ここでは鏡について書きます。人間は忘れてしまっていますが、鏡とは魂に大きな影響を与えるとても力のある道具です。使い方によっては非常に危険な道具です。『白雪姫』での「鏡よ、鏡、世界で一番美しいのは誰?」という台詞はとても有名ですが、鏡とはその性質上、所謂「魔法」さえも可能にする道具です。この文章を通して、そういったことを理解して頂ければ、と思います。

我々は鏡を見る時、自分を見ている気分になり、心が非常にそこに寄せ付けられます。自分が映っているが故に、親近感が湧くとも言えます。しかし、実際我々が見ているものは、自分自身ではなく、ただの鏡です。そして、心がそこに強く惹き付けられる時、その鏡自体から強く「気」をもらいます。なぜならば、「見る」という行為が1つの「気」の摂取の方法であり、何かを見ている時、心が惹き付けられれば惹き付けられる程、我々はより多くの「気」をもらうからです。

例えば、我々が空を見ていて、気持ちが良くなるのは、空を見ることによって、目から「光の気」を摂取しているからです。そして、夕日や朝日などを見て強く感動する場合とは、太陽から「光の気」を多く摂取しています。だから、夕日を見て感動した後はしばらくの時間、気持ちのいい状態が続きます。

ですから、例えば鏡に悪魔が宿る時、その悪魔から我々は「闇の気」を多くもらうことになります。そのことを狙って、悪魔はよく鏡に宿ります。実際、アフリカにイボガという闇の精霊(悪魔のような存在)が宿る木がありますが、そのイボガの儀式においては参加者はずっと鏡で自分の顔を見続けます。その時にイボガの精霊は鏡に宿り、参加者に「闇の気」を大量に入れて、その人間を「支配」します。その映像は以下です。
 


『白雪姫』で鏡を使う王妃は、鏡を使って悪魔と会話をしている女性のことを描いています。もちろん、その描写は少し極端ですが、実際は鏡を見ることによって、その鏡に宿る悪魔から「気」を強くもらい、そのことによって悪魔と会話をしています。悪魔から何かを教えてもらっている形です。

 

「会話」と書くと、我々人間は言葉を発した「会話」しかイメージしませんが、「気」で「会話」はできます。そして、「気」での「会話」は我々はいつも行なっています。どのような形かというと、ふと頭に何か思い浮かぶのであれば、それは相手からの語りかけになります。例えば、悩み事を抱えている時に海に入っていたりすると、ふと解決策が思い浮かんだりします。これは、海の神様である海王星神様(ポセイドン)が我々に「気」を送ることによって、語りかけているからです。しかし、現代人はそういった時に浮かぶ解決策を自分で思い浮かべていると思ってしまっています。しかし、実際は教えられています。
 

[「メイク」を教える]

海に入ると海王星神様が語りかけやすいのと同様に、悪魔が宿る鏡を見ていると、悪魔が語りかけやすくなります。そして、その語りかけは何か尋ねなくても向こうから何かを教えている場合があります。特に多いのはメイクの方法を悪魔に教えてもらうというものです。

女性が鏡に向かってメイクをしている時、時に新しいメイク方法を生み出したりしますが、もしその鏡に悪魔が宿っているのであれば、悪魔からその方法を教えてもらっています。それは白雪姫において、鏡に宿る悪魔が「世界で最も美しいのは白雪姫」と答えることと全く同じです。「気」には「情報」を乗せることができます。その「情報」の1つが何らかの「方法」です。メイクの「方法」もこのパターンになります。

(余談ですが、神々は今この瞬間にも膨大な命を同時に支えています。どうして彼らにそんなことができるかというと、彼らは「気」を司っており、「気」であれば、言葉と異なり、一瞬で膨大な「情報」を相手に送ることができるからです。もし、彼らが会話のみで色々なことを行なっているのであれば、とてもこの世全体を支えることなど不可能です。彼らは神々同士でいつも膨大な会議を「気」で行ないながら、宇宙に生きる我々のような物体的存在に「気」を送ることによって、この世を支えています。この鏡の例は、悪魔が我々に「気」を送ることによって「情報」を伝えるケースです。)

