我々が何かを生み出す時に必要なものも「アイデア」です。ですから、人間が何か作品を生み出す時にも「アイデア」は常に関わっています。そういった「アイデア」についても、神々と悪魔はそれぞれの動機で我々に関わっています。

「誰かのため」に何かを作ろうとするのであれば、「愛」を中心とした「光の気持ち」を抱くことになるので、神々の「光の気」を受け取りやすくなり、神々からの「アイデア」を受け取り、何かを作ることになります。それに対して、「自分のため」に何かを作ろうとするのであれば、「欲望」を中心とした「闇の気持ち」を抱くことになるので、悪魔の「闇の気」を受け取りやすくなり、悪魔からの「アイデア」を受け取り、何かを作ることになります。

つまり、我々が何かを作る時、その動機によって神々と共に働くか、悪魔と共に働くかが変わってきます。神々は皆が「幸せ」になるために、我々が何かを作る際の「アイデア」を与えますが、悪魔はその悪魔自身の目的のために、我々が何かを作る際の「アイデア」を与えます。

「誰かのため」に生きる人にとって、神々は同じ志を持つ仲間です。神々は自分に「アイデア」という「助け」を与えながら、共に歩んでくれるからです。それに対して、「自分のため」に生きる人にとって、悪魔は利害関係が一致した取引相手です。悪魔は自分に「アイデア」という「餌」を与えながら、自分を利用してくるからです。

神々は人間を大事に想うので、我々人間を利用するなんてことは考えませんが、悪魔は人間を大事に想わないので、我々人間を利用してきます。だからこそ、神々はその人間が「光」を実践しなくなったとしても、その人間に罰など与えずに支えてくれますが、悪魔はその悪魔自身にとって利用価値が無くなれば、本当に酷いことをその人間にします。

何かを作るということには、このような構造があります。以下、作品を作ることと「アイデア」の関係性について、宮崎駿や芥川龍之介といった有名な芸術家の作品を例に取り上げながら説明していきたいと思います。
 

【神々と共に作品を作る場合】

神々と共に作品を作る場合、神々はその作品を通して人間を「光」に導くことを目指します。

そのために、神々はこの世界の「真実」を表現するための「アイデア」を神々は人間に与えます。どうして神々はこのような「アイデア」を与えるのかというと、この時代において、人間を支える上で最も必要なものは「真実」だからです。人間は「真実」を見失っています。「真実」を見失っているからこそ、人間はお互いにお互いの首を絞め合っている現状があります。「真実」とは何か特別なことではなくて、「愛」と「欲望」の違いといったことや、それぞれの「愛」の違いといったことや、神々や悪魔が存在するといったことです。

また、作品を通して人間を「光」に導くための1つの方法は、その作品を通して「光」の価値を人間に教えることです。人は「光」の価値を理解すると、その人自身の「意志」で「光」を選いたいと思うようになります。だからこそ、「光」の価値を表現する物語などは、人間を「光」へ導きます。

神々が芸術を通して「真実」を表現しようとし、「光」の「価値」を教えようとしていることを理解する上で、宮崎駿の作品は非常に分かりやすいです。

例えば、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』においては、パズーとシータが強い「光(愛)」の立場であるのに対して、ムスカは強い「闇(欲望)」の立場です。そして、パズーとシータとムスカのそれぞれの発言は、「光」と「闇」の対立のことを深く理解する上でとても参考になる意味を持っています。つまり、「光」と「闇」という「真実」を表現しています。そして、パズーとシータは本当に「光」が強く、その姿はとても清くて美しいです。そういった美しさから「光」の価値を我々は感じられます。

また、『もののけ姫』においては、アシタカが「水の人(問題解決の心)」であるのに対して、サンとエボシ御前は「火の人(闘いの心)」として描かれます。サンとエボシ御前は「火の人(闘いの心)」であるからこそ、自分の仲間を守るためにお互いに対立をしています。それに対して、アシタカは「水の人(問題解決の心)」であるからこそ、全体を見て問題を解決しようとします。「火の人」は全体よりも部分を大事にするのに対して、「水の人」は部分よりも全体を大事にします。何故ならば「火の気持ち」は自分が愛する人を守ることを最優先に考えるのに対して、「水の気持ち」は問題を解決することを最優先に考えるからです。アシタカもサンも本当に「光」が強く、その姿はとても清くて凛々しいです。そういった凛々しさから「光」の価値を我々は感じられます。

