『バベル』は「闇の中の光」を描くために生まれた、神々が創った映画です。また、「闇の中の光」というメインテーマ以外にも様々なメッセージが込められています。
 

 

まだ御覧になってない方は是非御覧になって下さい。また、一度観て時間が経っている方も多いと思いますので、そういった方は再度御覧になって頂き、この解説を読んで頂ければ、と思います。いずれにしても、この映画は、この解説とセットで観て頂くべき映画と理解して頂けると幸いです。

この解説において最も重要視して書くのは、この映画においてどのような「光」と「闇」が描かれているのか、という点です。なぜならば、具体的にどのような「光」と「闇」が描かれているのかを理解しないと、この映画の話がただ流れていってしまい、神々が我々に伝えたい意図が分からないからです。

「光」と「闇」の対比に関連しながら、この映画に込められているメッセージは膨大です。ですから、一度観ただけでそれらのメッセージを全て受け取ることができるような映画ではないと思います。この解説と共に、繰り返し観て頂く中で、この映画の持っている様々なメッセージを理解して頂ければ、と思います。この解説では、まず最初に「光」と「闇」の解説を書き、その後に様々なメッセージについて解説を書きます。
 

【「光」と「闇」】

[作品の構造]

まず最初に少しだけこの作品の構造について説明します。この映画は4つの物語が同時に進行していくような形で描かれています。モロッコのある家族、モロッコを旅行していた夫婦、メキシコに行く乳母とその甥と子供達、日本のある聾の女子高校生とその周りの人々です。(この4つの物語は一つの銃を核に繋がっています。)

この映画は明確な構造を持っており、4つの物語は全て同じ構造を持っています。その構造とは、次の三つの段階を持っているということです。

①それぞれの魂の抱えている「闇」の説明
②それぞれの魂の「心の試練」(「闇」の経験)
③それぞれの魂が「光」を選ぶ描写

この三段階に分かれて描かれています。4つの物語は別々に進行していても、この3段階は同時に進むように映画全体は流れていきます。映画の前半は「それぞれの魂の抱えている『闇』の説明」→中盤は「それぞれの魂の試練(『闇』の経験)」→後半は「それぞれの魂が「光」を選ぶ描写」といった形です。ですから、この映画を観るときは、今は全体として、この三段階のどの段階にあるのかを意識しながら観ることが非常に重要です。

登場人物達は、「①それぞれの魂の抱えている『闇』」が原因で、「②それぞれの魂の『試練』(『闇』の経験)」を経験し、その『試練』を乗り越え、「③それぞれの魂が『光』を選ぶ」ことに至っています。4つの物語は場所は違っても、この構造は全く同じです。

「光」と「闇」と書くと、抽象的に聞こえてしまいますが、その意味は具体的に「感情」のことを意味しています。我々は自分の悪いところを乗り越え、良き人間になるために生きています。これを言い換えると、自分の持っている「闇の感情」を克服し、「光の感情」で自分を満たすために生きているということです。それぞれの登場人物は、自身が抱えている「闇の感情」を経験し、その上で「光の感情」を抱いていきます。

予め、「光の感情」と「闇の感情」を全て書いておきたいと思います。この映画には様々な「光の感情」と「闇の感情」が出てくるからです。太陽系における「闇の感情」は30種類あり、「光の感情」は5種類です。詳しくは『感情一覧』に書いています。
 

・光の感情

光の第1感情:水=問題解決の心・向上心
光の第2感情:火=元気・笑い / 闘いの心
光の第3感情:風=優しさ
光の第4感情:土=忍耐・勇気
光の第5感情:金=愛
 

・闇の感情

闇の第1感情:嫌悪
闇の第2感情:欲望
闇の第3感情:怒り
闇の第4感情:絶望
闇の第5感情:恐怖
闇の第6感情:疑い
闇の第7感情:不安
闇の第8感情:依存、執着心
闇の第9感情:怠惰、無気力
闇の第10感情:後悔、罪悪感
闇の第11感情:比較の闇(自己顕示欲、優越・劣等感、軽蔑、ナルシズム、人目を気にする心など)
闇の第12感情:狂気
闇の第13感情:苛立ち
闇の第14感情:憂鬱
闇の第15感情:他者を咎める心
闇の第16感情:甘さ、馴れ合い
闇の第17感情:嫉妬、羨み(うらやみ)
闇の第18感情:頑固
闇の第19感情:負けず嫌い、傲慢
闇の第20感情:逃げ
闇の第21感情:焦り
闇の第22感情:無心(「禅」の思想など)
闇の第23感情:暴力の快楽(SM、DV、緊縛など)
闇の第24感情:自傷心(自殺願望、リストカット、自殺未遂行為を好む心など)
闇の第25感情:被害妄想の心
闇の第26感情:二次的闇経験の快楽(例えば、闇の文学や音楽などを鑑賞して喜ぶ心)
闇の第27感情:軽さの闇(例:オタク用語、ネット用語)
闇の第28感情:混乱
闇の第29感情:不注意、間違わせる闇
闇の第30感情:非現実を求める闇(あり得ないことを望む心、自分と誰かを重ねる気持ち、非現実の中を生きる気持ちなど。)