メイクをしている女性の心理は「美しくなりたい」という「欲望」であったり、「自分の顔のこの部分は好きではない」という「嫌悪」や「劣等感」であったり、「こうやったらもっと美しい」「こうやったらもっとかっこいい」といった「ナルシズム」「優越感」などです。つまり、基本的に「闇の感情」でメイクを行ないます。だからこそ、悪魔が送ってくる「闇の気」にとても同調しやすい状態であり、だからこそ、悪魔からメイクの方法を教えてもらいやすい状態になります。(「闇の気」を受け取るためには、その人間が「闇の感情」である必要があります。)

悪魔から何か方法を教えてもらうと、それは「呪い」となっていきます。特に、メイクとは魂を操作する1つの「術」です。強いメイクをすれば、その人の魂はより強く振る舞い、かわいらしいメイクをすれば、その人の魂はよりかわいらしく振る舞います。どうしてかというと、メイクは自分が自分に対して抱くイメージを変更させるからです。自分が自分のことを「強い」と思えば、人は強くなれるものです。自分が自分のことを「かわいらしい子」と思えば、人はかわいらしくなれるものです。そういった自分自身に対するイメージを変更することによって、自分の振る舞いを変えるという「術」がメイクです。メイクについてはこちらに詳しく書いています。

・メイクについて
(リンクは後日書きます。)

また、その鏡に悪魔が宿っていなくても、「闇の気」を多く抱えている人は、鏡を見ている時に悪魔から関与されます。何故ならば、どんなに離れたところにその「闇の気」の主である悪魔がいたとしても、その「闇の気」とはその悪魔のものであって、いつでも関与ができるからです。その「闇の気」を通して、様々な「情報」を我々に伝えることができます。悪魔と「縁」がある人はなおさら様々なことを悪魔から教えられます。

 

[「表情」を教える]

メイクだけではなく、悪魔が我々に教えるものの1つに「表情」があります。特にどういった表情がかわいいかなどを研究しながら鏡を見る場合などは悪魔に関与されがちです。何故ならば、「欲望」の気持ちで鏡を見ているからです。

そして、そういった表情を悪魔によって「いいな」と思わせられます。何かを「いいな」と思わせることは神々であっても悪魔であってもできます。もちろん、それに「同調」するかどうかを選ぶのは自分ですが、鏡で自分の顔を見ている時は「同調」を起こしやすいものです。なぜならば、映っているのが自分であって、魂は自分に対しては「肯定」の感情を抱きやすいからです。

どうして、悪魔は我々の「表情」に関与するかというと、「表情」とはメイクと同様に我々の魂にとても影響力があるものだからです。我々は、笑っていると自然と気分は楽しくなり、涙が出始めると悲しくなるものです。つまり、「表情」とは我々の「感情」に影響力を持っています。そして、使う「感情」は我々の魂に深く刻まれていくので、性格を変えていきます。だからこそ、我々がどのような「表情」を日常的に多く使うかということが、我々の性格を変えていきます。つまり、魂を変更していきます。

例えば、よく悪魔は「上から見下ろすような表情」を「かっこいい」と思わせます。この「上から見下ろすような表情」とは「負けず嫌いの表情」です。これは最近流行っている「闇の表情」でもあります。「負けず嫌い」とは「闇の感情」の1つです。「負けず嫌い」と言うとあまり悪く思わない人であっても、「傲慢」と言えば、それが悪い感情であることは理解して頂けると思います。「傲慢」とは「相手に勝ちたい」という気持ちから起こる「感情」です。つまり、「負けず嫌い」から起こる感情です。ですから、「負けず嫌い」と「傲慢」とは同じ感情です。

