本日7月1日より20日間程、屋久島に行きます。大変長くなりますが、そのことに対する考えを書き残しておきたく思っています。

この一ヶ月程の間、屋久島のことが頭からどうしても離れず、そろそろ屋久島に再び行くべき時が来たように思っていました。本当は余裕を持って秋頃に行くことを考えていましたが、すぐに行くことを決めました。

それだけ、そういう心が自分に迫ってきていましたし、分析的に考えて、今行くべきだろうという答えに達したからです。屋久島に呼ばれているのだろうし、屋久島に行くことの背中を押されているのだろうと感じます。

コロナの影響もあって、経済的にはあまりにも限界のところまできていますが、それでも今行くべきだろうと感じています。というのも、梅雨の今でしか感じられない屋久島はあるからです。

特に、初めて屋久島に行ったのが7年前の今だったからこそ、初めて行った時と今行った時の違いを分析できるようにするために、今行くことが大事だと思っています。

日常的に、よく山を登ったり走ったりすることを行なっていますが、最近、半年前に一度登ったことがある山道を登っていました。そうすると、その山道の終わり付近で一面が霧に包まれ、その峠の付近を歩く頃には、あの世を歩いているような感覚になりました。

そういう時、人は自分自身がより鮮明に見えるようになります。周りの世界が凄まじく神聖になる時、その神聖さと自分自身を比べることにより、自分の「問題」が浮き彫りになるからです。その時は特に、「軽さ」という「問題」を感じました。

コロナウイルスが日本で流行り始めてから、コロナウイルス対策に関する内容やアーティストが知っておくべきことなどを、ホームページだけでなく、Facebookにもアップするようにしていました。しかし、SNSの持つ空気感は非常に軽く、だからこそ、SNSと関わろうとすると自ずと「軽さ」が感染します。

もちろん、そういった「軽さ」に感染していることは分かっていましたが、神聖な世界に身を置く時、言葉だけの理解を超えて、非常に大きな実感を伴う形で、自分の「軽さ」の感染度を実感します。もうそろそろFacebookとはまた距離を置きたいと思ってはいたので、その登山経験がきっかけとなり、またFacebookから離れました。

また、この経験が屋久島に行くことの背中を強く押しました。というのも、この経験は昔屋久島で経験した経験と非常に似た経験で、屋久島での経験はもっと凄まじいものだったからです。

7年前のちょうど今頃、自分は生まれて初めて屋久島に行きました。まだ、ただの若者だったその時自分が抱えていた「問題」は今よりも圧倒的に多く深く、その「問題」を屋久島の森は自分に浮き彫りにしてみせました。当時Facebookにアップした文章を貼り付けておきます。

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2013年6月28日(東京新宿区にて)

今屋久島から東京に戻りました。昨日は縄文杉に行きましたが、かけがえのない経験でした。もちろん、縄文杉自体もすごかったのですが、縄文杉一帯の森が本当に素晴らしかったんです。

全てが濃い霧に覆われている中、沢の水の音だけが聞こえ、太陽の光によって屋久杉が浮かび上がる。とてつもない神性、エネルギーでした。いくら言葉を尽くしても表現し切れないです。

そもそも、山を歩き回った二日間、終始自我が邪魔でしょうがありませんでした。屋久島の美しい森の世界を目の前にして、自分の中に起こる悪しき感情・悪しき言葉・悪しき記憶、ありとあらゆるものが汚らわしく、とにかくそれを振り払うことに必死でした。清い森を目の前にした分、自分の不純な精神を強く感じたのだと思います。今回、生きていてすっきりしない感覚を根源的なコンプレックスとして認めさせられました。

自我を捨て、森と同化したいとずっと考えていると、これは死ぬしかないのでは、と思いました。自我を持ったこと自体が全ての間違いだと感じたからです。ただ、「私の死とは世界の終わりを意味する=私が生まれて初めて世界は生まれた」という思想を信仰する限り、その方法は取れません。世界が終わってしまえば、その目的を果たせないからです(そもそもその思想が正しいかどうかは死のその瞬間までとっておいてます)。結局、生きながら魂を修練させていくしかありません。それは今の自分にとってはとてもとても長い道のりですが。。。