そして、重要な登場人物が抱えている主な「闇」は以下です。これらの「闇の感情」と魂が仲がいいが故に、「試練」を経験します。「闇の感情」は問題に繋がりやすい感情です。そういったこともこの映画全体を通して描かれています。それぞれの登場人物は闇の「試練」を経験し、そして最後は皆、「愛」(金の感情)という「光」を選びます。


・モロッコ(兄弟)
弟:欲望
兄:負けず嫌い

・モロッコ(夫婦)
夫:逃げ
妻:怒り

・メキシコ
家政婦:甘さ
男:甘さ
男の子:疑い
女の子:恐怖

・日本
娘:怒り、欲望、絶望


ここでは、それぞれの4つの物語ごとに、

①それぞれの魂の抱えている「闇」の説明
②それぞれの魂の「心の試練」(「闇」の経験)
③それぞれの魂が「光」を選ぶ描写

の3段階の説明を書きます。

 

[モロッコのある家族]

①それぞれの魂の抱えている「闇」の説明

兄:負けず嫌い
弟:欲望
父:甘さ
 

順序よくそれぞれの魂が、どのような「闇」を抱えている魂なのかが描かれています。

・弟は姉の着替えを覗き、自慰行為をします。これは「欲望」の描写です。「性欲」は「欲望」の持つ一つの感情です。
・兄は銃が下手なのですが、絶対にそれを認めず、銃や弾のせいにします。これは「負けず嫌い」の描写です。「負けず嫌い」な魂とは、自分が負けていることを認めないために、様々な理由を付けます。
・父は友人から銃を買い、それを安易に子供に預けます。これは「甘さ」の描写です。こういったいいかげんな行動とは「甘さ」の感情から生まれる行動であるからです。

そういった説明が描写される中で、この三人の持っている「闇」が原因で、バスの乗員を銃で撃ってしまうという事件を起こしてしまいます。その時の台詞にも、それぞれの「闇」が事件を引き起こしたことがよく表れています。



(銃を撃っている兄に向けて弟が言う)
弟「何やってるの?」
兄「三キロ先も打てると言ってたのに、そこの岩にも当たらない。この銃はよくない。」(負けず嫌い)
弟「兄さんが下手だからさ。貸して。」(欲望)
(弟は銃を撃ち、岩に当てる)
弟「ほらね。」
兄「でも、3キロも離れてない。」(負けず嫌い)
(二人は場所を移動する)
兄「遠くは当たるもんか。」
(兄は銃を撃つ)
兄「弾のせいだ。」(負けず嫌い)
弟「腕が悪いんだ」
(兄は悔しそうな表情を見せる)
弟「あの車を打ったら何をくれる?」(欲望)
兄「俺が打つ。」
(兄は撃つが車には当たらない。)
兄「ほら当たらない(銃が悪い)」(負けず嫌い)
弟「僕に撃たせて」(欲望)
兄「あっちのバスを打てよ」
(撃った後)
兄「やっぱり当たらない」(負けず嫌い:自分が下手なわけではない)
弟「役に立たないや」
(バスが止まり、弾が当たったことに気付き、二人は逃げる)

この一連のやり取りを通して、この二人はバスに乗っている乗客を撃ってしまうという過ちを犯してしまいます。兄は「負けず嫌い」だからこそ、自分が銃が下手だということを認めたくなくて、どんどん撃ちます。そして、弟は「欲望」が強いからこそ、「あの車を打ったら何をくれる?」と言って、車を撃とうとします。そして、実際に当たってしまいます。

二人とも子供だからこそよく考えずに、自分の「闇の感情」に従ってしまったが故に、この事件を起こしています。また、子供に銃を簡単に渡した父は「甘さ」の感情を抱えていたとも言えます。そういった描写が順序よく描かれています。


②それぞれの魂の「心の試練」(「闇」の経験)

二人はバスを撃ってしまったことを通して、「マズイことをしてしまった」という「後悔」や、「大丈夫なのだろうか」という「恐怖」「不安」といった様々な闇の感情を経験します。そして、銃を隠し、警察から逃げるという「逃げ」の感情に落ち着きます。それぞれの「闇の感情」は異なる「闇の感情」に転じますが、そういったことがここでは描かれています。撃ってしまったことに対する「後悔」→事実は変えられないという「絶望」→捕まるかもしれないという「不安・恐怖」→自分の身を守るための「逃げ」といった形です。この、それぞれの闇の感情が他の闇の感情に転じるということも、この映画ではよく描かれており、とても重要な要素です。

また、弟は「逃げ」の感情から様々な嘘を付き始め、兄は「逃げ」の感情から自分を守ろうと弟と姉の覗きのことなどを父に告げ口します。二人とも「自分のため」に、自分を守るために、様々な闇の行為をしていく描写が描かれています。闇の感情は「自分のため(欲望)」、光の感情は「相手のため(愛)」です。闇の感情に堕ちると自分のために闇の行動を実践していくことが表現されています。

この映画において重要なのは出来事としての「試練」ではなくて、ある出来事を通して、登場人物達がどのような「闇の感情」を経験しているのかという「心の試練」です。それを見ることで、感情の成り立ちやそれぞれの感情からどのような行動が生まれるのかということについて、重要なことを気付くことができます。
 

