今年から「シャーマン」という肩書きをやめようと思います。そのことについて、以下説明していきます。
 

【「霊能力者」ではなく「学者」として】

「シャーマン」を辞めるわけではありませんが、「心理学者・哲学者・気学者・芸術学者・宗教学者・神学者」といった肩書きに変更する形です。というのも、「シャーマン」という言葉は「霊能力者」といったニュアンスが強く含まれる言葉ですが、自分は「霊能力者」ではなく「学者」=「学ぶ者」でありたいからです。

まるで「数学」のように、全ての物事の背景にある因果関係を明らかにしたいと思い、いつも様々な物事を分析・研究していますが、これは「霊能力者」というよりも「学者」のスタンスです。ですので、「霊能力者」というニュアンスがある「シャーマン」という言葉よりも「学者」という言葉にした方がいいと思っています。
 

【「アーティスト」や「旅人」として】

また、もちろん、生涯を通して「アーティスト」でもあり続けようと思っています。ですので、「アーティスト」という肩書きを変えることはありません。また、今後も長い間旅をし続けると思うので、「旅人」という肩書きも変えることはないと思います。
 

【「シャーマン」「学者」「アーティスト」の関係性】

「シャーマン」とは、大雑把に説明すると、目に見えない存在と意識的に強く働いている人間のことです。そして、我々人間は、本人が意識していても意識していなくても、目に見えない存在と働きながら生きています。ですので、「シャーマン」はそれ程特別なことをしているわけではありません。また、本人は意識していなくても、「シャーマン」程に強く目に見えない存在と働いている人間は、少なくありません。「学者」であろうと、「アーティスト」であろうと、そういう人間は多々います。

自分は「シャーマン」なので、「学者」=「学ぶ者」として様々な物事を分析・研究している時も、「アーティスト」として何らかの表現活動をしている時であろうと、どういう形で目に見えない存在と共に働いているのかが分かります。どういう風に共に働いているのかが分かるからこそ、研究をする時でも表現をする時でも、目に見えない存在といい形で働くことをしやすいです。

つまり、自分の立場は「学者」として物事を研究することについても、「アーティスト」として表現活動をすることについても、「シャーマニズム」を使っている立場です。そのことについて、今までは「シャーマニズム」の方を強調し、「シャーマン」という肩書きを使ってきましたが、これからは「学者」や「アーティスト」の側面を肩書きとして表に出していこうと思っています。ですので、「シャーマン」でなくなるわけでもなければ、やっていることが変わるわけではありません。
 

【「心理学者・哲学者・気学者・宗教学者・神学者・芸術学者」の意味】

・「心理学」

新しく書き直したトップページでも書いていますが、私が最も伝えたいことは、人間の「心」の成り立ちです。そして、「心理学」とは「心の理を学ぶこと」と書きますが、この言葉は我々の「心」には「理(規則=ルール)」があるということを前提としています。私が伝えたい「心」の成り立ちとは、この「心の理」のことです。

我々の「心」には「法則」で成り立っている側面と「意志」で成り立っている側面の両方があります。例えば、誰かを「愛」している場合、その相手を大事にしたいと思う「心」に繋がるのは、とても自然な「心の流れ」ですが、こういった意味での「心の流れ」が「心の法則」の一例です。しかし、そこでどれだけ「相手を大事にしたい」という「気持ち」に共感するかどうかは我々の「意志」によって決まってきます。

こういった意味で、我々の「心」がどういった「法則」と「意志」によって成り立っているのかということを理解することが、「心の理(ルール)」を理解することに繋がっていきます。我々は常に「心」を使っています。だからこそ、「心」がどのように成り立っているのかを知ることはとても大事なことです。何故ならば、「心の理(ルール)」を知っていた方が、「心」を正しい形で使いやすくなるからです。
 

・「気学」

そして、我々の「心」に「気」はかなり関与しているので、「心」の成り立ちを説明しようとすると、「気」のことを説明することも必要になってきます。このような意味で、「心理学」と「気学」は繋がっています。
 

