このページでは、松本人志の持つ心理学的意味・神学的意味について解説していきます。
 

【心理学的分析】

松本人志は日本という国に多大なる貢献を果たしてきた芸人です。何故ならば、彼は日本人の「笑い」のツボを広げるということを長年に渡って実現してきたからです。
 


例えば、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』という番組は30年続いている番組ですが、今でも新しい企画を次々と行なっている、非常に攻めの「笑い」を実践し続けている番組です。また、近年では地上波では放送できないような「笑い」を『ドキュメンタル』といったネット上の番組で作っています。こういった番組を通して、松本人志は様々な「笑い」を日本人に教え続けています。

「笑う」という行為は「幸せ」と繋がっています。だからこそ、彼が「笑い」のツボを広げてきたということは、日本人の「幸せ」の実現に多大なる影響を与えてきたことを意味します。

芸人という人間は何が面白いのかを他者に教える意味を持っていますが、松本人志は元々何が面白いのかを極めてよく知っている人間だからこそ、様々な新しい「笑い」を生み出すことができますし、また、彼の笑い声を聞くことで、何がどのように面白いのかを我々は無意識に学んでいます。

「笑い」にも種類がありますが、松本人志は「光の笑い」も「闇の笑い」も使います。逆に言うと、例えば、笑福亭鶴瓶の「笑い」はほとんどが「光の笑い」であるのに対して、松本人志は笑福亭鶴瓶よりも「笑い」の守備範囲が広いとも言えます。

「光の笑い」の例:元気
「闇の笑い」の例:見下し、狂気

ただ、「闇の笑い」は「不健全」なものも多く、だからこそ、例えば『ダウンタウンのごっつええ感じ』は「子供に見せたくない番組」の上位常連に選ばれたりもしてきたのですが、「笑い」のツボを広げてきたという意味では「正義」です。

「闇の笑い」のツボをどの程度広げるのかということは非常に難しい問題です。というのも、「闇の笑い」は「不幸」へも通じやすいものだからです。例えば、人を見下す「笑い」に取り憑かれると、人格も人を見下しやすくなり、そのことによって精神は「健全性」を失い、「幸せ」は遠ざかります。

しかし、松本人志の司どる「笑い」は「不健全」な領域に足は踏み入れても「邪悪」な領域まで踏み入れることは極めて少ないです。
 


例えば、この動画は月亭方正の髪の毛が薄いことをイジっていますが、本来他者の髪の毛が薄いことをイジることは「邪悪」であり、良くないことです。しかし、仲のいい男友達同士であれば許容することもできる範囲内と言えます。というのも、男友達というのはお互いをイジり合うことで心に「強さ」を養っていくからです。
 


また、松本人志は様々な「闇の笑い」を好む性質はあっても、心の中の「善意」を維持している部分もあります。例えば、小籔千豊はよく「邪悪」な「笑い」も使う芸人なのですが、この動画の中で、そういった小藪の「邪悪」な「笑い」に対して松本人志は笑いつつも「小藪お前はおもろいけど、悪いわー!!」と言います。このエピソードは松本人志が保っている「善意」を物語っていると言えます。

このような意味で、松本人志は「不健全」な「闇の笑い」を使うことはあっても、「邪悪」な「闇の笑い」を好んで使うことは少なく、日本人に「邪悪」な心を教えることはあまりありません。

このようなことを理解すると、松本人志という芸人がどのような意味で日本に貢献してきたのかが分かります。彼は日本人の心に「邪悪」さを与えることはしない範囲で、「笑い」のツボを広げ、日本人の「幸せ」を支えてきた人物です。
 

【神学的分析】

その人間の持つ意味は名前に書かれているので、「松本人志」という名前にも、その意味は元々書かれています。

松ぼっくりが「火」の形と似た形状を持ち、松によっては山火事の際に繁殖する種がいることが象徴するように、「松」という植物は「火」の植物です。また、「ひとし」という名前と合わせて考えると、「松本人志」という名前は「松の本と等し」という意味を持ち、これは松本人志が太陽神様の使いであることを示しています。というのも、地球における「火(松)」の「根源(本)」とは太陽だからです。

また、「人志」という名前は文字通り松本人志が「人」の「志」を持つことを示します。これはどういうことかというと、「人」という存在は「光」と「闇」の両方を持つ存在であり、このような意味で、松本人志が「光の笑い」と「闇の笑い」の両方を司ることを意味しています。

「人志」という名は「笑い」に限定した話でもなく、彼の「価値観」が極めて「人」的であることも示しています。だからこそ、多くの人が松本人志の「笑い」や「価値観」に共感しやすく、人気も出やすい構造があります。

「ダウンタウン」というコンビ名にも「人志」の意味合いは良く表れています。というのも、日本語において「下町(ダウンタウン)」は庶民の居住地のイメージが強いですが、こういった「庶民」の意味で「人」的なイメージを持つ言葉だからです。

また、神懸かったアーティストが何かを作る時、その内容に神々はかなりメッセージを込めるものですが、松本人志の初映画監督作品は『大日本人』で、この映画の中で松本人志が大日本人を演じたことにも意味があります。
 


というのも、日本人という言葉はそもそも「日の本の人」=「太陽を根源に持つ人」という意味を持つ言葉であり、そのような意味で「大日本人」とは「大きく太陽を根源に持つ人」という意味を持つことができる言葉だからです。これは「松本人志」=「松の本と等し」という意味とほぼ同じ意味でもあります。

この映画は攻めの「笑い」に満ちた作品だったからこそ、多くの人にとって難解な作品でしたが、松本人志が太陽神様の使いとして攻めの「笑い」を実践するために生まれてきたことを伝える意味合いで見事な作品でした。

こういった形で、名前や作品や様々な松本人志に関する物事に、神々は松本人志が太陽神様の使いであることをメッセージとして込めてきました。例えば、米は太陽の恵みをとりわけ強く受け取って育つ植物ですが、松本人志のTwitterは米に囲まれています。


 

【最後に】

今でも松本人志が活躍していることは良いことです。日本の精神性は年々低下していますが、精神性の低下が進めば進む程、「邪悪」な「笑い」が流行りやすくなりますが、松本人志はギリギリのラインを攻めつつも、多くの人々を笑わせ、日本人の「笑い」のツボを増やすことを促しているからです。

タモリや明石家さんまや笑福亭鶴瓶のような芸人は極めて「健全」な「光の笑い」を使う芸人であり、そういった方々が活躍することは日本の「健全性」を保つ上で非常に大事です。それと並行して、松本人志のような「笑い」のツボを広げる担当の芸人が活躍することで、日本の「笑い」は良い形で豊かになっていきます。