③それぞれの魂が「光」を選ぶ描写

三人は警察に見つかり、銃撃戦となり、兄は撃たれます。その中で弟は家族を守ろうと警察に発砲した後、もう一度兄が撃たれてからは銃を壊し、兄のために全てを投げ出して、警官の方に両手を上げて歩きながら言います。

「僕がやった。アメリカ人を殺し、あなたたちに発砲した。父さんと兄さんは何もやっていません。お願い、兄さんを助けて。兄さんは何もしていないんです。兄さんを助けて。助けて。お願い。助けて。」

ずっと「自分のため」に行動をしていた弟がここで初めて「他者のため=兄のため」に、自分を犠牲にするという選択を行ないます。他人のために自分の全てを投げ出すのは、これは強い「愛」です。つまり、弟は「愛(兄弟愛)」という「光」を選んだということが表現されます。

最後、死んだ兄が運ばれるのを見ながら、弟は昔の兄との記憶を思い出します。二人で風を浴びている時の記憶ですが、風は木星神様が吹かせており、「風の気」という「光の気」を人間にもたらします。どうして風を浴びている様子を思い出すかというと、「兄弟愛」という「光」を描くためです。風という光に支えられながら、つまり神々に支えられながら、「兄弟愛」を育んできた様子が最後に描かれます。

 

[モロッコに旅行中のアメリカ人夫婦]

①それぞれの魂の抱えている「闇」の説明

夫:逃げ
妻:怒り

冒頭において、二人の魂が抱えている「闇」の説明が、二人の会話を通して行なわれます。

(レストランで)
妻「何故ここに来たの?」(嫌悪)
夫「何故って?」
妻「どうして来たの?」(嫌悪)
夫「二人きりになるため」(愛)
妻「(周りのツアー客を見て)二人きり?」(嫌悪)
(夫はコーラを氷の入ったグラスに注ぐ)
妻「氷を捨てて。」(嫌悪)
夫「冷えてない」
妻「氷に気を付けないと」(嫌悪)
夫「リラックスしろ、何故イラつくんだ?」
妻「原因はあなたよ リラックスできないわ」(怒り)
夫「努力しろよ」
妻「努力してないと思う?」(怒り)
夫「許してくれないのか?」
妻「分かってるはずよ」(怒り)
夫「口論はしたくない」
妻「そう、、する気になったら教えて。また逃げたりせずに。」(怒り)

このシーンだけでは何故ここで喧嘩をしているのかが明らかにされませんが、この二人は息子が亡くなった件を通して、このような状況になっています。そして、その息子が亡くなった時、夫は逃げ、妻はその逃げたことを許していない(怒り)ということが描写されています。あることを許さない時、人は「闇の感情」に堕ちますが、妻は「怒り」に堕ちています。つまり、彼女の魂が強く抱えている「闇」は「怒り」です。また、夫は「逃げ」という「闇」を抱えていることが分かります。


②それぞれの魂の「心の試練」(「闇」の経験)

バスに乗っている時に妻が撃たれ、そのことから試練が始まります。夫は妻を助けようと全力を尽くします。しかし、病院が近くないこと、待っても待っても救急車が来ないこと、他のバスの乗員が自分のことしか考えないこと、外交の問題で大使館も全然動いてくれないことといった、様々なマイナス要因によって夫は「怒り」の感情を強く持ちます。その「怒り」の矛先は、自分を強く助けている人にさえも向けられます。

大事な人を守らないといけないという極限の状態の中で、様々なことがうまくいかないと、人は闇の感情に堕ちてしまいます。そういったことがここでは描かれています。この時、夫は「怒り」だけではなく、「混乱」などにも堕ちている様子が描かれます。

また、妻を助けるために全力を尽くす夫の感情は光の感情の1つである「水の感情」です。「水の感情」とは「愛」のために「思考」と「実践」によって「問題解決」を行なおうとする感情のことです。なんとか妻を助けようと、夫はありとあらゆる手を尽くす様子は水の感情を描写しています。しかし、「水の感情」は「怒り」にも近い光の感情であって、だからこそ「怒り」に堕ちている面もあります。そういった、「水の感情」と「怒り」の近さもこの映画では描写されています。
 

③それぞれの魂が「光」を選ぶ描写

(救急車が来ない中、二人は話します)
妻「リチャード。もし私が死んだら、子供達を頼む。とりわけマイクには父親が必要よ」
夫「君は死ぬものか。死ぬわけがない」
妻「二度と子供達から離れないで」
夫「離れるものか」

また、その後に夫が妻のトイレを手伝いながら、夫は妻にキスをし、妻は泣きます。

夫:許してくれ。サムが死んだとき、僕は、、、僕は逃げた。怖かったんだ。
妻:私も怖かったわ。私のせいじゃなかったの。息をしてなかったの。
夫:僕が悪かった。愛してる、、、サムの顔を忘れそうだ。

妻は自分の死を意識しながら、子供のことを想い、夫が逃げたことに関しても、許します。「誰かのため」という「愛」の気持ちだからこそ、「咎める」のではなくて「許す」ということに至っていることが表現されています。強い夫婦の「愛」が描かれます。モロッコの兄弟が「兄弟愛」であったのに対して、この二人は「夫婦愛」です。