・「神学」「宗教学」

そして、「気」のことを学ぼうとすると、自ずと「気」を司る目に見えない存在について学ぶ必要が出てきます。「気」を司る目に見えない存在の代表格が神々なので、「気学」は「神学」へと繋がっていきます。また、様々な宗教は目に見えない存在を信仰するもので、それぞれの目に見えない存在は人間に「気」で関与しています。そういったことを研究していくと、自ずと「宗教学」となっていきます。
 

・「芸術学」

目に見えない存在は人間が何かを作ることを「気」で関与しています。例えば、我々が何かを作る時に最初に必要なものは「アイデア」ですが、目に見えない存在は人間に「気」を「付ける」ことで、「気付き・思い付き」を起こしていますし、「これを作りたい」といった「気持ち」さえも、人間に「気」を「持たせる」ことを通して促しているからです。

神々は人間に大事なことを伝えるために、様々な芸術作品制作にかなり関与してきました。例えば、宮崎駿のアニメーションであってもそうですし、桑田佳祐の歌であってもそうです。優れた表現者達は神々と共に働くことを非常にいい形で行なうことができる人間であって、彼らの作品に神々は「メッセージ」を込めています。だからこそ、そういった「メッセージ」を受け取ろうとすることは大事で、そのために必要なことは作品分析です。こういった作品分析の姿勢が「芸術学」へと繋がっていきます。
 

・「哲学」

「哲学」は物事の「真実」を探究する学問のことですが、正しい「哲学」もあれば、間違った「哲学」もあります。そして、正しい「哲学」は我々の人生を正しい方向へ導くものですが、間違った「哲学」は我々の人生を破滅させる力さえも持っています。だからこそ、どういう「哲学」が正しく、どういう「哲学」が間違っているのかは、生涯を通して、体系的に整理しようとしています。

また、正しい「哲学」は必ずしも1つとは限りません。例えば、「我々は何故生きているのか?」という大きな「問い」に対して、「答え」は必ずしも1つではなく、複数通りの「答え」があります。ある人は「愛の価値を知るため」と言うかもしれませんし、ある人は「心を強くするため」と言うかもしれませんが、両者共に正しいです。

両者共に正しいとは言っても、この両者が第一に大事にしているものは異なります。「愛の価値を知るため」と言う人の多くは、「愛」を最も重要視しているのに対して、「心を強くするため」と言う人の多くは「強さ」を最も重要視していることが多いからです。

こういった意味で、どういったものを重要視するのかということと、どういった「哲学」を信じるのか、ということは密接な関係にあります。そして、このことは「心の理」と非常に密接な関係にあるものです。何故ならば、何を最も重要視するのかということの最も大きな原因は、どういった「気持ち」と共に生きているのか、ということだからです。

例えば、オードリー・ヘップバーンのような「気持ち」と共に生きる人間は「愛の価値を知るため」と言いやすいのに対して、格闘家のような「気持ち」と共に生きる人間は「心を強くするため」と言いやすいことは想像できると思います。

このような意味で、「心理学」と「哲学」は非常に密接な関係にあるものです。言い換えると、どういう「心理」を持つのかということが、どういう「哲学」を持つのか、ということに繋がっていくものです。

そして、「哲学」は我々を正しい「道」へ導くことも、破滅への「道」へ導くこともあるものなので、「心の理」を説明することを通して、人を正しい「道」へ導こうとしている自分としては、「哲学」の解説も自ずとする必要が出てきます。

この点については、私は私自身の「哲学」を伝えたいわけではなく、様々な立場の「哲学」を解説している者に過ぎないと理解して頂けると幸いです。このような意味で、自分は「哲学者」です。

