木村拓哉は心理学的にも神学的にも、非常に重要な存在です。しかし、我々日本人は木村拓哉の持っている意味をまだ知りません。だからこそ、ここではその意味合いを説明していきます。
 

【心理学的分析:木村拓哉の表現する精神性】

木村拓哉の精神性は非常に戦士的な精神性で、だからこそ、彼は「闘いの心」を演技の時に表現することを非常に得意としています。多くの人々にとって、「キムタク」の印象は「闘いの心」の印象です。

「闘いの心」の精神性とは、「愛」が故に誰かを守るために「闘い」を実践しようとする精神性で、木村拓哉はそういう精神性の役柄を演じることが多いです。

「愛」には様々な方向性がありますが、「闘いの心」は最も「男性的」な精神性で、「男気」そのものとも言える精神性です。だからこそ、木村拓哉は非常に男らしい存在です。

このような意味で、木村拓哉が「かっこいい」とされることは日本にとって、非常に良い影響があります。というのも、木村拓哉を「かっこいい」と考えることは、「男らしさ」を「かっこいい」と思うことに繋がり、男女の持っているバランスを保つことになるからです。

女性が「男らしい」男性を好きになりやすいと、男性は「男らしさ」を目指すようになります。そういうことによって、男性の「男らしさ」は保たれやすくなります。それに対して、女性が「女らしい」男性を好きになりやすいと、男性は「男らしさ」を目指さなくなります。そうなってしまうと、男性の「男らしさ」は保たれにくくなります。

だからこそ、女性が「男らしさ」のある男性を好むことは、社会全体の精神性のバランスを考えると良いことです。今まで、木村拓哉が主演を務めたドラマや映画などが度々流行ってきましたが、そういう作品を通して、多くの女性がキムタクの精神性に魅力を感じ、無意識にも「男らしさ」を良いものと思ってきました。このような形で、木村拓哉は男女のバランスを保つことを実現してきた存在です。

また、男性が木村拓哉を「かっこいい」と考えることも非常に重要です。というのも、木村拓哉のような精神性を無意識にも肯定することになるので、「男らしさ」に向かいやすくなるからです。女性が「美しさ」を無意識に目指すように、男性も「かっこよさ」を無意識に目指します。だからこそ、何を「かっこいい」と思っているのかがその人間の精神性がどこに向かうのかを決める上で非常に大事で、木村拓哉を「かっこいい」と思う男性は良い影響を受けます。

このような「男らしさ」の観点も非常に重要ですが、木村拓哉は「闘いの心」の価値も日本社会に伝え続けてきました。「闘いの心」は大事な誰かを守る上では非常に有効な精神性で、正しい精神性の一つです。しかし、「闘いの心」は非常に過激な精神性でもあるので、正しく見えないこともあります。

例えば、金剛力士像は非常に強い「闘いの心」を持った存在として表現されていますが、「かっこよさ」のレベルを超えて、「恐ろしさ」のレベルに到達しています。そして、こういった存在は精神性が正しくとも、その「恐ろしさ」が故に、正しくは見えないこともあります。

それに対して、木村拓哉の表現する「闘いの心」は「恐ろしさ」までは行かず、「かっこよさ」を保っています。だからこそ、人々に良い印象を与えるのですが、そういったことは、無意識にも「闘いの心」に対する良い印象を与えることに繋がっています。

正しいものに対する印象を良くすることは「善」です。木村拓哉がそういった「善」を成し遂げてきたことも、木村拓哉の価値を理解する上で、とても大事なことです。

木村拓哉は様々な映像作品や歌などを通して、様々な形での「闘いの心」を表現してきました。現代は、昔とは異なり、男達が刀で闘うような時代ではありません。だからこそ、戦の精神性である「闘いの心」は使われづらい時代です。しかし、現代でも「闘いの心」が有効に活かされる場面はあり、木村拓哉の演技は現代において、どのような「闘いの心」を、どのように使うべきなのかを我々に教えてくれます。

このような形で、「闘いの心」に関する「道」を教えてきたことも、木村拓哉の価値です。
 

【神学的分析:木村拓哉の名前の意味、繋がっている神様】

我々人間の名前には、その人間の意味合いが元々書かれているものですが、木村拓哉の場合も彼の意味は元々書かれています。

「木村」という名字には「木」が二つも含まれています。また、「村」という漢字は「選手村」のように、名詞に付いて「~が集まっている場所」という意味もあります。ですから、そういう意味では「木村」とは「木が集まっている場所」を意味します。

そして、「拓」という漢字は「開拓」という言葉が象徴するように「未開の土地を切り開く」という意味を中心軸に持つ漢字で、「哉」という漢字は「始まり」という意味を持つ漢字です。