終始そんなことを考えていました。しかし、その縄文杉付近の森に入った瞬間、目の前の景色によって、悪しき自我は忘れさせられました。口が開き、目が開き、耳が開き、足が止まり、思考が止まり、心を動かされている自己だけが残る。それは、素晴らしい芸術体験でも度々経験してきたことですが、今回は自己のより深い部分で起こりました。かけがえのない体験です。

悪しき自己を捨てること、自己を極限まで薄めるということをあの場所が経験として教えてくれました。それは、偉大な存在の姿を経験として知ることができたとも言えます。それを目指すなんてことはあまりにも傲慢ですが、いつかはあの森と同化したい。

東京での生活は悪しきものに満ちてますが、割り切らず、振り回されず、三ヶ月清くありたいと思います。いい旅でした。

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当時は「私の死とは世界の終わりを意味する=私が生まれて初めて世界は生まれた」という誤った思想を信じてもいますが、この文章は当時の自分と屋久島の存在が交わったことを適切に記録できている文章だと思います。

また、この文章の半年後に屋久島に行った際には記録映像を作成しました。この映像も、当時の自分の人生と屋久島の存在がどう交わったのかを感覚的に記録できていると思っています。映像や音などの技術的なクオリティは低くても、本質的な部分はなんとか記録できたと思います。
 


この七年間の間に、自分はもはや同じ人間とは思えない程に変わりました。この当時の文章や映像を残した自分は、「道」を探しながらも「迷い」を抱いている青年だったと思いますが、長い海外放浪や、様々な精神修行を通して、進むべき「道」への「確信」を得て、その「道」を実際に強く進んできたことによって、自分は大きく変わりました。

今、屋久島を再び訪れる上で、今の自分と屋久島がどのように交わり、自分がどのような影響を屋久島から受けるのかということに関心があります。屋久島は、どんな人間に対しても、それぞれの交わり方をできる程に、その存在は大きく深いことは確かです。だからこそ、数年置きに、変化した自分と共に屋久島を訪れることは大事なことだと思っています。

ただ、季節が変われば屋久島も表情を変えます。だからこそ、冒頭に書いたように、7年前に初めて屋久島に行った時期と同じ時期に行くことが大事だと思っています。そうすることで、7年前に経験した屋久島での自分の心の動きと、これから経験する屋久島での心の動きの違いを分析できるからです。この点が、今屋久島に行くべきだということの最も大きな理由です。

7年前の文章でも映像でも「いつかは森と同化したい」ということを言っていますが、今回の屋久島訪問の大きな目的は、森との同化です。二十日間で自分の全てを屋久島の森に同化し切ることなど不可能ですが、自分が同化しようとする相手のことをより深く知るために、森の中にいる時に、可能な限り同化するように努めたいと思っています。

普通の観光や登山だと、森や山の中を歩くことがメインになりますが、そういう風に歩くだけではなく、瞑想をしたり、森と同調するように踊ったり、森の精神性を捉えるために楽器を演奏したり、森の精神性を捉えるような映像を撮影するつもりです。

今回、チェロとインドハープを持って行き、屋久島の精神性を表現することを可能にするチューニングを探すつもりです。そして、屋久島から自宅に戻った後は、そのチューニングを他の楽器にも応用し、音楽を作り上げるつもりです。そして、最終的には、屋久島で撮影した映像と音楽を合わせ、屋久島の精神性を感じられる映像音楽作品をYouTubeにアップするつもりです。

また、今回は森だけではなく、滝とも同化するように努めるつもりです。自分は屋久島で滝を実際に見たことはないのですが、屋久島は地形の特徴もあって、島全体が滝だらけです。屋久島の滝の情報をネットで検索したり、屋久島の滝を写した写真集『水の屋久島』なども見ていたのですが、その凄まじさは写真からでもすごく感じます。『水の屋久島』という本と接しなければ、これ程までに屋久島の滝に心惹かれることはなかったので、この本は自分の人生を変えたようにさえ思えます。

人が人と出会うことで、相手から何らかの影響を受けて、その後の生き方を変えていくように、人は場所と出会い、その場所から何らかの影響を受けて、その後の生き方を変えていくことがあります。そういう意味で、屋久島程に自分に大きな影響を与えた場所はなく、これからも大きな影響を与え続けていく場所のように思っています。

