顔や身体など、それぞれの人間の持つ「容姿」の意味について書きます。ここでは、自分の「容姿」から生まれる自分の感情について書いていきます。

「容姿」とは我々に課されている1つの試練です。例えば、顔やスタイルが美しい(かっこいい)人は「優越感」を感じやすく、顔やスタイルが醜い人は「劣等感」「嫌悪」「絶望」を抱きやすいものです。だからこそ、美しい(かっこいい)人は「優越感」を感じないように努力をする必要があり、醜い人は「劣等感」「嫌悪」「絶望」を感じないようにする必要があります。(以下、「美しい人」で統一します。)

また、美しい人は自分の顔に「執着」する可能性があります。しかし、どんなに美しくても、歳を取るごとにその顔は崩れていきます。美しい人は、その時に「絶望」「嫌悪」をしないようにする必要もあります。醜い人は、こういった「執着」を抱く可能性はありませんし、美しさが失われることによって生まれる「絶望」「嫌悪」も経験しません。

「優越感」「劣等感」「執着」「絶望」「嫌悪」、これらは全て「闇の感情」です。我々人間はこういった「闇の感情」を持たない努力をするために生きていますし、そういった試練のために我々は自分の「容姿」を持っています。逆に言うと、美しい人とは今世においては「優越感」「執着」「絶望」「嫌悪」と闘うべき魂と神々によって決められた魂であり、醜い人とは今世においては「劣等感」「絶望」「嫌悪」と闘うべき魂と神々によって決められた魂のことです。

また、美しい人にとっても、醜い人にとっても共通に闘うべき気持ちが、「美しくなりたい(かっこよくなりたい)」という「欲望」です。「美しくなりたい」という気持ちは、その持ち方によっては非常に危険なものになります。ですから、御自身が「美しくなりたい」と思う時に、自分の気持ちが以下の3つのどれなのかを見極めて下さい。

「美しくなりたい」という気持ちが「他人から良く見られたい」「異性からモテたい」「ただ単純に美しくなりたい」といった気持ちであるならば、これは「欲望」です。なぜならば、「自分のために美しくなりたい」からです。「自分のため」という気持ちは「闇の感情」です。

それに対して、ある人に恋をしていて、その人に好かれたいと思い、そのために「美しくなりたい」と思うのであれば、この気持ちは「欲望」ではなく「恋心」です。よく「恋をすると女性は美しくなる」と言いますが、好きな人に自分をよく見せたいという気持ちは自然な「恋心」の気持ちであって、「恋心」は「光の感情」でも「闇の感情」でもなく、「中立の感情」です。「恋心」は光にも闇にも平等であって、光に満ちた魂も闇に満ちた魂も恋はします。(余談ですが、だからこそ、神々も悪魔も恋はします。)

また、愛し合う人がいて、「その人とずっと一緒にいるために、より美しくなりたい」「その人が喜んでくれるために、美しくなりたい」と思うのであれば、この気持ちは「愛」であって、光の感情です。「相手のために美しくなりたい」と思っているからです。「相手のため」という気持ちが「光の感情」です。

 

基本的に完璧な美しさを持った人間はかなり少数です。どこかしら不完全な部分を持っています。そういった不完全な部分を気にしようと思うと、いくらでも気にできます。逆に、どれだけ不完全な容姿を持っていても、気にしない人は全く気にしません。そして「闇」が強い人程、自分の容姿の不完全な部分を気にし、「光」が強い人程、自分の容姿の不完全な部分をあまり気にしません。

自分の美しい部分に「優越感」「執着」などを抱かずに、自分の不完全な部分に「劣等感」「嫌悪」などを抱かないようにするために、我々は自分の「容姿」を持っています。魂が「光」に満ちている人は、「優越感」「劣等感」「嫌悪」「執着」といった感情をあまり抱かないので、この試練を簡単に乗り越えられます。魂に「闇」を抱えている人は、自分の容姿について「優越感」「劣等感」「嫌悪」「執着」といった闇の感情を抱きがちになりますが、そういった闇の感情を抱かないように努力することで、魂の「闇」を減らしていけます。すると、気が付くと、そのような「闇の感情」を抱かなくなっていきます。

 

今はメイクやファッションによって、いくらでも自分を変えることができます。ですから、自分の「容姿」の不完全な部分を隠したり、偽ることはいくらでもできます。しかし、そういったことを行なっていても魂は何の進歩もせず、むしろ魂は「闇」に堕ちていきます。何故ならば、そういった人は自分の不完全な部分を「嫌悪」し、「劣等感」を抱き、それを隠そうと「欲望」し、「欲望」で動くからです。そのプロセスはあまりにも「闇」に満ちています。

我々はいつか死にます。その時「容姿」は失われます。今現在の「容姿」なんてものは、魂にとって意味はありません。こういった形で「容姿」を気にし続けた人は死んだ後に醜くなった魂だけが残り、その醜くなった魂を抱えて未来を生きていかなければなりません。そして、「容姿」を気にする魂は来世でも必ず同じように「容姿」を気にします。

神々は「愛」に満ちているが故に、時に厳しいことを行ないます。彼らは「容姿」を気にすることが魂に「苦悩」を与えることを知っています。だからこそ、その「苦悩」を終わらせようと思います。何故ならば、その魂に対して強い「愛」を抱いており、思いやっているからです。だから、その人が来世生まれ変わる時にどのような姿にするかというと、醜い「容姿」を与えます。何故ならば、「容姿」が醜いと、魂は「容姿」を気にしなくなりやすいからです。

容姿が醜い人が自分の醜い姿を嘆いていると非常に「苦悩」します。しかし、誰もが「苦悩」などしたくないです。だから、魂は「容姿」を気にしないという方向性で生き始めます。そして、その人が生きている間、神々は全力でその人をそういう方向性に変わっていけるように「導き」を行ないます。これは「苦悩」を使った「導き」であって、マイナスからゼロの方向性です。

「容姿」を気にすることの「苦悩」に取り憑かれている魂を助けるために、「容姿」を気にすると「苦悩」するような、醜い「容姿」を与えます。そうすると、人は「苦悩」したくないので、「容姿」を気にしなくなっていきます。このようにしながら、神々は我々の魂を助けていますが、こういった「苦悩」を使う修行は厳しい修行でもあります。しかし、神々は我々のためにこの厳しい修行を我々に背負わせます。

神々としては、我々を苦しめるのは辛いです。何故ならば、我々に対して強い「愛」を抱いているからです。自分が「愛」を抱く魂を自分の手で苦しめることは苦しいです。しかし、それさえも彼らは我々のためにしようとします。その1つの表れが、我々の持つ醜い「容姿」です。神々が経験している魂の修行とはこのような修行です。愛する者のために、愛する者に試練を与え、その魂を支え続けます。このような形で、人間と神々はお互いに異なる修行を経験しています。それは全て、我々人間のためです。

このような形で考えていくと、それぞれの人間が今世において持っている自分の「容姿」とは、自分自身が経験すべき試練として設定されたものであることは納得いく話だと思います。神々が理由無しに我々の宿る身体を決定することはありません。我々の魂が今世において今の自分の身体を持っているのは、その身体が我々の魂にとって、最善の身体だと神々が判断したからです。神々はとても「愛」が強いですから、その判断はいい加減になど行なっておらず、最後まで吟味した後に決定しています。
 

以上が、「容姿」が与える我々が向き合っている試練の説明です。「容姿」が異なると、他人の自分に対する見方が変わります。そのことによっても、我々は試練を経験していきます。このことについては、こちらの文章を読んで頂けると幸いです。

・容姿について2