「私、自分が怖い。憎しみにかられて何をするかわからない。もう誰も殺したくないのに。」

ナウシカのように、方向性の異なる様々な「愛」を自分の中に養うなら、自分の中に矛盾する側面を抱くことになり、それが本人に葛藤を与えます。「優しい愛」と「厳しい愛」は相反する方向性を持つからです。

このセリフはナウシカのそういった葛藤を象徴する言葉であって、様々な「愛」を養うことができた人間が経験する試練とは何なのかを我々に垣間見せてくれる言葉でもあります。

最愛の父が殺された現場に駆けつけたナウシカは、父に対する「愛」の大きさが故に「闘いの心(火の気持ち)」という最も「厳しい愛」に強く同調してしまい、我を失い、兵士達を殺してしまいます。しかし、普段の「優しい愛」を抱くナウシカに戻った時、自分が行なったことの残虐性を思い、自分に対する「恐怖」を抱きます。

「闘いの心(火の気持ち)」は誰かを「守ろう」とするが故の敵に対する「憎しみ」に繋がりやすい精神性です。そういった「憎しみ」は普段のナウシカが抱いている「慈愛」や「博愛」とは相反する感情が故に、ナウシカは自分の中の矛盾を経験しています。

「博愛」が故に「皆を大事にしたい」と願いながら生きているにも関わらず、「誰かの生を奪う」ことを今後もやりかねない自分が自分の中に存在することを知ることは、ナウシカに大きな試練を与えているとも言えます。

「皆を大事にしたい」という気持ちが大きければ大きい程、「誰かの生を奪う」可能性のある自分に対する「恐怖」は大きいです。このように、「愛」が大きければ大きい程、経験する心の試練が大きくなるということも非常に重要な点です。

「愛(他者のため)」と「欲(自分のため)」は相反する方向性だからこそ、「愛」を貫けるなら自ずと「欲」は消えていきます。しかし、「優しい愛」と「厳しい愛」は「愛」という点は共通しており、なおかつ、様々な「愛」を使えることにすることによって、実現できる「善」は増えるからこそ、より素晴らしい形で「善」を実践したいと強く願う人間は自ずと矛盾する「愛」を抱えることになります。

我々人間のほとんどは、「愛(他者のため)」と「欲(自分のため)」の間で揺れ動いている中を生きているので、「愛」の方向を選ぶ人間にとっての多くの試練は「欲」の克服です。しかし、ナウシカ程の境地に達するなら、必然的に自分の中の矛盾する「愛」が故の試練を経験することになるということは知っておくべき真実だと思います。

また、このセリフからナウシカが「問題解決の心(水の気持ち)」を進んで使う背景を理解することも重要です。そのことを理解することで、「問題解決の心(水の気持ち)」の素晴らしさも分かりますし、「闘いの心(火の気持ち)」の危険性も分かるからです。

「優しい愛」だけであれば、実現できる「善」は限られています。というのも、「厳しい」ことができないからです。だからこそ、「厳しい愛」を使えなければならないのですが、「問題解決の心(水の気持ち

)」は「厳しい」ことを実践できるにも関わらず、「闘いの心(火の気持ち)」のように恐ろしいことをしづらいです。何故ならば、「水の気持ち」は「冷静」だからです。

そういう性質を理解すれば、何故ナウシカが「火の気持ち」ではなく「水の気持ち」によって「厳しい」ことを実践するのかということも分かります。彼女にとって、「火の気持ち」はあまりにも自分自身の「慈愛」と「博愛」と相反するのに対して、「水の気持ち」は許容範囲内にあるからです。

より多くの「善」を実践しようとする人間は、「厳しい愛」と「優しい愛」の両方を自分の中に養う必要があります。その時、どの「厳しい愛」を選ぶのか、どの「優しい愛」を選ぶのか、という選択は非常に重要な選択です。

そういう選択を良い形で行なうためにも、まず初めに様々な「愛」の種類と本質を知ることはとても大事ですし、ナウシカが「水の気持ち」を選んだように、「厳しい愛」については「水の気持ち」を選ぶことは良い選択だと思います。

というのも、『風の谷のナウシカ』が我々に教えてくれるように、「火の気持ち(闘いの心)」は誰かを必要以上に傷付けやすいのに対して、「水の気持ち(問題解決の心)」は必要以上に傷付けにくいからです。

そして、『もののけ姫』が我々に教えてくれるように、「火の気持ち(闘いの心)」は敵を倒すことを目標とするが故に視野が狭いのに対して、「水の気持ち(問題解決の心)」は問題を解決することを目標とするが故に視野が広いからです。

四方を海に囲まれている島国ということもあって、日本は本来「水の気持ち」の強い国です。そのような国から「水の気持ち」の可能性を伝える素晴らしい作品が生まれていることは、必然とも言えます。