「もう終わりだ。美しくなかったら生きていたって仕方がない。」

この言葉はハウルが自分の「美」に対する「執着」が故に、「美」を失うことについて「絶望」を抱くことを表現しています。この「絶望」によって、ハウルは闇の精霊を呼び出してしまい、「邪気」でドロドロになってしまいます。

見た目の美しい人程、自分の「美」が失われることに対して「執着」や「絶望」を抱きやすく、そういう意味で、この描写は我々に危険な「道」の本質を分かりやすく教えてくれます。ただ、さらにこの言葉の意味を深く分かる上で大事なことは、アシタカの「生きろ、そなたは美しい」という言葉との比較です。

ハウルとアシタカは「善」の実践のために、悪魔(タタリ神)の力を借りているという点が共通しています。しかし、アシタカは心の「成熟」が故にタタリ神に飲み込まれず、ハウルは心の「未熟」が故に悪魔に飲み込まれつつあります。この2つの言葉は、この2人の違いを象徴しています。

「美しくなかったら生きていたって仕方がない」という言葉はハウルが「自分のため」に、自分の「生」のことを重要視しているのに対して、「生きろ、そなたは美しい」という言葉はアシタカが「他者のため」に、相手の「生」のことを重要視していることを意味するからです。

特に、この時のアシタカは瀕死の怪我を負い、なおかつ喉に剣を突きつけられている状態でこの言葉を発しており、そのことから、アシタカが如何に自分の「生」よりも他者の「生」を重要視しているかが分かります。

それに対して、この時のハウルは自分自身のことに囚われるが故に、闇の精霊を呼び出すことによってソフィー達を危険に晒していることが見えなくなっており、このことから、ハウルが他者の「生」よりも自分の「生」を重要視してしまうことがあることが分かります。

我々は無意識にもいつも「自分」と「他者」のどちらを重要視するのかを決めています。そして、「自分」が危機的な状況に置かれれば置かれる程、多くの人は「他者のため」よりも「自分のため」を選んでしまいます。

そこに心の隙が生まれ、ハウルのように「邪気」に飲み込まれてしまう危険が生まれます。逆に、そういった心の隙が少なければ、アシタカのように「邪気」に飲み込まれてしまう危険を回避できます。

髪の色が変わってしまっただけで、自分の「生」に絶望し、全く「他者のため」を思えなくなるハウル。自分が死に直面しているその瞬間でさえも、他者の「生」のことを考え、最後の力を振り絞って「他者のため」に何かを伝えようとするアシタカ。こういった両者の違いが、悪魔(タタリ神)からの取り憑かれてしまい方の差を生んでいます。

基本的に「光のための闇」を実践することは大変危険なことです。というのも、「光のための闇」を実践しているつもりでも、「闇」を実践しているなら「闇」が自分を取り込んでいき、無意識に「闇のための闇」に堕ちるからです。特に、ハウルやアシタカのように、悪魔やタタリ神の力を借りて「光のための闇」を実践するなら更に危険です。

そういった危険性のことをハウルは我々に教えてくれますし、ハウルとアシタカの違いを比較することによって、アシタカが如何にそういった危険性を回避していたのかを我々は学ぶことができます。

さらに、このことに関して他者がどのように影響を与えていたのかを知ることもとても大事です。ハウルはソフィーの助けがあったからこそ、悪魔に取り憑かれずに済んだのに対して、アシタカはサンの助けがなくとも、タタリ神に取り憑かれずに済んだことは明確です。

「未熟」は他者の助けを必要な自分を生み出し、「成熟」は他者の助けを不要とする自分を生み出します。当然、他者の助けが無くても心を「闇」に堕とさず、「善」を実践し続けることが理想で、そのような意味で、我々はハウルのような「未熟」に留まらずに、アシタカのような「成熟」を目指すべきです。

「闇」に取り込まれ「闇」に同調していくなら、我々は無意識にタタリ神となってしまいます。だからこそ、可能な限り「闇」の力を使わないこと、つまり、「闇の気持ち」に同調しないことが大事です。「気持ち」という言葉が示すように、「闇の気持ち」を抱かないことは「闇の気」を「持たない」ことだからです。

意図せず「闇」の力を借りてしまっているとしても、タタリ神のような存在になってしまうことを回避する上で大事なことは、アシタカのように心の隙を無くしていくことです。つまり、アシタカのように、強く、正しく、賢く、清くなることが我々の理想です。

しかし、我々人間が生きていく中でアシタカの境地に辿り着くことは容易ではなく、ハウルがソフィーに「愛」を抱いたことで、ハウルが悪魔になることを防げたように、大事に想う誰かと「共に生きる」ということは我々の生を大きく支えます。

残念ながら「気」は目に見えないからこそ、誰かが「邪気」に取り込まれていても目に見えません。しかし、『ハウルの動く城』も『もののけ姫』も「気」を目に見える形で描いているからこそ、我々の生きている世界の本質について、分かりやすく教えてくれます。

「光のための闇」の危険性、「闇」に取り憑かれてしまわないために何が大事か、「邪気」とは何なのか、といった我々が生きていく上で知っておくべき基本的なことを宮崎駿作品は教えてくれます。その学びを深めるためにも、ハウルとアシタカとタタリ神の違いをこの文章を通して知って頂けると幸いです。