そして、その「負けず嫌いの表情」のことを「かっこいい」と思った人間は、その「表情」をし始めます。何故ならば、「かっこいい」と思うと、魂はそれをしたくなるからです。そうすると、「負けず嫌い(傲慢)」の感情を魂が抱く癖ができ、魂がどんどん「負けず嫌い(傲慢)」になっていきます。他にも例を挙げると、「ぶりっ子の表情」は、他人からかわいく見られたいという「欲望」の表情であって、そういった「表情」をする癖が付くと、魂に深く「欲望」が刻まれていきます。

また、非常に嫌な例なのですが、写真を撮る度に顔を決める女性がいたとして、全然その作る顔がかわいくなく、普通にしている方がかわいい人とはいます。それはどういう人かというと、悪魔によってあまりかわいくない顔を「かわいい」と思い込まされている人です。悪魔は人間にそういったことをさせて、それを後ろから見ながら面白がっていたりします。

このようにして、悪魔は我々に「表情」を教え、その「表情」を「かっこいい」「かわいい」「美しい」と思わせてきます。そのことによって、我々の魂を「闇」に落としてきます。何故悪魔達は我々を「闇」に落とそうとしてくるかというと、我々の魂が「闇」に堕ちると我々を簡単に「コントロール」「支配」しやすくなるからです。我々が「闇の感情」をよく抱く魂になると、悪魔としてはいつでも我々に「闇の気」を入れることができ、我々を簡単に「コントロール」「支配」できるようになります。
 

[鏡によって「闇」を強める]

悪魔がメイクや表情などを教えると、その魂にかなり闇の影響を与えることができます。何故ならば、鏡を見ている時間以外にも「闇の感情」を抱かせることができるからです。それに加えて、当然悪魔は我々が鏡を見ている時間に我々に「闇の感情」を持たせようとしてきます。

鏡で自分の顔を見て「ああ、なんて私は美しいんだろう」と思うだけで、これは「ナルシズム」であって、「優越感」とも言い換えられます。そして、鏡で自分の顔を見て「ああ、なんて私は醜いんだろう」と思うだけで「嫌悪」や「劣等感」を感じさせることができます。自分を美しいと思うにしろ、醜いと思うにしろ、「闇の感情」を持たせることができるので、悪魔は我々に簡単に「闇の気」を入れることができます。鏡は自分が映るので、簡単にその人間の心を動かすことができます。

光の立場の人間であっても、鏡を見ると自分のことを「きれい」と思ったり「醜い」と思ったりしてしまいやすいものです。つまり、鏡はその物の性質上、「闇の感情」を抱きやすい道具です。だから、光の立場の人間はあまり鏡を見ないようにします。

「闇の気」に満ちている人が悪魔に「支配」されるのと同様に、「光の気」に満ちている人は神々から「導き」を得やすくなります。ですから、本人が意識するにしてもしないにしても、「光の気」に満ちた人は神々の「導き」によってあまり鏡を見ないようにさせられます。それに対して、悪魔に「支配」「コントロール」されがちな人間はよく鏡を見るように悪魔に仕向けられます。

これを一般論で言うと、「性格のいい人はあまり鏡を見ず、性格が悪い人程よく鏡を見る」というような言い方になります。これは納得しやすい話だと思います。もっと具体的に説明すると、電車やバスなどでずっと鏡を見ている女性とはいると思います。そういう人とは基本的に、自分のことがかわいくてしょうがない人のことです。

「自分が大事」という発想は「闇」の発想です。それに対して、「他人が大事」という発想が「光」の発想です。何故ならば、「闇」は「自分のため(欲望)」に動き、「光」は「他人のため(愛)」に動くものであるからです。そして、「光」の立場の魂は自分がかわいくてしょうがないという心の状態にはなりません。何故ならば、自分よりも他人が大事で、他人のために生きているからです。それに対して、「闇」の立場の魂は自分がかわいくてしょうがないです。何故ならば、他人よりも自分が大事で、自分のために生きているからです。