この映画において、4つの物語の全てにおいて「許すこと」と「咎めること」という対立はいつも描かれています。光の立場は「許す」、闇の立場は「咎める」という点を神々が我々に伝えたいからです。「許す」ためには「相手のため」という気持ち、つまり「愛」が必要です。「相手のため(愛)」を想うからこそ、「許す」ことはできます。しかし、「自分のため」に生きていると他人が自分に対して行なった過ちを「許す」ことはできず、「咎める」気持ちに堕ちてしまいます。なぜならば、相手のことを大事に想えないと、自分が受けた不利益だけに目がいくからです。

また、モロッコのこの夫婦と時間を共にしていた通訳のモロッコ人男性は終始、「光」の人として描かれます。夫が通訳の男性に理不尽に怒っても、決して「闇」に同調せず、「光」を実践します。つまり、この夫婦を親身に支え続けます。この通訳の男性と夫が別れる時、夫はお金を渡そうとします。しかし、この通訳の男性は受け取りません。これが何を意味するかと言うと、「ただ与える」というスタンスと「交換(ギブアンドテイク)」というスタンスの違いです。

光の立場は「ただ与える」というスタンスであり、闇の立場は「交換(ギブアンドテイク)」です。光の立場は相手のためをただ想って行動しているので、「見返り」を求めません。それに対して、闇の立場は自分のために動いているので、いつも「見返り」を求めます。「見返り」を欲しいと思うか思わないかが、「ただ与える」のか「ギブアンドテイク」になるのかを決定します。

現代社会は「交換(ギブアンドテイク)」が当たりまえの社会です。アメリカ人である夫にとっては、それがあまりにも当たり前だから渡したかったのでしょうけど、モロッコ人のこの男性はただ「愛」だけで動いていたからこそ受け取りません。そういった「ただ与える」と「ギブアンドテイク」の違いも描かれています。この映画は感情の話だけではなくて、こういった重要なメッセージに溢れている映画です。

 

[メキシコに行く乳母とその甥と子供達]

①それぞれの魂の抱えている「闇」の説明

乳母:甘さ
乳母の甥:甘さ
女の子:恐怖
男の子:疑い

冒頭、女の子が暗闇を怖がるところから始まります(「恐怖」の描写)。そして、その翌日、乳母は息子の結婚式に出席するためにメキシコに行かなければならないけれども、預かっている子供達を放っておくわけにはいかなくなります。そして、この乳母は周りの人に頼んだ後、しょうがないので結婚式に連れていくことにします。それらの描写で彼女の持っている「甘さ」の説明がされます。特に、次の会話はこの物語において、「甘さ」の象徴の会話となっています。

(友人に「預かってほしい」と頼むとき)
友人「無理だってば」
乳母「お願い 息子の式なの。昼間だけでいいの。夜には戻るから」
友人「奥様に何て言うの?」
乳母「あなたの甥と姪だとでも」(甘さ)
友人「そうよね 私とそっくりの顔立ちだわ」(皮肉)

この乳母の「あなたの甥と姪だとでも」という発言は、後半にこの乳母の甥が警官に付く嘘と同じ言葉です。どういうことを意味しているかというと、この発言は「甘さ」に依る発言であるということを意味しています。また、メキシコに入る時、車中で男の子の持っている「疑い」の闇を示すために以下の会話が描写されます。

甥「"天国"は簡単に入れる」
女の子「メキシコ?」
乳母「そう ここはメキシコよ」
男の子「ママがメキシコは危険だって」
甥「そう メキシコ人がいるからな(ふざけて言う)」
乳母「冗談よ」
男の子「(甥に対して「疑い」の表情)」(疑い)

結婚式が終わった後、乳母と甥は「甘さ」が故に飲酒運転でアメリカに帰ろうとします。甥の方は過去に飲酒運転で捕まっていて、今回もかなり酔っているにも関わらず「大丈夫さ」と繰り返します。また、事故に遭いそうになっても笑っています。これも「甘さ」の描写です。

 

②それぞれの魂の「心の試練」(「闇」の経験)

国境を越える時に、非常に「傲慢」な警官に検問されます。そこで、甥は酒と警官の「傲慢」によって「闇の感情」を強め、国境突破をしてしまいます。これもまた、闇の感情が強まったが故のミスであって、モロッコの兄弟の過ちと同じ構造です。闇の感情が強くなると、人は判断を誤るようになります。その時の一連の会話が以下です。

警官「身分証明書を。どこから?」
甥「メキシコ」
(警官は「疑い」の表情)
甥「結婚式があって、、」
警官「出身は?」
甥「グアダルーペ」
警官「グアダルーペか。今日はどこへ?」(傲慢)
甥「サンディエゴ 彼らを送っていく」 
警官「この子達は誰?」(疑い)
甥「彼女の姪と甥」(「甘さ」から嘘を付く。この嘘は冒頭の乳母の発言と同じ。)
警官「甥と姪?そうは見えない」(傲慢)
乳母「違います。二人を預かってるんです。」
警官「二人のパスポートは持っているか?」
(パスポートを渡す)
甥「問題でも?」
警官「あるのか?ここで待ってろ」(疑い、傲慢)
(警官は一度去る)
甥「黙ってろよ、俺に任せろ」(甘さ)
乳母「挑発的だわ」(不安)
甥「からかっただけさ。心配するな」(甘さ)
警官「トランクを開けろ」
甥「イエス」
(荷物チェックなどが続く)
(懐中電灯を目に当てられ、甥は苛立つ)
サンチャゴ「今度は何だっていうんだ。クソ野郎。」(苛立ち)
警官「二人を預かってるんですね。両親からの委任状は?」
乳母「委任状、、、」(甘さ)
甥「何のことだ?」
(女の子が起きる)
警官「(女の子に向けて)お嬢ちゃん。この人は叔母かい?」
女の子「いいえ、違うわ。」
甥「乳母なんだ」
警官「酔ってるな?飲酒運転か。車から降りろ」(疑い)
甥「どうして?」
警官「すぐに車から降りろ」(傲慢)
甥「説明させてくれ」
警官「説明の余地はない。降りろ」(傲慢)
甥「わめくな」(苛立ち)
警官「車から降りろ、これ以上言わせるな」(傲慢)
甥「説明させてくれ」
警官「説明の余地はない。言われた通りにしろ。」(傲慢)

