『マイアミ・バイス』は「男性性」に関する非常に重要な真実を伝える傑作映画です。

しかし、この映画が我々に教えてくれる重要なメッセージは全然我々に届いておらず、そういう状況を少しでも変えるために、この解説を書きます。
 


【「男」とはどうあるべきか?】

この映画の主人公の二人は非常に理想的な「男」として描かれています。この映画が大きな価値を持つ最大の理由は、一つの理想の「男性性」を、様々な観点から伝えている点にあります。
 

・「闘いの心」

「愛」を動機に「敵」と「闘う」ことを目指す精神性は「闘いの心(火の気持ち)」ですが、この主人公2人はその「闘いの心」の理想形を我々に教えてくれます。

「愛」には複数の方向性があり、「闘いの心」は最も「男性的」な「愛」です。何故ならば、「闘い」へ向かう心とは大きな「勇ましさ」を持つ物ですし、「勇」という漢字が「男」という字を含むことが伝えるように、「勇ましさ」は「男性的」な精神性だからです。

特に、映画の終盤、二人とも「愛」する女性を人質に捕らえられ、彼女達を「守る」ことに全力を尽くしますが、その様子の切実さは優れた「闘いの心」の本質を我々に教えます。
 


大きな「愛」が故に2人の動機は極限まで高まりますし、2人とも「強さ」と「賢さ」を最大限に使うことによって、彼女達を「守る」ことを実現します。

彼らの「敵」は非常にレベルの高い「悪」であり、そういった「敵」と「闘う」ためには、相当なレベルの高さが必要です。

そういった意味で、大きな「正義」を実践するために必要な精神的なレベルの高さをこの映画は非常に素晴らしい形で描いており、これは大変大事な真実です。

というのも、「闘いの心」と共に生きていく人間にとって、一つの「目標」と設定すべき精神性が何なのかをこの映画は確かに教えてくれるからです。

この作品を監督したマイケル・マンが監督した映画『コラテラル』においても、ジェイミー・フォックスが主人公として描かれますが、『コラテラル』の中で主人公は自身の「未熟」を乗り越え、「闘いの心」に辿り着くところで映画が終わります。それに対して、この映画のジェイミー・フォックスは理想的な「闘いの心」を表現しています。

ですので、『マイアミ・バイス』は『コラテラル』と合わせて鑑賞し、その意味を理解することを通して、より深い意味が見えるようになってきます。『コラテラル』の解説はこちらに書いています。

http://junashikari.com/cinema/collateral/


・「愛」と「正義」

ソニーは「愛」と「正義」の間で揺らぎます。敵の組織に属するイザベラに対する「愛」を優先するのか、敵の組織に勝つという「正義」を優先するのか、という葛藤を抱えているからです。

敵の組織に勝つということは、自分が警察であることをイザベラに明かすということであって、それはイザベラを騙し続けてきたことを明かすことでもあり、イザベラへの裏切りを意味します。また、イザベラと共に過ごす「愛」の時間の終わりでもあります。

それに対して、敵の組織に勝つということは、麻薬という毒が社会に蔓延する諸悪の根源となっている力のある悪党の活動を止めるということであり、大きな「正義」を意味します。

「闘いの心」は「愛」する者を「守ろう」とする精神性であると共に、「悪」を「許さない」精神性でもあります。そういった「闘いの心」の中で、ソニーが葛藤を抱えていることはこの映画の中の大事な点です。

つまり、ソニーは異なる二つの「光」の葛藤を抱えています。優れた人物というのは、「闇」を選ばず「光」を貫くものですが、そういう人物であっても、異なる「光」の葛藤を抱えることはあります。

そういった葛藤を非常に分かりやすく我々に教えてくれる点に、この映画のもう一つの価値はあります。

こういった意味のある描写の中で最重要な点は、ソニーは最終的にイザベラと共に生きる道ではなく、警察として生きる道を選ぶ点です。

つまり、彼女と共に生きていくという「愛」よりも、これからも犯罪と闘っていくという「正義」を彼は選びます。

これは一種の「自己犠牲」でもあります。というのも、自分自身の「幸せ」よりも、自分の命を危険に晒してでも「悪」を倒す道を選ぶということを意味するからです。

「世のため」を重要視するなら、彼のこの選択は正しいです。というのも、彼程の能力を持つ人間が、彼自身の「幸せ」のために警察としての道を断つことは世の中にとって大きなマイナスだからです。
 

・「怖気」付かない

「恐怖」は我々の道を誤らせる力があり、恐ろしい相手を相手にすればする程、「恐怖」に堕ちる可能性は増えるわけですが、この二人は決して「怖気」付きません。
 


例えば、イエロとの交渉の場面では、背後から銃を構えた男達が近づいてきているにも関わらず「恐怖」に堕ちず、「闘いの心」を維持しているからこそ、交渉を前に進めることができます。

