昨日『星の子』が公開されましたが、この映画は観ておいた方がいい作品です。このページの解説と合わせて映画を理解して頂くことで、学ぶことは非常に大きくなると思いますので、御活用頂けると幸いです。宗教や「気」のことを分析している立場の人間しか伝えられないことを解説していきたいと思います。


【作品のテーマ】
 


映画『星の子』の意味を非常に短く説明すると、この映画はこれからの日本が何を経験するのかを描いた映画です。だからこそ、今の時点で観ておくことが我々の将来に大きな意味を持つことになり得る作品です。

今の日本は目に見えない事柄について非常に多くを見失っていますが、これから徐々に日本人が目に見えない事柄について理解を深めていく中で、良い新興宗教も生まれてきます。しかし、このような時代においては、そういった良い宗教も「あやしい宗教」に見えてしまうので、その宗教の入信者は様々な試練を経験することとなります。この映画の最も大きなテーマは、そんな宗教を信じている親を持つ子がどのような試練を経験するのか、ということです。

以下、映画の内容についても触れてしまうので、映画を御覧になった後に読んで頂けると幸いです。


【作品解説】

この映画の深い意味を理解するためには、「そもそも宗教とは何なのか?」「気とは何なのか?」「水とは何なのか?」といった様々な基本知識が必要になりますので、その点を補いながら説明していきます。
 

・宗教とは何なのか?

多くの宗教がそうであるように、宗教は何らかの信仰対象を持ちますが、宗教とは信仰対象との繋がりを強化するためのものです。例えば、観音信仰者は、観音様に何かを願ったり何かを頼んだりすることによって、観音様との繋がり(縁)を強める日々を生きることになります。ですから、星を信仰するなら星との繋がりを強めることになります。では、星は神なのでしょうか?

ギリシャ神話などに代表されるように、古代西洋世界では星は神そのものだと考えられていました。また、それは古代西洋世界だけに限らず、星のことを極めてよく研究していたマヤ文明でも同様で、例えば、マヤの王は太陽神様の使いであるといった発想を持っていました。このように、古代世界においては、星が神として信仰されてきたことはこの映画を観る上で大事な知識です。この点だけでも意識できると、この映画の中の「あやしい宗教」があやしくないことが分かってくるからです。

「気」のことを研究していくと、星からの「気」から我々は影響を受けながら生きているという結論に行き着きます。例えば、分かりやすいのは月で、満月の時にイライラしたり、ムラムラしたり、頭痛になるような人はいますが、それは月からの「気」による影響です。月だけではなく他の星も地球に影響を与えており、本来の占星術は、それぞれの星が地球からどれだけ離れどれだけ近づくかによって、それぞれの星の「気」が地球にどのような影響を与えるのかを分析する行為で、どちらかと言えば科学的なものでした。
 

・「気」とは何なのか?「水」とは何なのか?

「気」を「持つ」と書いて「気持ち」と書くように、何らかの「気」を「持つ」と我々には「気持ち」が起きます。この映画の中で黒木華が演じる昇子さんが「あなたの意思ではないのよ」と度々言う描写がありますが、この発言は正確には「あなたの意思で起こる『気持ち』ではないのよ。そういう『気持ち』が起こされているのよ」という意味です。つまり、我々の「気持ち」に強く「気」は影響を与えています。

この映画の中では『金星のめぐみ』という水が頻繁に描かれますが、「水」という存在は「気」を強く宿す性質を持つ物質であって、実際、金星神に仕えるシャーマンが特別な儀式を行なうことで水に金星からの「気」を入れることはできます。ですから、『金星のめぐみ』という水は原理的には誕生可能なものです。

また、「病気」という言葉が「病の気」と書くのは「病の気」を抱えすぎると「病気」になるからですが、逆に、「良い気」を持つと我々は「元気」になります。この点を踏まえると、『金星のめぐみ』という水のおかげで、幼少期のちひろの病気が治ったり、風邪を引きにくくなることは可能です(ただ、風邪を絶対に引かないということはありません)。

ちなみに、インドでは毎日膨大な人々がガンジス川で沐浴をしています。それはガンジス川にはガンジス川の「気」が満ちていると彼らは信じているからであって、そういう川で沐浴をすることで身体が浄化されると信じているからです。「水」という観点でガンジス川のめぐみと『金星のめぐみ』は意味合い的には似ていることを御理解頂けると幸いです。


・良い宗教を潰そうとする「邪気」の力と良い宗教を守ろうとする「正気」の力

良い宗教はそれを潰そうとする邪悪な力に襲われることになります。どうしてこのような構造が生まれるかというと、「気」を悪い形で司どる存在もおり、そういう存在にとって良い宗教とは潰しておきたい存在だからです。つまり、悪魔や鬼と呼ばれる存在は本当の神を信仰する宗教を潰そうとします。こういった構造は昔からある良い宗教においても、世界各地で起こっている構造です。

悪魔は「邪気」で人間を動かすことで良いものを潰そうとします。例えば、ちひろが恋をする南先生は最も最悪な形でちひろが絵を描いていたことを非難する描写がありますが、そういう風な非難をするに至った原因は南先生が最高にイライラする程に生徒達が自己中心的な態度を取っていたこともあります。つまり、南先生が最大限にイライラするように「邪気」は生徒を動かし、最終的に南先生は「邪気」に強く動かされます。