そして、実際に私に影響を与えているのは場所ではなく、その場所に存在する何らかの霊的存在です。何故ならば、その場所にいることで人が「気持ち」を動かす背景には、その場所に存在する霊的存在の「気」が人の心を動かしているからです。

屋久島には島の神様もいれば、川の神様もいれば、様々な植物の精霊も大きな影響力を持っています。我々の多くは、そういった力を屋久島に行くことで感じることができます。「気」に対する感度の高さ(霊感)は人それぞれですが、あの島の森は、あまりにもそういった力が大きいからこそ、多くの人が感じることができます。

日本人にとって、屋久島が非常に重要な根拠はこの点にあります。目に見えざる存在がいることを忘れている日本人にとって、目に見えざる存在がいることを感じさせる程の強い霊的な力がある屋久島は非常に重要です。

しかし、屋久島の目に見えざる存在を分析的に解説している人間はおそらくいません。その部分を私がやるべきだと思っています。論理的に言語を使って、感覚的に音や映像を使って、屋久島の持っている深い意味を自分は解説できると信じていますし、そういうことをやり抜くだけの動機があるからです。

理論的な分析の一つに、デザインの観点からの分析があります。例えば、屋久島に存在する膨大な滝のデザインは、屋久島の神々の性質をよく伝えられるようにデザインしています。そのデザインの意味を、実際にそこに行き、そこの空気を吸い、そこの水を浴びたり飲んだりすることで、より深く分かります。

例えば、以前『竜返しの滝』という滝を実際に目の前にしたことがありますが、その迫力は凄まじく、本当に龍の体の一部に思えました。それは写真などでは全然伝わらないことです。ですから、実際に滝を目の前にする経験から、我々は龍のことを少しだけ垣間見ることができます。

最近は「鳳凰」をテーマにした音楽を作っていたのですが、それと同じレベルで重要な存在が「龍」です。今回、屋久島に行くことは、屋久島の研究でもありますが、龍の研究の意味も持っています。

ただ、屋久島の滝の多くは秘境にあり、簡単には行けない場所にあります。例えば、『龍王の滝』という滝があるのですが、非常に困難な沢登りをしなければ到達できない場所に隠されています。ですから、今回の屋久島滞在中、沢登りのプロから指導を頂きながら、沢登りの修行もやっていくつもりです。

様々な屋久島のガイドの方に連絡を取ってきましたが、教えてくれる方も見つけました。今回は『龍王の滝』に自力で行けるレベルにすることが、一つの技術的な目標です。沢登りは現代ではスポーツのように捉えられがちですが、一つの精神修行になり得ることは確信しています。

将来的には、龍王の滝に一人で向かい、テント泊などをしながら三日間程滝と向き合うような修行・研究も多くやりたいところです。また、龍王の滝だけではなく、屋久島には様々な精神性を表現する滝がありますから、様々な滝と向かいながら、その滝に自分を同化させていくような修行を重ねていきたいところです。

滝の表現する精神性は「水の気持ち」という「光」ですが、屋久島の持つ力は必ずしも「光」ではありません。実際、昔の自分は屋久島に行ったことで精神を病んだことがあるからこそ、屋久島の持つ「闇」の部分を少しだけ知っています。しかし、屋久島の持つ「闇」は「邪悪」な「闇」とは異なる、神聖な「闇」です。つまり、悪魔の「闇」ではなく、神々や精霊の「闇」です。

映画『もののけ姫』で描かれる森のモデルは屋久島の森ですが、屋久島が「闇」の力さえも持つことを『もののけ姫』のコダマやデイダラボッチは素晴らしい形で表現しています。宮崎駿は凄まじく神懸かっているからこそ、目に見えざる存在の本質を表現することができます。

実は昨日6月30日、自分は映画館で『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』、そして『風の谷のナウシカ』を観てきました。屋久島に行く前日に『もののけ姫』を通して屋久島の森に関する刺激を受け、龍のことを本格的に研究し始める前日に『千と千尋の神隠し』を通して龍のことを少し感じた上で、今回屋久島に行けることをとても嬉しく感じています。だからこそ、再上映して下さっていることに感謝しています。