この一連の描写は本当によく闇の感情のことを表現しているので、何度も観て頂きたく思っています。警察官の「傲慢」が甥の闇を強めていく描写がよく描かれています。

甥はこの後すぐに警官を振り切り、車を運転し、国境突破を行ないます。これも「甘さ」が故に行なってしまいます。

乳母「なんてことを」
甥「お前がこの二人をつれてくるからだ」(咎める心)

ここでも、モロッコの兄弟や夫婦と同様、相手を「咎める」ことを行ないます。この物語において「咎める」ことは重要な要素です。強い闇の感情を経験しているからこそ、理不尽に相手を咎めます。

この後、甥は「警察をまいたら戻って来るから降りろ」と言って、乳母と子供達を無理矢理砂漠に降ろします。砂漠に彼らを置いてきぼりにするという過ちを、甥の「甘さ」が引き起こします。

乳母と子供達は夜の砂漠を歩き始めます。子供達の「恐怖」から発せられる泣き声がより一層三人の「恐怖」の感情を強め、歩く必要はないのに三人はどこかへ向かって歩くという誤った行動を行ないます。「恐怖」が原因でミスを犯すということがここでは表現されています。また、声というものがお互いの心の状態に影響を与えることが描かれます。

(砂漠で助けを待つ中で男の子が乳母に言います)
男の子「悪いことしてないのにどうして隠れるの?」
乳母「悪いことをしたと思われてしまったのよ。」
男の子「嘘だ。悪い人なんでしょ?」(疑い)
乳母「いいえ、私は悪い人間ではない。ただ馬鹿なことをしてしまっただけ。」

男の子は砂漠の真ん中で「恐怖」などの闇の感情を経験する中で、ずっと自分を育ててくれた乳母に対して「本当は悪い人なんでしょ?」という「疑い」を持ちます。この男の子は元々「疑い」の闇を抱えていて、なおかつ状況が困難であるからこそ、自分を育ててくれた人を疑ってしまいます。人は強い闇の感情に堕ちている時、相手に対して「疑い」の気持ちを持ちやすくなります。

それぞれの闇の感情は別の闇の感情に転じます。だからこそ、強い「恐怖」を経験している時に「疑い」を抱えたりします。ここで描写されているのは、そういった「恐怖」→「疑い」の流れです。

砂漠の中で、乳母と子供達は「恐怖」「絶望」の感情を経験します。しかし、なんとか生き残ります。

 

③それぞれの魂が「光」を選ぶ描写

最後、乳母は捕まった後に警官とこの会話を行ないます。警官はあまりにも感情が無く、無慈悲です。この映画において、警官の在り方とは非常に重要な要素ですが、この警官は「無心」という闇に堕ちています。「冷酷」と言ってもいいと思います。

警官「奇跡的に二人を見つけた。どうして二人を砂漠に置き去りに?」
乳母「二人の様子は?」(愛)
警官「あなたに関係ない。多くの子が国境を越えようとして死ぬ」(無心)
乳母「二人が生まれた時から側にいて、昼も夜も世話してきました。三度の食事も私が食べさせてあげ、一緒に遊びます。私の子供同然なんです」(愛)
警察「しかし、あなたの子供ではない。しかも、あなたは不法就労者だ」(無心)
乳母「甥のサンチャゴは?」(愛)
警官「分からない。二人の父親は怒っているが、訴えることはしないと」
乳母「ありがとう」(感謝)
警官「だが、あなたは重大な法律違反を犯しており、ただちに強制送還させる」(無心)
乳母「私はアメリカで16年暮らしているんです。すべてがここにあります。家を借りて、生活を築いたんです」 
警官「先に考えるべきだったな」(無心)
乳母「弁護士と話します」
警官「裁判に持ち込んでも結果は同じだ。先伸ばしになるだけだ。送還に従う方が賢明だ」(無心)

最後は自分の息子と抱き合う場面で終わります。


この物語において、この乳母は最初から最後まで「愛」の感情を抱いています。この「私の子供同然なんです」という言葉からは赤の他人を子供のように想える「愛」の描写、自分を砂漠の真ん中に置いていった甥のことも「咎める」のではなく、心配している様子も「愛」の描写です。状況は悪くなってしまったにしても、彼女は「心の試練」において「闇」に堕ちず、「光」を選び続けます。

