対立する二つの要素の観点を使った説明をたくさんしてきましたが、それは全てを「白」と「黒」で分けたいわけではなく、膨大な「グレー」の意味を見やすくするためです。

例えば、一人の人間の中には「善」と「悪」があり、完璧なる「善人」や「悪人」はほぼいません。そして、「善」と「悪」の観点を持つことは、我々の中にどれだけの「善」と「悪」があるのかを見やすくします。

対立する二つの要素の意味を「分ける」ことによって「分かる」ことは実現します。この点に、物事を「分ける」ことを可能にする言葉の価値はあります。そして、そういった「分ける」=「分かる」ための枝分かれは膨大です。

例えば、「善」と「悪」という枝分かれもあれば、「善」の中にも枝分かれがあります。「厳しさ」のある「善」もあれば、「優しさ」のある「善」もあるといった形です。しかし、大きな枝分かれから徐々に理解していけば、木の全体像は大体「分かる」ことができます。

「言葉」が「こと(事)」の「葉」と書くことには、このような背景があります。現代は「言葉」という言葉の意味さえも見失っている時代ですから、様々な物事の意味を見失って当然の時代です。

自分の無知を自覚することから、知ることは始まります。かつて自分は、浪人生になった時、最初の授業で先生にこういう質問をされ、こう答えました。

先生「お前は自分の顔を本当に見たことがあるか?」
自分「当然あります。」
先生「そうか、お前は自分の目玉を取り出したことがあるんだな。」

この瞬間に雷に打たれたような感覚を得ながら、自分は自分の無知を自覚しました。この時から知の旅が始まり、今に続いています。

自分は幸いにも、自分を知の道へ導いた師と出会うことができましたが、多くの人々はそういう師を持たぬまま、大人になっていくのだと思います。

物事の意味を知らない大人達が社会を作っていくからこそ、狂った社会が生まれやすくなります。また、そういう大人達は間違った子育てさえも実践しやすく、親から子へ負の連鎖が続きやすいです。

そんな時代だからこそ、人々を知の道へ導くことはとても大事なことに思っています。ただひたすらに、大事なことから「分ける」=「分かる」ことが、良く生きる上で最初に大事なことです。