このように説明すると、鏡をよく見る人間は「闇」の立場の魂であるということはよく分かると思います。そして、彼らは悪魔によって鏡をずっと見せられています。自分のことを醜いと思い、鏡を見る度に「劣等感」や「嫌悪」の気持ちを抱く人は、鏡を見続けたくはなりません。ですから、基本的に鏡を見続ける気持ちとは「私はかわいい」「私はかっこいい」という「優越感」です。

悪魔はその人間に鏡を見せ続け、「優越感」という「餌」を与えます。そして、それと引き換えにその人間に「闇の気」を与え、その人間を少しずつ「支配」していきます。我々はいつも悪魔とこのような「ギブ&テイク」を行なっています。「欲望」「優越感」といった「闇の感情」から得られる「快楽」を悪魔から「餌」として渡される代わりに、我々は悪魔から少しずつ「支配」されることにより、自分の魂を悪魔に差し出しています。


[姿見について]

鏡を見る場合に、顔だけを見るとも限りません。姿見で全身を見る人もいると思います。特に、モデルやファッション関係の方などはかなり姿見を日常的に使います。そういった方は、「表情」と同様、「ポーズ」を悪魔から教えてもらうことになります。「ポーズ」は「表情」と同様に、様々な意味を持っています。例えば、腰に手を当てる仕草とは「負けず嫌い(傲慢)」の感情に繋がりやすい「ポーズ」です。これは腰に手を当てて「ポーズ」を決めている時と、直立している時の自分の心の状態の違いを見つめれば分かります。

そういった腰に手を当てるポーズを「かっこいい」と思うと、日常的にそのポーズをするようになります。そうすると、「負けず嫌い(傲慢)」の感情を抱きやすくなりますから、魂がどんどん「負けず嫌い(傲慢)」になっていきます。「表情」と同様、このような方法で悪魔は我々を「闇」に落としてきます。

そして、そもそも「ポーズ」を決めるということ自体が「ナルシズム」という感情や「美しく見せたい」という「欲望」による行為です。ですから、鏡の前でポーズを決める度に、そしてその時間が長ければ長い程、「闇の感情」を抱く時間が長くなるので、魂が「闇」に堕ちてしまいます。違う服などに着替えながらそういったことを繰り返すのであれば、その時間は余計に長くなりますから、魂にどんどん「闇」が刻まれていくことになります。

そういう意味で、モデルの方というのは、「ナルシズム」「優越感」に陥りやすい職業です。彼らは職業柄、かっこつけないといけないからです。モデルの方はそういった「闇の感情」に堕ちることないように、努力する必要があります。そうでなければ、魂自体が「闇」に堕ちてしまいます。実際、モデルの方はそういった流れによって魂が「闇」に堕ち、悪魔に「支配」されてしまっている人が多いです。
 

 

[まとめ]

『白雪姫』の話から書きましたが、ここまでのことがよく分かると鏡は所謂「魔法」を可能にするものであることは分かって頂けると思います。鏡によって起こる「魔法」とは悪魔からの「呪い」のことです。「鏡よ、鏡、世界で最も美しいのは誰?」と尋ねた王妃は悪魔に「支配」された人間の姿であって、悪魔に「支配」されているからこそ、「欲望」や「狂気」に満ちたことを行なっていきます。そして、『白雪姫』においてきっかけとなっているのは、「最も美しいのは白雪姫」という悪魔の囁きです。この1つの「情報」がこの王妃に残虐なことを行なわせていきます。

悪魔は鏡を使って我々に少しずつ「呪い」をかけ、我々を「支配」し、我々は道を誤っていきます。鏡はそのような悪魔の「呪い」を可能にする1つの道具です。悪魔から「メイク」を教えてもらうことにより、自分の魂に「闇の術」をかけるようになること。悪魔から「表情」や「ポーズ」を教えてもらうことにより、「闇の感情」を抱きやすい魂に変更させられること。悪魔に鏡を見せられ、「闇の感情」を抱かされ、そのことによって魂の闇が強くなること。このように具体的な説明が理解できると、決して『白雪姫』の王妃が我々とは遠い存在なのではなく、鏡に取り憑かれると王妃のように狂っていくことは分かって頂けると思います。