しかし、国家の「ルール」である「法律」を目の前にすると、彼女の抱いている強い「愛」も全く無意味となってしまいます。このシーンで描かれている非常に重要な要素は、国家の「ルール」が人間の心を奪い、コミュニケーションを成立させなくするということです。このことは、この映画のタイトルの『バベル』の意味の話に繋がっていく話で、後程この意味を書きます。

彼女は強い「愛」の持ち主ですが、彼女の抱える「甘さ」という「闇」故に、どうしようもない状況に堕ちてしまいます。「甘さ」という「闇」は、強い「光」を抱えている魂でさえもよく陥ってしまう「闇」です。16年前に違法就労でも大丈夫であろうという「甘さ」が、ここに来て「絶望」を引き起こします。

この地球には国という枠組みがあり、そこにはそれぞれの国の「ルール」があります。その「ルール」に引っかかるような「甘さ」を持つならば、どんなに素晴らしい魂であっても、ミスを引き起こすことになります。我々が生きている世界では、そういった「甘さ」は持つことができません。そういったメッセージもここでは込められています。

 

あと、このメキシコの物語においては、中盤の方に結婚式の描写があります。この場面は映画の中盤にも関わらず、「光」を描いています。一体どういった光の感情を描いているかというと、「愛」に加えて、「火の感情」の持つ「元気・笑い」という側面です。皆夫婦の結婚を祝い、陽気な音楽の中で踊りはしゃぎます。この感情が「火の感情」です。

この映画は家族というものを描く側面が非常に強い映画ですが、結婚式とは家族にとってとても重要な時間です。だからこそ、描いておきたかったという神々の意図もあります。結婚とは神々に向かって愛を誓う、1つの儀式です。神々と行なう儀式であるからこそ、神々は結婚式には強く関与できます。だからこそ、結婚式は幸福感に満ちた場となります。神々が結婚式に関与している描写は、ド上げした新郎が天に飛んでいったように表現されている部分に示唆されています。

 

[日本のある聾の高校生とその周りの人々]

①それぞれの魂の抱えている「闇」の説明

冒頭、バレーの試合において、千恵子(聾の高校生)が審判に対して抗議を行ないます。その時に彼女は酷く「怒り」の感情を審判に対して示します。これは千恵子の魂が「怒り」を抱えていることの説明描写です。

その後にチームメンバーとこのような会話をします。
友人A「あんたがキレたから、私達は負けた」(咎める心)
千恵子「あの審判のせいよ」(咎める心)
友人B「千恵子が退場にならなければ勝てたのに」(咎める心)
友人A「なぜ機嫌がわるいの?」
友人B「いつもじゃん、まだ誰ともやったことないからよ」(軽さの闇)
千恵子「お前の親父とヤッて機嫌直す」(怒り)

この場面も「咎める心」の描写があります。「闇」に堕ちているからこそ、皆がお互いを「咎める」ことをします。また、父親(安二郎)の車の中でも

安二郎「何食べたい?」(愛)
千恵子「チームの仲間とJpopで会うのよ」
安二郎「一緒に食べるって言ったろ」
千恵子「友達と食べるんだってば。パパはいつも聞いてないんだから」(咎める心)
千恵子「ママはちゃんと聞いてくれてた」(怒り)
安二郎「どうして、そうして喧嘩したがるんだ?パパだってママがいなくなって寂しいんだ。自分なりに頑張ってるつもりだ」
安二郎「三時の歯医者の約束忘れるな。気を付けてな。」(愛)

「愛」で接してくる父親に対しても、彼女は「咎める」ことをします。また、「怒り」も向けます。魂が「闇」に堕ちると、「光(愛)」で接して来る相手に対しても、どこかその人間の悪いところを見つけ、そこに対して「嫌悪」を感じ、「闇」を実践してしまいます。闇はいつも相手の悪いところを探します。

この「咎める心」や「怒り」を「愛」で接して来る相手に向けるという構造は、モロッコで夫(ブラピ)が世話してくれていた男性に対して「咎める心」「怒り」を向けたことと同じです。このように、この映画はどのように登場人物が感情を動かしているかを分析すると、同じ部分や異なる部分が出てくるのですが、そのことから様々なことを学ぶことができます。

 

②それぞれの魂の「心の試練」(「闇」の経験)

ゲームセンターで男の子達が千恵子と彼女の友達のことをからかい、そのことで千恵子は「怒り」の感情を強く持ちます。そして、その「怒り」の感情を昇華するために、パンツを脱いだ状態で自分の秘部を男性客に見せて楽しみます。露出狂などと言いますが、彼らは「欲望」から自分の秘部を人にさらすことを楽しみます。ですから、この一連の流れは「怒り」→「欲望」という流れです。ここでは、そのような闇の感情の転じ方が描写されています。

闇の感情は他の闇の感情に転じますが、闇の感情の中には「快楽」を伴うものと「苦悩」を伴うものがあります。「欲望」はそれを実現する時「快楽」がもたらされる感情です。それに対して、千恵子の抱える「怒り」は「苦悩」をもたらす感情です。人は「苦悩」は好まず、「快楽」は好きなので、そういった「苦悩」の「闇の感情」を「快楽」の「闇の感情」に転じさせようとします。これが所謂「ストレス発散」の構造です。

モロッコの兄弟が「苦悩」の「闇の感情」を別の「苦悩」の「闇の感情」へと転じていったことと、この日本の千恵子は対の関係性になっており、千恵子はひたすらに「苦悩」の「闇の感情」を「快楽」の「闇の感情」に転じようとします。