自分はいつも複数の正しい「哲学」と向き合いながら生きています。例えば、上に例として挙げた「愛の価値を知るため」「心を強くするため」という2つの「答え」といつも向き合いながら生きています。そういうことをする中で、こういった「答え」の重みや深みを理解できますし、こういったことを理解することが、本当の「哲学」なのだと感じています。
 

・それぞれの「学問」の繋がり

「心理学・気学・哲学・宗教学・神学・芸術学」は本質的に繋がっています。逆に言うと、こういう「学問」が繋がって見えなくなってしまったことで、我々は「真実」が見えなくなっています。

例えば、「心理学」を本当の意味で理解するためには「気学」を学ぶ必要があるということは、「気学」を学ばずには「心理学」は学ぶことができないということです。だからこそ、「心理学」だけを学んでいても、「心の理」の「真実」は見えてきません。

こういったことが、「心理学・気学・哲学・宗教学・神学・芸術学」全てにおいて同様に言えます。私は「科学者」ではありませんが、「科学」でさえも、これらの「学問」と繋がっています。例えば、「何故引力は存在するのか?」という「問い」は、「何故神々は引力というものを必要だと考えたのか?」という「問い」と同じです。こうなると、「科学」は「神学」の領域に踏み込んでいくことになります。

物事は「分ける」ことによって「分かる」ことができるものですが、「分ける」ことを行なったものを俯瞰して見なければ、「分ける」ことを行なったものの「本質」は見えてきません。言い換えると、「分ける」ことを行なった後の一方だけを見ていても、「本質」は見えてきません。

例えば、動物研究を行なう際に、犬と猫を「分ける」ことを最初に行なって犬だけを研究しても、動物というものの「本質」は見えてきません。逆に、犬と猫の両方を「分ける」ことをした上で研究することを通して、犬と猫の違いが「分かる」ことができ、そのことを通して、動物の「本質」が見えやすくなります。

それと同様に、人間の「心」について理解するためには、人間の「心」を構成している様々な要素を「分ける」ことを行なった上で研究し、そこで分けて明らかにしたことを俯瞰することにより、「本質」を見定めることができます。

人間は様々な「学問」を「分ける」ことを行ないましたが、それぞれの学問分野の「学者」は、自分の担当している「学問」を研究するばかりで、他の「学問」を学ぼうとすることは決して多くありません。しかし、様々な「学問」を研究しない限り、物事の「本質」は見えてきません。

例えば、古代ギリシャの偉大な哲学者アリストテレスは「哲学者」であり、「倫理学者・論理学者・天文学者・物理学者・気象学者・生物学者・演劇学者・政治学者」といった様々な側面を持った人間でした。それは、彼が物事の「本質」を探究していった結果として、自然と行き着いた立場です。このような意味で、物事の「本質」を理解するためには、様々な「学問」の「学者」でなければならないことを御理解頂けると幸いです。

今自分がテーマとしていることは、「心」に関することです。だからこそ、「心」に関連する様々な学問分野の「学者」のようになっていったことは、とても自然な流れです。
 

【最後に】

物事の「本質」を理解することは、我々に正しい「道」を教えてくれます。例えば、分かりやすい例だと、どの食べ物が身体に良く、どの食べ物が身体に悪いのか、ということを理解することは、我々が何を食べるべきなのかを教えてくれます。

それと同様に、どのような「気持ち」が我々を「幸せ」にし、どのような「気持ち」が我々を「不幸」にするのか、ということもありますし、どのような「哲学」が我々を正しく導き、どのような「哲学」が我々を破滅へ導くのか、ということもあります。

だからこそ、正しい「道」が何なのかを理解するために、そういった物事の「本質」を我々は理解する必要があります。そして、物事の「本質」を解説することを通して、人に正しい「道」を伝えようとしている自分は、誰よりも物事の「本質」を理解する必要があります。

そういう風に思っているからこそ、物事の「本質」を理解するために全力で生きていますし、とりわけ今は「心」について研究しています。何故「心」に関連することを優先的に研究しているかというと、人間は何よりもいつも「心」を使っているからです。