新しい旅を始めた日の日記です。この日の出来事は、これからの新しい旅がどのような意味を持っているのかをよく示しているので、日記として書かせて下さい。

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【2018/1/19】

タイに到着しています。

実はタイに到着する直前、飛行機の中にいる時から、自分は苦しい「吐き気」に襲われていました。ただ、この「吐き気」が必要なものであることも分かっていました。

「吐き気」は文字通り「気」です。「吐き気」は基本的に神々が人間を「浄化」するために与えるものなのです。だからこそ、お酒などを飲み過ぎたりすると、体に入り過ぎたお酒を「浄化」するために、吐くということを「吐き気」によって促される形になります。

ただ、この時は「吐き気」があるにも関わらず吐くことができない状態がずっと維持されていました。だからこそ、この「吐き気」が必要なものだと理解していました。つまり、「浄化」を目的とした「吐き気」ではなくて、「吐き気」自体が目的の「吐き気」です。

飛行機を降り、ミニバンで宿へ向かい、宿の近くの路上に降りた後、自分は立っていることもできず、その場に座り込みました。かなり長い時間、心で「吐き気」と闘っていたので、本当に苦しい表情をしていたと思います。その時に、ようやく何故自分に神々が「吐き気」を与えているのか、意味が理解できました。

私がそこで座り込んでいる時、目の前を多くのタイ人僧侶が素通りしていったからです。タイの僧侶の中にはいい人はいるだろうけれども、全体としてのレベルは高くないことは、タイに行く前から分かっていました。どうしてそんなことが分かるかというと、Google検索をすれば、タイ人の僧侶達の顔は見ることができるからです。顔には人間性が表れるので、顔からその人の人格を判断できます。

「倒れている人がいたら助けるのが人として当然」ということを私はシャーマンになった当初からずっと言い続けてきました。こういったことを掲げている人間だからこそ、今回神々はタイ人僧侶のレベルを自分に伝えるために、「吐き気」を起こした形になります。つまり、自分自身が倒れている立場の人間となり、その人間を目の前にした時にタイ人の僧侶達がどのように振る舞うのかということを、神々は自分に見せたかった形になります。

おそらく自分の目の前を合計20人くらいの僧侶が通ったと思います。しかし、その中で声をかけてきた僧侶は誰もいませんでした。これは事実であって、この事実から、やはりタイ人の僧侶達は全体としてはレベルが高くないということを理解できた形になります。

『旅人としての側面を復帰します』の文章でも書きましたが、これからの私の旅は、それぞれの国の「気質」調査です。その文章はこちらです。

http://junashikari.com/travelling/new-travelling/

その調査のためだったら、苦しいことだって全然引き受けます。この最初のエピソードは私のこれからの旅をよく表していると思います。ただ、もちろん、素晴らしい経験もすると思います。しかし、素晴らしい経験はその国の「光」を理解することに繋がるだけで、「闇」を理解することには繋がりません。私はその国の「光」も「闇」も知る必要がありますから、素晴らしい経験も苦しい経験も両方行なっていくつもりです。

新しい旅の出だしから、なかなかハードな「導き」でしたが、この旅が必ずしも楽なものではないということを意識化する上では、とても有効な記憶を私は手に入れることができたので、神々のこの「導き」を今ではありがたく感じています。

ちなみに、路上に座り込んで合計20人くらい僧侶達が通り過ぎていき、「吐き気」が何故起こされたのかを理解すると、びっくりする程楽になっていき、普通に歩くことができるような状態になりました。これも、この「吐き気」が神々によって起こされていたものだということについて確信を得る上で、分かりやすい根拠となりました。

とにかく、自分としても、神々としても、世のためだったら必要なことは何でもやるスタンスで生きてますから、こういうことは今後もあると思います。そういう時に、その出来事の意味を見つめ、言語のレベルでの理解に高めていきたいと思っています。

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※追記

タイでは、ほとんどの男性が人生の中で一度は僧侶になる慣習があります。この慣習自体はいい慣習です。仏教をしっかりと学ぶ機会を人生の中で一度は得られるからです。しかし、誰でも僧侶になれてしまうと、僧侶全体のレベルが下がってしまうという問題も生まれます。今回自分の経験を以て理解させられたのは、この問題です。また、この日の後、タイ人達からタイ人僧侶の話を色々聞く機会もありました。そのことによって、タイ人僧侶に対する理解も深まっています。

いつか、タイ人僧侶と友人になり、タイ人僧侶について理解を深めたいと思っています。しかし、それは今回のタイの旅ではないような気もしています。