「幸せ」を求める心と「成長」を求める心は相反することが多いです。というのも、「幸せ」を求める心は「苦悩」へ向かわず、「成長」を求める心は「苦悩」も引き受けるからです。

「成長」という言葉は意味が広いですが、本質的な意味での心の「成長」を目指すことは「修行」と言えると思います。ですから、「幸せ」と「修行」は相反する方向性を持つと一般的には思われがちです。

しかし、「修行」は物事の本質を見定める視野を養い、そのことによって、この世界の素晴らしいものの「価値」を感じられる心を養います。だからこそ、「修行」が「幸せ」を大きくすることは少なくありません。

例えば、「不幸」を経験することで「幸せ」の「価値」がより見えるようになりますし、「戦争」を経験することで「平和」の「価値」がより見えるようになりますし、「欲」の虚しさや恐ろしさを経験することで「愛」の「価値」がより見えるようになります。

また、「修行」は自分の心の「罠」を無くしていくことでもありますが、心の「罠」は自分自身を「不幸」にする原因でもあります。ですから、「修行」によって心の「罠」を減らしていくことは、「不幸」になる要因を減らしていくことでもあります。

例えば、「嫉妬」は「不幸」を与える感情ですが、そういった「嫉妬」を自分の中から消し去ることを通して、「不幸」になる要因を一つ消し去ることに繋がります。他にも「劣等感」「依存」「執着」「承認欲求」「怒り」「絶望」など、「不幸」に繋がる感情は様々ですが、そういったものを一つ一つ無くしていくことで「不幸」への道を断つことができます。

このような意味で、「修行」が「幸せ」を感じられる心を養い「不幸」を止める点は、現代において、大きく見落とされています。だからこそ、「幸せ」の実現のために「修行」を行なう人はほとんどいません。逆に言うと、「幸せ」を重要視し「修行」を軽視する人は、自らの感じられる「幸せ」を実は限定していますし、「不幸」になる要因を心に抱えたままになりがちです。

我々が「修行」を望んでいても望んでいなくとも、生きていれば「試練」は自ずとやってきます。そういった「試練」とどのように向き合うかということを試されているのが人生とも言えます。つまり、生きることはそもそも「修行」を含んでいます。

自分にやってくる「試練」に対して、「向き合う」ことをし「乗り越える」ことをするなら「試練」は「成長」のための「修行」となります。何故ならば、そのような過程の中で自身の心の「成長」も、適切な「学び」も与えられるからです。そのことは、結果的に自身の感じられる「幸せ」も大きくしますし、「不幸」への罠も消し去ります。

逆に、自分にやってくる「試練」に対して、「向き合う」ことをせず「乗り越える」ことをしないなら「試練」は「退化」のための引き金となります。何故ならば、そのような場合の「試練」は「ストレス」の原因となり、「ストレス」は「退化」を促すからです。そのことは、結果的に自身の感じられる「幸せ」を減らしますし、「不幸」への罠を増やすことに繋がります。

このような意味で、「修行」が「幸せ」の実現と繋がっている構造が見えてくると、「試練」の「価値」がより見えるようになるので、より「試練」と「向き合おう」としやすくなり、「試練」が良い「修行」になりやすくなります。

もちろん、「他者のため」により多くを実現できる自分を実現するために「成長」を目指し、「修行」を受け入れる精神性が理想的ではありますが、全ての人がそのような「成長」を望んでいるわけではないので、「幸せ」の観点からも「修行」の存在価値を知ることは大事です。

現代は「ストレス社会」です。この言葉が意味することは、我々にやってくる「試練」に対して、心の底では「向き合う」ことをせず「乗り越える」ことを目指していない人が少なくないことを意味します。

その背景には、この文章で書いたような「修行」と「幸せ」の関係性が意識化されていないことがあります。「幸せ」になりたいと思う人は多いわけですから、このようなことが常識化されていたら、我々はもっと「試練」を「ストレス」ではなく「成長」のために活かせるはずです。

「修行」はその最中は「苦悩」が伴うものが多いですが、その後は感じられる「幸せ」を大きくすることも多いですし、「不幸」への道を断つことにも繋がります。そのような「修行」の価値を理解して頂き、御自身に訪れる「試練」に対して「向き合い」「乗り越える」ことを目指す「動機」の一つとして使って頂けると幸いです。