さらに、神々とはどういった存在なのかということを描くために『となりのトトロ』のトトロや『もののけ姫』の獅子神や『千と千尋の神隠し』の登場人物達や『崖の上のポニョ』のグランマンマーレなどが描かれ、悪魔とはどういった存在なのかということを描くために『もののけ姫』のタタリ神や『千と千尋の神隠し』のカオナシなどが描かれ、シャーマンとはどういった存在なのかを分かりやすく描くために『魔女の宅急便』のキキや『ハウルの動く城』のハウルが魔法使いとして描かれています。その他にも目に見えない様々な重要な存在が描かれています。これらは多くの「真実」を表現してくれています。

宮崎駿作品で描かれる、様々な「真実」と「光」の「価値」は宮崎駿御本人が意識している以上に深い神々からのメッセージに満ちていると思います。宮崎駿は神々ととても強く働くことができるだけの魂の「光」が強いが故に、このような意味のある作品を作っています。そして、宮崎駿の作品にこのようなメッセージを神々が込めたことから、神々が作品を通して「真実」を表現したいと思っているということ、「光」の「価値」を教えたいと思っていることが理解できます。


【悪魔と共に作品を作る場合】

悪魔と共に作品を作る場合、悪魔はその作品を通して人間を「闇」に堕とすことを目指します。

そのために、悪魔は自分が人間を「気」で関与しやすくするために、「真実」が見えないように「嘘」を人間に表現させます。ですから、悪魔と共に芸術作品を作る場合、悪魔は人間が「闇」に堕ちるための「アイデア」や、「嘘」を本当と思わせるような「アイデア」を芸術家に与えます。

作品を通して人間が「闇」に堕ちるために有効な方法は、その人間に「闇」は「美しい・かっこいい・かわいい」などと思わせることです。人は「闇」を肯定する理由を持つと、その人自身の「意志」で「闇」を選び始めるからです。そして、作品において、「闇」を肯定する理由となるのは「美しさ・かっこよさ・かわいさ」などです。ですから、悪魔は芸術家に「美しい・かっこいい・かわいい」と人間が感じるような「アイデア」を与えます。そして、そういった「アイデア」を受け取った芸術家としては、そういった「アイデア」を喜んで使います。

これは一般に言えることですが、悪魔と共に働く芸術家に対して、悪魔はその芸術家が悪魔と共に働いていることを気付かせないようにします。何故ならば、自分自身が「美しい・かっこいい・かわいい」と人が思うような「アイデア」を作っていると思う方が、悪魔はその芸術家に「自分はすごい」と思わせやすいからです。「自分はすごい」という「気持ち」は「優越感」であって、「自分のため」の「闇の気持ち」の1つです。そして、「闇の気持ち」を抱いている人間には「闇の気」を入れることができるので、悪魔はその芸術家を操りやすくするために「自分はすごい」と思わせ続けます。

逆に、神々はよく芸術家に神々と共に働いていることを気付かせます。何故ならば、そのことに気付かせた方が「自分はすごい」と思う罠に堕ちずに、その芸術家の謙虚さを保てるからです。神々と共に働く芸術家が「自分はすごい」という「優越感」に堕ちると、神々と共に働けずに悪魔と共に働くことにも繋がります。神々はその芸術家のためにも、価値ある芸術を作るためにも、その人間に神々と共に働いていることを気付かせます。

悪魔と共に作品制作を行なっていた芸術家の1人に、芥川龍之介がいます。芥川龍之介が「優越感」で文章を書いていたことは、芥川龍之介の文章を読むと分かります。芥川龍之介の文章はナルシズムの「かっこよさ」をよく表現しています。だからこそ、多くの人が芥川龍之介の文章を「かっこいい」と思い、芥川龍之介の作品に惹かれていきました。