「屋久島は1ヶ月に35日雨が降る」と言われる程に雨が多いです。このことが意味することは、雨のもたらす「水」の影響が非常に大きく、太陽のもたらす「火」の影響が非常に小さいということです。実際、晴れている屋久島では、屋久島の持つ本当の力は感じづらく、曇りや小雨の霧がかった状況でこそ、屋久島の持つ力はよく感じられます。

我々は地球に生きている限り、月の影響から逃れることはできません。月とは「太陰」であって、「太陰」という名の通り、月は「非常に大きな闇」です。しかし、雨は月が地球に送っている「邪気」を流す力を持つので、雨が異常に大きい屋久島は月がもたらす「邪気」が非常に少ない場所です。

ただ、「闇」が無ければ魂は成長の機会を失います。様々な「問題」という「試練」を与える「闇」があるからこそ、我々は「強さ」や「賢さ」や「愛」といった様々な要素を伸ばすことができるからです。だからこそ、屋久島にも「闇」は必要であって、そういう部分を屋久島では月以外の存在が担当しています。屋久島の森は様々な力を持っていますが、そういった神聖な「闇」の力さえも我々は感じることはできます。

私の人生の役割は、「光」と「闇」の構造を言葉や音や映像を通して伝えることだと思っています。そんな私が、昔から屋久島に心惹かれ、屋久島に呼ばれ、屋久島に行くことの背中を押されていることには納得がいきます。

今は山に籠もっていますが、将来的には島にも籠もらなければならないと思っています。山と海という二種類の大きな存在がどのような意味を持つのかを説明できるようにするためには、その二種の存在と生きる必要があるからです。

だからこそ、一体どの島に籠るべきなのだろうかと、よく島のことを調べてきたのですが、屋久島なのではないだろうか、と最近思い始めています。屋久島は海の神という存在に加えて、様々な目に見えざる存在のことを感じ、分析できるからです。

屋久島の研究は短期的な滞在だけでできるようなものではないと思います。そういった短期的な向き合い方で分かることは、相手(屋久島の様々な霊的存在)のほんの一部に過ぎず、屋久島の神聖な力は広く深いからです。だからこそ、そういう意味でも、いつかは屋久島に住む、または頻繁な長期滞在をするという経験が必要なのではないかと思います。

ただ、今向き合って生きている富士山のことを明らかにすることも、日本にとってあまりにも重要ですし、自分はまだ富士山の神様のことを理解し切っていません。ようやく富士山は雪が溶けたので、屋久島から戻り次第、富士登山修行を始めるつもりですが、そういった修行を重ねる中で、富士山の神様がどのような神様なのかを明らかにしていきたいと思っています。

去年より、富士山と向き合いながら生きる日々を過ごし続けてきましたが、ずっと同じ環境を生きていると、その環境の持つ意味が見えなくなってくることも感じています。逆に言うと、違う場所に行って戻ってくることで、その場所の持つ意味がより鮮明に見えてきますし、そのことで、修行も研究もより良い形で進みやすくなります。

そういう意味では、屋久島に行った後こそ富士山の持つ意味は見えると思いますし、修行と研究の拠点は最低でも二つにすべきかもしれないと思っています。そして、富士山と屋久島という、山と島という二つの存在は、自分にとって最も好ましい修行場かもしれないと思っています。

日本にとって、富士山と屋久島は非常に重要な存在です。富士山は日本一の山の神そのものであって、屋久島はおそらく日本一の神聖さを持つ島だからです。だからこそ、我々は富士山や屋久島に行くことで、目に見えざる力を感じ、目に見えざる存在がいることを理解していけます。

そういった理解を得ていくことが、日本人が再び神々と共に生きていく上で非常に大事なことだと思いますし、そういったことを促したい自分としては、誰よりも富士山と屋久島の持つ深い意味を分からなければならないと思っています。だからこそ、富士山と屋久島と向き合いながら生きていくべきだと思っています。

約半年前に富士山付近に移住し、今日より本格的な屋久島研究が始まります。私がやっているこのようなことは需要があるものなどではないですが、この国にとって、本当に必要なことだと思っています。