我々人間は自分自身の「意志」で何を食べたいかを決めることはできません。何かを食べたいっていう「気持ち」は自分が「起こす」ものではなくて、自分に「起こる」ものだからです。

結局、「気持ち」という文字通り、どういう「気」を体に「持っている」のかによって、何を食べたいかという「気持ち」が変わってきます。「気」が我々に「気持ち」を起こしているからです。

ですから、自分がいい「気」をたくさん持っていたら、健康的な食べ物を食べたいと思い、悪い「気」をたくさん持っていたら、不健康な食べ物を食べたいと思います。

逆に言うと、健康的な食べ物を食べたいと思っているのか、不健康な食べ物を食べたいと思っているかによって、自分がいい「気」に満ちているのか、悪い「気」に満ちているのかが分かります。

この構造は何を食べたいかだけではなくて、何が好きか、何をしたいか、何が欲しいか、誰と一緒にいたいか、といった全てのことにおいて同様に言えます。

例えば、いい「気」に満ちていると愛情に満ちた人を好きになり、悪い「気」に満ちているとワガママな人を好きになります。そして、愛情に満ちた人と一緒にいれば「幸せ」に近づきますが、ワガママな人と一緒にいれば「不幸」に近づきます。

いつも、こういった逆算の発想は大事です。自分に起こる「気持ち」が自分がどういう「気」を「持っている」のかを教えてくれます。そして、いい「気」は我々を「幸せ」に、悪い「気」は我々を「不幸」にします。

これが「気」を「持つ」と書いて「気持ち」と書くことから、自ずと出る結論なのですが、これが宗教だと思われてしまってる時代です。昔の日本人は当たり前に知ってたから「気持ち」という言葉が今でもあるのですが、それも日本人は忘れてしまっています。

これが宗教だと言われる時代だから、厄介な時代です。「常識」が正しいと思っていると、宗教に見えるのですが、「常識」は今流行ってる思想に過ぎませんから、「常識」を鵜呑みにするのは非常に危険です。

人間が悪い「気」を抱えると、「真実」を信じたいと思わず、「間違い」を信じたいと思うから、「常識」に関するこういう厄介な構造も生まれます。こうやって、悪い「気」は集団まるごと「不幸」にする力も持っています。

また、「真実」は「信じる」までもなく、「知る」ことができるものなのですが、そのためには「知ろう」とする努力が必要です。しかし、悪い「気」を抱えると「めんどくさい(知らなくてもいい)」と思うから、自分自身の力で知るための努力をしません。だから、「知る」ことができません。

全部はこのような形で「気持ち」という言葉から逆算できます。それがよく分かると、いい「気」と共に生きることが如何に大事で、悪い「気」と共に生きることが如何に危険かが分かります。

「愛」を中心とした、いい「気持ち」を抱いてれば、いい「気」を「持ち」、「欲望」を中心とした、悪い「気持ち」を抱いてれば、悪い「気」を「持ち」ます。

結局、自分がどういう「気持ち」を抱くかによって、我々はどういう「気」を「持つ」かを決めています。だから、いい「気持ち」と生きていくことは大事です。この結論の重みを理解して頂けると幸いです。