例えば、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という作品は、神々と地獄のことが描かれている作品ですが、様々な誤ったイメージが描かれています。だからこそ、『蜘蛛の糸』を読むと、神々と地獄についての誤ったイメージを抱いてしまいます。それを空想の世界の話として読むとしても、一度得たイメージは我々の記憶として定着してしまいます。我々は神々も地獄も見たことがありません。そして、見たことが無いものに関しては基本的に我々は何のイメージも持っていません。そういったものに対して、物語を通してイメージを得るということは、知らず知らずの内に、そのものに対するイメージとなってしまいます。だからこそ、そのイメージが正しければ問題ないのですが、間違っている場合は大きな問題となります。

宮崎駿と芥川龍之介とは、そういった意味で対の構造を持っています。宮崎駿は神々と共に働いているが故に、目に見えない存在に関しての「真実」のイメージを人間に与え、芥川龍之介は悪魔と共に働いてきたが故に、目に見えない存在に関しての「嘘」のイメージを人間に与えています。

目に見えないものを描くということにはこのような大きな責任が伴うことを全ての人間は知るべきです。何故ならば、このような構造を理解するのであれば、芸術家は軽い気持ちでそのようなものを描こうとはしなくなりますし、鑑賞者も軽い気持ちで鑑賞しようとは思わなくなるからです。

我々は物語を鑑賞するということによってイメージを得るということの危険性を知らないが故に、物語を鑑賞することを軽視し過ぎていますが、悪魔はそういった我々人間の隙に付け入っています。そして、面白さなどと引き換えに我々に様々な誤ったイメージ=「嘘」を与えている形になります。

芥川龍之介は悪魔にとって不必要な存在となったからこそ、悪魔によって自殺をさせられています。芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」から自殺をしたことは有名な話ですが、悪魔は「闇の気」を通して「闇の気持ち」を芥川龍之介の中に作ることはとても簡単です。ですから、「ぼんやりとした不安」を芥川龍之介の中に作っていたのは悪魔であることが言え、悪魔が芥川龍之介を殺したということが分かります。悪魔はその悪魔自身にとってその人間の存在が都合が悪くなれば、簡単に殺します。

芥川龍之介と芥川龍之介の『蜘蛛の糸』についてはここに詳しく書いています。
http://junashikari.com/芥川龍之介について/『蜘蛛の糸(芥川龍之介)』について/

 

【最後に】

作品制作にはこのような背景があります。ですから、極力悪魔が創った作品を鑑賞せずに、神々が創った作品を鑑賞すべきです。何故ならば、神々の創った作品は我々に重要な「真実」を教え、悪魔の創った作品は我々に「嘘」を教えるからです。

また、どういった芸術ジャンルであるのかも、我々が受け取るメッセージの差を生みます。アニメーションは物語であり、絵画であり、演劇でもあり、音楽でもあるので、膨大なメッセージを我々に届けます。それに対して、本は文字なので、かなり読者の想像に影響されます。これは、宮崎駿や芥川龍之介の例そのままです。

鑑賞者の想像に委ねられる部分が大きい場合、その想像の部分に神々や悪魔が関与できます。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んだ時に、どのように地獄のことを想像するのかという部分に悪魔はかなり関与します。それに対して、宮崎駿のアニメーションを観ている時は、そのアニメーション自体が鑑賞者を引っ張ってくれます。

絵画は視覚だけを使って何らかの「真実」を我々に教えてくれます。例えば、クリムトの『接吻』は「愛」の色が「金」であることを人間に教えてくれます。これは「愛の気」が「金の気」であることを人間に教えてくれる絵画です。

視覚芸術は目に見えないものを見える形で表現することができ、どのようにそれを感じるのかについて、自由度が高いです。しかし、歌のような時間芸術は我々の感情を引っ張ってくれるので、我々が感情のことを学ぶ上で視覚芸術よりも長けています。例えば、美空ひばりの『川の流れのように』を聴くと、一瞬で我々は心を掴まれます。
 


そういった形で、表現方法の違いによって、長所と短所があるのですが、神々と悪魔はそういったことを踏まえて、様々な重要な「真実」や巧妙な「嘘」を人間と共に表現し続けてきました。