1つの「情報」が王妃に狂気の沙汰を行なわせたのと同様に、1つの「メイク」、1つの「表情」、1つの「ポーズ」を悪魔から与えられる度に、我々は少しずつ悪魔から闇に落とされていきます。その悪魔のもたらす「餌」には「快楽」が伴います。かっこよくなったり、美しくもなることは気分がいいことだからです。しかし、その「餌」を食べ続けると、気が付くと悪魔に「支配」されてしまいます。そして、「支配」されればされる程、自分が「支配」されていることを認められなくなっていきます。

悪魔の「支配」とはこのような恐ろしい力を持っています。悪魔の「餌」によって我々が得ているものと引き換えに、我々は自分の魂という、自分にとって最も貴重なものを悪魔に奪われていきます。そして、一度「支配」されてしまうとそう簡単には、その「支配」から逃れることはできません。そういった悪魔の「支配」から抜け出す方法が「愛」です。「愛」は魂の「光」を強め、悪魔のもたらす「闇の気」を突破できる程の力のあるものだからです。

『白雪姫』にしても、『白鳥の湖』にしても、「愛が闇の呪いを解く」といった話とは昔の物語にはよく出てくる話です。それは真実であって、とても大事なことであるからこそ、神々がこういった物語を創り、それを残しています。しかし、現代人にとってはそれらの物語は「おとぎ話」として、現実の世界とかけ離れたもののように思われてしまっています。しかし、実際は、我々の日常とほとんど変わりがないものです。

我々は重要なことを全然知りません。しかし、我々の日常で起こる1つ1つのことについて、心がどのように動くのかを分析すると、神々が我々に何を与え、悪魔が我々から何を奪っているのかが理解できます。それが理解できると、「闇」を選ぼうとは思いません。何故ならば、「闇」を選べば、我々は自分を見失い、悪魔に「支配」されてしまうからです。そして、一度「支配」されてしまうと、「支配」されていることにさえ気付けなくなってしまいます。何故ならば、そのことを認められなくなるからです。

我々は「光」を選ぶために、「光」を強くしていくために生きています。それはこの世界の構造が説明しています。しかし、「光」は理解できれば実践できるようなものではありません。誰かを愛そうと思って愛せるものではないからです。だから、「他人のため」に生きることは簡単ではありません。しかし、そういったことをできるようにするために我々は生きています。

真に「光」を実践していくためには、「闇」の「呪い」を解く必要があります。ここでは鏡のもたらす「呪い」を取り上げましたが、我々の日常には様々な「呪い」があります。そういった「呪い」を解くために必要なことは、まずはその「呪い」を知ることです。だからこそ、このホームページでは様々な「闇」の「呪い」のことを説明しています。そして、それは根拠の無い話をしているのではなくて、心を見つめることによって、御自身の力で確かめることができるものです。

悪魔の「餌」を食べてきた人間が、「自分は悪魔の『餌』を食べていた」と認めるためには「強さ」が必要です。過去の過ちを認めることは苦しいことだからです。だから、このホームページを本当に自分の問題と考えながら読むことは大きな1つの闘いです。これらの文章をただ「理解」するだけでは何の意味もありません。面白がりながら読んでいるだけでは何の意味もありません。過去の自分のことを考えながら、自分を「反省」しながら、読んでいくことによって初めて魂の「気付き」にすることができます。そこで本当に自分の過ちを認められたのであれば、それだけで人は変わっていけます。そうすると、人生はいい方向へ向かっていけます。この文章だと、あまり鏡を見なくなることや、鏡を見ている時に「闇の感情」に堕ちないように注意し始める、といったことです。

そういった「強さ」を持って、このホームページの文章を読んでいって頂けると幸いです。そうしていくことによって、御自身の魂の「光」が強くなっていきます。