの文章はただ「心を見つめること」の「観点」を書いているに過ぎません。しかし、「観点」がないと、どのように「心を見つめること」を行なえばいいのかが分かりません。私の文章はそういった「気付きのための手助け」と理解して頂ければ、と思います。そして、大事なことは、皆さん自身の力で「気付き」を得てほしく思っています。