ここでは、食べることとどう付き合っていけばいいのかということについて書きます。「食欲」という言葉が表すように、食は欲望(闇)にも繋がります。しかし、我々は食べなければ生きていけません。では、どこまでが欲で、どこからが欲ではないのか?そのことを明確に我々は知らなければなりません。

基本的な考え方はシンプルです。食べることが目的であるのであれば、それは欲望という闇です。食べることが生きるための手段であるのであれば、それは欲ではありません。

美味しいものを食べることが間違っていると言っているのではありません。美味しいものを食べることが目的であってはならないということを言っているのです。美味しいものを食べることによって我々が得ることは快楽(闇)であって、喜び(光)ではありません。

しかし、当然以下のようなことは食が目的であっても光の行為です。例えば、愛する人の作った料理を食べることでその人の思いを食べ喜びを感じたり、特別な記念日に豪華な食事をして何かを祝うといったことです。人間の長い歴史の中で見ると、特別に美味しいものを食べることは祝いの宴の中で行なわれるものでした。今は年末ですが、おせち料理などはそういったものだと思います。

「食を楽しむ」という考え方が最近の日本では流行っていますが、では食べ物とは何でしょうか?それは言うまでもなく他の命です。それが植物であろうと魚であろうと肉であろうと、彼らは生きていた命です。そして我々に食されるために我々によって殺されています。そして、全ての生き物には魂が宿っています。

ですから、「食を楽しむ」とは「他の命を食べることを楽しむ」と言っていることを意味します。これは非常に残酷なことであって、とても清いことではありません。現代の日本人はそのような残酷なことを「グルメ」という言葉で正当化しています。グルメを趣味になどしていると闇の気を身体に宿し続け、人生が狂っていきますから気を付けて下さい。

また、食べる側ではなくて、料理を作る側の人間が気にしなければならないことは美味しいか美味しくないかではなくて、健康かそうでないか、ということです。どんな美味しいものでも不健康であれば、それを食すことは毒を盛っているようなものです。逆に大して美味しくなくても身体に良きものであれば、それを食べた人は助けられます。我々は美味しいかどうかということをこだわり過ぎであり、健康かどうかということをもっと考えないといけないといけません。

そして、身体に良いものとは良き気がたくさん入っているものです。我々現代人は気の観点で食べ物を考えません。例えば、ねぎは闇の種の植物であり、気の観点で言うと最悪な食べ物ですから食べるべきではありません。そういった気の観点での作物の評価をこれからたくさん書いていくと思います。また、我々は肉を食べますが、陸上系の動物の肉の気は闇の気に満ちています。特に豚、牛は食べてはなりません。酒も同様です。(ちなみに、陸上系の動物が闇の種であるというわけではなくて、それを食べることが人間の身体に合わないようにデザインされているということです。)

我々日本人には「いただきます」という非常に美しい言葉があります。「いただきます」という言葉の意味は「あなたの命を頂かせていただきます」ということです。我々はそのような思想の下で、それを食べる前に手を合わせて、そこで我々が頂く食べ物に宿っていた魂のために祈っていたのです。

現代、どれだけの日本人が食事前に正しい形で「いただきます」と手を合わせて、その魂のために祈っているでしょうか?

「グルメ」などあり得ません。食を目的にしてはなりません。食はあくまでも生きるための手段です。そして、我々が生きていくために奪った命の分まで、この世のために尽くして生きることが、そこで失われた命に対する敬意でもあります。そこまでのことを思って「いただきます」と手を合わせて下さい。生きることとは今の日本人が思う程、軽いものではないのです。

お互いが支え合うシステムとしてこの宇宙は存在し、我々はその中で魂の修行をしています。その支え合いのシステムを最も象徴していることが、「何かを食べなければ生きてはいけない」というこの事実です。

人間は本来この地球の守護者のような存在でした。人間同士だけでなく、動物や植物など、様々な生き物がちゃんと生きることができるように環境を整え、そして我々が育てた作物の一部を我々が頂くことによって我々もまた生きていました。我々が戻るべき姿はそのような本来の人間の姿です。