強い「怒り」に堕ちた人間は非常に強く「邪気」を集めます。「気合」という言葉が示すように、非常に強く「気合」を入れると、多くの「気」を「合わせる」ことになるからです。そういう風な形で「邪気」を大量に集めた人間は、ほとんど悪魔に憑依された状態になります。南先生はそういう状態になってしまったからこそ、悪魔の使いとして、ちひろに強い攻撃を与えます。

そもそも、南先生という人物は性格が良くはなく、だからこそ、「邪気」に動かされやすい人間として描かれています。例えば、車の中から千尋の両親のことを酷く言う場面がありますが、南先生は悪意があってちひろの傷付くようなことを言っているわけではなく、「邪気」に動かされているからこそ、無自覚にちひろを傷付けることをしてしまっています。

「邪気」がどうしてちひろにそのような攻撃をしたいかというと、ちひろの心を闇に堕としてしまえば、ちひろも「邪気」で動かせるようになるからです。そうなるとどのようなことが起こせるかというと、その宗教に対する「嫌悪」や「疑い」の心などを起こすことで、その宗教から遠ざけることができますし、それがちひろの両親に対する攻撃ともなるからです。ちなみに、「邪気」の攻撃によってその宗教や家庭から離れた存在として、ちひろの姉が描かれています。

高良健吾が演じる海路さんや黒木華が演じる昇子さんが誰かに訴えられているということも描かれていますが、この二人は悪人には見えず、実際に起こったこととは違った形で誰かが二人を訴えていることが予想できる描写です。こういったことによって、宗教団体内部にも「疑い」の「気持ち」を起こりやすくさせることも「邪気」による攻撃の一部です。

また、ちひろの両親は公園で『金星のめぐみ』で濡らしたタオルを頭に乗せていたり、日常的にタオルを頭の上に乗せていたりしますが、これは「依存」が故に「邪気」に動かされていることを描いています。ですから、南先生に送ってもらった時に両親が公園でタオルを頭に乗せていたことは偶然ではなく、「邪気」によって引き起こされた計画的な出来事です。「邪気」はそういう出来事を生み出すことで、ちひろを闇に堕とそうとします。

南先生とは逆に、自覚無しにちひろを支えた存在が田村飛呂人が演じる新村君です。彼は南先生によって酷く傷付けられたちひろに対して「(ちひろの両親は)カッパかと思った」という天然ボケによって、ちひろを笑顔に変えます。あの状況のちひろを救える力を持った新村君は本当に素晴らしい存在です。新村くんのような天然ボケは神が確信犯的に生み出すもので、そういう意味では、例えば、芸人の出川哲郎などは非常に神がかった芸人です。

他にも、友達のまーちゃんは両親に会えないことで「不安」になっているちひろに対して、「ちょっと待っていなよ」という形で自覚無しに必要な助言を与えています。そのおかげで、ちひろは両親と共に星を見に行くことができ、一つの大事な思い出を作ることとなります。

このように、邪悪な「気持ち」を抱けば「邪気」に動かされるのとは正反対に、善意のある「気持ち」を抱けば「正気」に動かされます。その対立軸をこの映画はよく描いている点に大きな価値があり、リアリティにも結びついています。


【最後に】

科学が発展すればする程、科学的観点だけで説明できないことが何なのかという壁にぶつかっていき、その時に「気」のことが科学的にも明らかになってきます。そして、その先には自ずと「星とは何なのか?」という問いが生まれ、星を信仰する宗教団体も生まれてきます。しかし、今までの常識に囚われている人間にとってはそれは「あやしい宗教」に見えるが故に、ちひろが経験したような様々な試練が生まれます。

また、良い新興宗教が生まれてきたとしても、その宗教も完璧に隙がないわけではなく、何かしらの問題を抱えていたりします。例えば、この映画の宗教の場合、「『金星のめぐみ』を頭に乗せた行為はできるだけ他者に見せないようにしなければならない」といったことが信者に伝えられていないが故に、両親は滑稽にも見える姿で他者に会ってしまっています。そういった滑稽さが、その新興宗教に対する胡散臭さの印象へと変わり、それが「疑い」へと転じやすくなります。そういった隙を「邪気」は見逃しません。

こういった時代がやってくる以前に、客観的にこの映画を観ておくことは大事です。そうすることで、実際にその時代が訪れた時に、的確に行動することがしやすくなるからです。逆に言うと、こういった全体像が見えなければ、南先生のように、自覚無しに悪魔の使いとして誰かを攻撃することを繰り返しやすくなります。

また、今この映画を観る印象と、実際にそういう時代がやってきた時にこの映画を観る印象は異なっているはずです。そういった差から学ぶことは多くあり、映画鑑賞経験のもたらす一つの大事な学びです。

アーティストが何かを作る時に必要なものは「アイデア」であって、善意のあるアーティストは自ずと、神々からの「気」が「付く」ことで「思い付き(気付き)」が起こり、神々の代弁者として作品を作ります。そのような意味で、この作品は星の神が作った作品であって、これからやってくる時代に備えて作った一つの教科書としての映画です。

このような貴重な作品を世に残して下さったことに関わった全ての方々に深く感謝です。