本当は警官であることを隠し続けながら、撃たれずに交渉を続けるということは簡単ではないことであって、「正気」でいなければ実現できないことです。

逆に、「恐怖」に堕ちてしまうことは「正気」を保たないことなので、警官であることがバレてしまうようなミスを生みやすくなります。

そういった難しい状況にありながら、彼らが「闘いの心」を貫くことで敵に正体がバレないようにしているという点は大事な点です。

余談ですが、このシーンの描写は『コラテラル』でもほとんど似た形で描かれていますが、『コラテラル』の主人公の交渉は非常に危うい部分があるのに対して、『マイアミ・バイス』の交渉はほぼ完璧です。
 

 

・絆

この二人の「絆」の形も、理想的な「男性性」の一つの形を我々に教えてくれます。多くの映画の中で、仲間同士の「絆」は描かれていますが、この映画程に、その「絆」にリアリティがある作品は多くはないからこそ、この点は非常に重要です。

彼らの「絆」の背景には、互いに対する「信頼」があります。そして、その「信頼」の背景には、二人が持つ「実力」があります。

二人とも非常に「実力」があるからこそ、互いに「信頼」を置くことができ、それが「絆」を形成しています。そして、確かな「絆」のある「仲間」だからこそ、二人は一人では成し遂げられない「善」を素晴らしい形で実践しています。例えば、イエロとの交渉の場面で、二人はとても息の合った交渉を展開します。
 

・「水」と「火」

「闘いの心」は「火の気持ち」ですが、主人公達のボスであるマーティンは非常に「冷静」な「水の気持ち(問題解決の心)」を貫く人物として描かれます。

「闘いの心」は非常に「熱い」精神性だからこそ、非常に感情的な精神性で、「冷静」な判断が得意な精神性ではありません。

それとは対照的に、「問題解決の心」は非常に「冷静」な精神性だからこそ、感情に流されずに、「冷静」な判断が得意な精神性です。

最終的な闘いの場面において、マーティンは優れた「問題解決」を行なうと共に、ソニーやリコはマーティンの指示をちゃんと待ちます。

こういった「水」と「火」の意味で、彼らのチームが非常に良い構造を持っていることは大変重要な点です。
 


『踊る大捜査線』では、青島が「火」であり、室井が「水」なわけですが、青島が室井の判断を待たずに感情的に行動を起こしてしまうような描写があったりします。ですので、『踊る大捜査線』と『マイアミ・バイス』をこのような観点で比較すると、様々な重要な点が見えてきます。

「悪」と対峙する上で非常に有効な「善」の精神性は「闘いの心」と「問題解決の心」です。青島が言うように、「闘いの心」は「現場」で動く人間にとって非常に有効な精神性であり、「問題解決の心」は「上」で指示を出す人間にとって非常に有効な精神性です。

ですから、「善」を実践しようとする人間が、「闘いの心」と「問題解決の心」の性質を事前によく分かることはとても大事なことです。

というのも、双方の「長所」と「短所」を分かることで、より良い形で「闘いの心」と「問題解決の心」を使い分けられるようになりますし、良いチームを形成しやすくなるからです。
 

・「愛」の描写

この映画では、ソニーとリコが「愛」する女性とどのように「愛し合う」のかも描かれています。その描写も「男性的」な「愛」の真実を伝えます。

自分の「愛」する女性に対して、男性が良い形で向き合うことは大事なことです。というのも、そういうことを通して、女性は男性に対する「愛」をより大きくするからです。

例えば、普段は全く笑わないイザベラはソニーと「愛し合う」ことで、笑い始めます。つまり、イザベラは心を許し始めます。

「闘いの心」による「愛」は「燃え上がる」方向性の「愛し合い」方へ繋がります。そういった方向性の「愛し合い」の真実をこの映画は我々に教えてくれます。
 

【最後に】

このような解説の意味が分かってくると、この映画が如何に無駄のない、意味のあるシーンによって構成されている優れた映画なのかが見えてきます。

しかし、このような意味が見えなければ、この映画はただの娯楽映画として消費されかねず、現状ではそうなってしまっていると思います。というか、消費されたのももう昔のことで、もはや人々から忘れ去られてしまった映画かもしれません。

『タイタニック』を監督したジェームズ・キャメロンを知っている日本人は多いと思いますが、この映画を監督したマイケル・マンのことを知っている日本人はさほど多くないかもしれません。

しかし、マイケル・マンもまたジェームズ・キャメロンのように大変素晴らしい映画を残してきた大巨匠であって、彼の映画の持つ深い意味を我々が受け取っていくことは大変大事です。

近年、マイケル・マンは『トーキョー・バイス』というドラマを渡辺謙などと共に東京で制作し、WOWOWで放送されています。
 


残念ながら、マイケル・マンが監督したのは第一話目のみですが、それでもマイケル・マンの東京の描き方から様々な映画人が学ぶことができる要素は色々とあると思います。

『トーキョー・バイス』をきっかけにマイケル・マンのことを知った方が、一人でも多く『マイアミ・バイス』を観ることを願います。

そして、この解説と共に映画を理解することで、この映画から多くの重要な真実を感じて頂けると幸いです。