モロッコの兄弟:「絶望」「不安」「後悔」→「逃げ」(全て「苦悩」)
千恵子:「怒り」→「欲望」(「怒り」=「苦悩」、「欲望」=「快楽」)

千恵子は歯医者に行った後、「欲望」の気持ちから歯科医にキスをしようとします。しかし、拒絶をされ、不満そうに去っていき、やり場のない気持ちを感じます。「欲望」という闇の感情はそれが実現できないと、「苦悩」に変わります。そして、その「苦悩」を終わらせるために別の「欲望」を持ちます。

歯医者に行った後、「欲望」を満たそうと男の子達と酒と麻薬を使って遊び、心は満たされていきます。しかし、親友が自分の目当ての男の子とキスをしているのを見て「絶望」し、他のもので「欲望」を満たそうとします。その手段として、昼間に会った、自分がタイプの刑事を呼び出します。

ここでは麻薬を使っているので、「欲望」の「快楽」はとても大きくなっています。麻薬は人間の感じる力を上げるので、その時に「欲望」を経験するのであれば、「快楽」を強めます。そんな時に、目当ての男性が親友に取られるという、自分の「欲望」が最も満たされないことを経験したことによって、千恵子は酷く気分を落とし、「絶望」という「苦悩」を経験します。

この部分で表現したかったことは「欲望」の経験の「実現」によって生まれる「快楽」と「欲望」の「非実現」によって生まれる「苦悩」、そして「苦悩」を終わらせるために「快楽」を求めるという構造です。「欲望(欲望の実現)」→「絶望(欲望の非実現)」→「欲望」という闇の感情の転じ方を描写しています。

千恵子は刑事と会い、同情を誘うために「嘘」を使います。しかし、その「嘘」を使っても刑事の心は手に入れられず、そして自分が聾であるため会話という方法も取れず、千恵子はどうしようもなくなって、裸になって刑事に迫るという行動に出ます。ここで描かれていることは、彼女は自分の「欲望」を満たすために、「嘘」を使って、相手の「優しさ」を使おうとしているということです。つまり、自分の「闇」を満たすために、相手の「光」を利用しようとします。自分の「欲望」のために相手の「愛」を利用しようとするのは、「闇」の立場の魂が犯す邪悪な行為の一つです。そういったことがここでは描かれています。
 

③それぞれの魂が「光」を選ぶ描写

刑事は千恵子の誘惑と闘った後、その「欲望」に同調せずに、千恵子を拒絶します。それを通して、千恵子は再び「絶望」し、「絶望」している千恵子を刑事は「風の感情」である「優しさ」で抱きしめます。

そして、刑事は「誤る必要はないよ」と「優しさ」で千恵子に話しかけ、千恵子は一生懸命に書いた手紙を刑事に渡します。その後、父親が帰ってきた時、千恵子は父親の手を握り、抱きしめます。

刑事は「欲望」という「闇」に負けず、「優しさ」という「光」を選び、千恵子を抱きしめます。そして、千恵子はその「光」を刑事から受け取ったからこそ、魂が「光」を求め始め、父親に対して「愛」で接し、父親を抱きしめます。

「闇」は「闇」を強め、「光」は「光」を強めます。バレーの試合での審判に対する「怒り」→父親に八つ当たりをする「怒り」→ゲームセンターでの男の子達のちょっかいに対する「怒り」→露出狂をするという「欲望」→歯科医師にキスをするという「欲望」→麻薬を使った遊びによる「欲望」→目当ての男性が親友に取られるという「絶望」→刑事の「優しさ」を「嘘」で利用しようとする「欲望」→刑事に拒絶されたことによる「絶望」。このような形で、千恵子の「闇」はこの物語においてどんどん強まっていきます。これは、「闇」は「闇」を強めていくということの描写です。

そして、どこまでも高まってしまった「闇」を「優しさ」という「光」が解決します。それは刑事が彼女を抱きしめたからでもあります。本当に「光」の気持ちで相手を抱きしめることは、とても強い「光」を相手にもたらします。だからこそ、千恵子は終わらない「闇」の連鎖を終えることができ、「光」に寄っていきます。

千恵子と父親が抱き合う場面で映画は終わり、最後に監督の言葉が出ます。

我が子供たち
マリア=エラディアとエリセオに
最も暗い夜の 最も輝ける光

この言葉がこの映画の最も大きなテーマである「闇の中の光」ということをよく表していますし、人類が受け継いでいくべき映画であるという意味を込めて、「我が子供たち」という言葉が添えられています。

 

[4つの物語についてのまとめ]

以上が、4つの物語において描かれている、

①それぞれの魂の抱えている「闇」の説明
②それぞれの魂の「心の試練」(「闇」の経験)
③それぞれの魂が「光」を選ぶ描写

ということの説明です。

モロッコの兄弟は「負けず嫌い」「欲望」が原因で事故を引き起こし、様々な闇の感情を経験し、最後に弟は「兄弟愛」を選びます。

モロッコの夫婦は「逃げ」「怒り」が原因で関係性が悪化し、そして事故が原因で夫は強い「水の感情(問題解決の心)」を抱きますが、「怒り」にも堕ちます。妻は「恐怖」を経験し、その試練を「夫婦愛」で乗り越えます。