つまり、「木村拓哉」という名前は、たくさんの「木々」を「切り開く」ことの「始まり」です。このことが意味することは、木村拓哉が木星神様の使いであるということです。

現代は星が神々であることを忘れた時代で、だからこそ、星の神々の本質を表現するために生まれた人間が数多くいます。そういった中で、木村拓哉は木星神様の本質を伝えることの「始まり」の部分を担当している人間です。

つまり、木村拓哉が多く表現してきた「闘いの心」とは、木星神様の「闘いの心」です。元々、木村拓哉は木星神様の司る「闘いの心」を自分の内に強く持っていたからこそ、今はそういう精神性を人間に教える担当者として生きています。

「気持ち」とは「気」を「持つ」と書きますが、「闘いの心」とは燃え盛る炎のような「火の気持ち」です。ですから、木村拓哉は木星神様からの「火の気」を「持つ」ことを通して、「火の気持ち(闘いの心)」を抱き、それを演技を通して多く表現してきました。

ただ、木村拓哉が木星神様の中心軸である「木の気持ち(風の気持ち)」を強く表現したこともあり、それを実現したのは『ハウルの動く城』のハウルです。ハウルは必要な時は「闇の気持ち」さえも使う存在として描かれますが、ソフィーと接する時などは「木の気持ち(風の気持ち)」を抱いています。

「木の気持ち(風の気持ち)」とは「優しさ」です。ハウルの表現する「やわらかさ」の印象は、「木の気持ち(風の気持ち)」の印象であって、木星神様の中心軸にある精神性です。そもそも、何故木星が「木星」と言われてきたかというと、古代中国人達は木星に「木の気」が強く宿っていることを知っていたからです。

(中国の五行思想は「水・火・木・土・金」の五つの「光の気」に関する思想で、その考え方に合わせて、「水星・火星・木星・土星・金星」という名付けも行われてきました。また、中国の五行思想と西洋の四大元素説はほぼ同じ思想ですが、中国では「木の気」と呼ぶものを西洋では「風の気(風のプシュケー)」と呼びます。)

木星神様のことを伝える始まりの担当として生まれた木村拓哉が、木星神様の中心軸をハウルを通して伝えたことは、本当に「木村拓哉」という名前を象徴する出来事でした。宮崎駿は世界の中でもトップレベルに神懸かっている監督だからこそ、こういう出来事を起こすことができます。

また、神懸かった人間が生み出す歌の歌詞には神々からのメッセージが込められるものですが、本日MVが公開された木村拓哉ソロの『One and Only』の歌詞にも木村拓哉が木星神様の使いであることは、的確に表現されています。
 

https://gyao.yahoo.co.jp/p/00091/v10318/


その歌詞は「僕は1人じゃない 今は言える 君の声は聞こえてる 柔らかい風のように」というもので、「柔らかい風」という言葉は木星神様の「木の気(風の気)」を象徴する言葉ですし、木村拓哉は木星神様と共に生きているからこそ「僕は1人じゃない」という歌詞も的確です。

この曲はB’zの稲葉浩志が作詞をしたもので、稲葉浩志も強く神懸かっている音楽家だからこそ、このようなことが実現できます。つまり、稲葉浩志の作詞に神々が関与をすることで、木村拓哉の本質を示すような歌詞を置くことができた形になります。

古代西洋世界では、木星神様のことをジュピター(ユーピテル)と呼びます。ジュピターは男性性と女性性の両方を司る神として信仰されてきましたが、木村拓哉は木星神様の内面の中でも、とりわけ「男性的」な部分を演技を通して多く表現している存在です。

そのような意味で、木村拓哉は人間が木星神様のことを理解する上での「始まり」にふさわしい存在です。というのも、その神の司る「男性性」を理解する上では、その神のとりわけ「男性的」らしい部分を表現している人間を見るべきだからです。そういうことをすることにより、その神様の内面にある「男性性」と「女性性」の振り幅が見えてくるので、その神様の性質が見えてきます。

このような意味合いが分かると、何故木村拓哉が「木村拓哉」という名前を持っているのかも分かってきます。
 

【最後に】

途中で少し書きましたが、木村拓哉は現代における「闘いの心」の使い方を、様々な作品を通して教えてくれます。そういった意味合いは作品毎に解説を伝える必要があるので、将来的には、木村拓哉が出演している様々な重要な作品について解説を作っていくつもりです。

心理学的分析のところで書きましたが、木村拓哉が日本にもたらしてきた恩恵は非常に大きいです。既に我々日本人はその恩恵を受け取り続けてきましたが、木村拓哉の持つ深い意味をもっと理解できれば、より多くの学びを得るに繋がります。そういった学びが我々がより良い形で生きることを促していくので、このページで木村拓哉の概要説明を書きました。