メキシコの乳母と甥と子供達は「甘さ」が原因で事故を引き起こし、そのことによって試練を経験しますが、乳母は最後まで「愛」を貫きます。また、結婚式では「火の感情」が描かれます。

日本の千恵子は、「怒り」と「欲望」と「絶望」の間を揺れながら、刑事の「優しさ(風の感情)」に救われ、魂を「光」の方へ寄せていきます。

 

この映画に出てくる感情は多いです。できるだけ多くの感情を表現したかったという神々の意向があるからこそ、このような形になっています。この映画に出てくる主要な感情は以下です。

・光の感情

光の第1感情:水=問題解決の心(夫)
光の第2感情:火=元気・笑い(結婚式)
光の第3感情:風=優しさ(刑事)
光の第5感情:金=愛(全体的に描写)

※「愛」には種類がありますが、この映画においては「兄弟愛」「夫婦愛」「家族愛」「友愛」全てが描かれています。


・闇の感情

闇の第1感情:嫌悪(妻、千恵子)
闇の第2感情:欲望(弟、千恵子、警部)
闇の第3感情:怒り(妻、千恵子)
闇の第4感情:絶望(兄弟、夫婦、千恵子)
闇の第5感情:恐怖(女の子)
闇の第6感情:疑い(男の子)
闇の第7感情:不安(全体的に描写)
闇の第13感情:苛立ち(甥)
闇の第15感情:他者を咎める心(全体的に描写)
闇の第16感情:甘さ(乳母、甥、モロッコの父)
闇の第19感情:負けず嫌い、傲慢(検問の警察)
闇の第20感情:逃げ(夫)
闇の第22感情:無心(警察)
闇の第27感情:軽さの闇(日本の音楽、テレビ)


この映画を通して、これらの感情について理解を深めることができます。ですから、感情という側面を重要視しながら、映画全体をよく観て頂ければ、と思います。

 

【この映画の持つ様々なメッセージ】

この映画は「闇の中の光」を描くために、様々な登場人物の感情の「光と闇」を描写している映画ですが、感情だけに限らず様々なメッセージが込められています。感情の「光と闇」については上に解説を書きました。ここでは、それ以外のこの映画の持つ様々なメッセージについて書きたいと思います。

 

☆「バベルの塔」について

『バベル』という映画のタイトルとは「バベルの塔」という旧約聖書の『創世記』から来ていますが、その旧約聖書の記述が以下になります。『創世記』11章1-9節

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全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。

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どうしてこの映画が『バベル』というタイトルをしているかというと、この「バベルの塔」の話の二点から来ています。

1、銃

一点目は「銃」という問題です。この映画において、4つの物語は1つの銃で繋がっており、銃というものがそれぞれの悲劇を引き起こします。銃で自殺した妻(日本)、銃を遊びで使ってアメリカ人を打ってしまった兄弟(モロッコ)、その弾に撃たれた妻とその夫(モロッコ)、銃の事件が故に息子の結婚式に預かっている子供を連れていった乳母(メキシコ)、全ては銃がきっかけで悲劇が起こっています。日本人の男が善意でモロッコ人に渡した銃が、最悪な悲劇を起こしたという設定は、銃そのものに対する批判的な考えが込められています。

この『創世記』の記述に「彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた」という記述がありますが、この記述は人類の科学技術の過信を表しているという解釈があります。ですから、そういう意味で、この記述と「銃」を重ねて意味しています。人類の科学技術の過信が「銃」という凶器を生んだからです。

そういった意味を込めて、この映画は『バベル』というタイトルを持っているのであって、この映画の1つのテーマは銃批判にあります。
 

2、心が通じ合わないこと

この『創世記』に「彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」という記述がありますが、映画『バベル』において描かれているもう1つの点はこの点です。登場人物達は相手と心が通じ合わないことを通して苦悩します。そのことも様々な観点で描かれています。以下、どのようにして心が通じ合わないのか、ということについて書いていきます。

 

[国と法律]

この映画によって描かれている1つの「心が通じ合わないこと」の要素が「国」や「法律」といったものの存在が人間同士のコミュニケーションを果たさせないようにしているという点です。

本来、「国」というものは必要ないものであって、人間が創ったものです。現代人の我々にとって、「国」が無い世界というものは想像も付かない世界ですが、実際数千年前までは我々人間は「国」のない世界を生きていたことは歴史を振り返ると明らかです。もちろん、大昔は村といった単位で小規模な「国」がたくさんあったとも考えられますが、現代程、「国」という考え方に支配された世界ではありませんでした。

では、どうして「国」というものができたかというと、どこかの時代で統治者が現れたからです。そして、その統治者が引き継がれたり、様々な形に変化していく中で「国」というものに満ちた世界になっています。

「国」はその「国」を「法律」という「ルール」で縛ります。この「法律」という「ルール」が人間を不自由にしていきます。我々は本来「自由」であるべき存在です。なぜならば、「自由」でなければ我々の「意志」が奪われていくからです。そして、「意志」が奪われてしまうと我々は「選択」をすることができなくなります。「選択」ができなくなると、魂の「意志」は奪われ、その「国」が望むような魂に「国」によって矯正されていくことになります。

例えば、日本は「法律」だけではなく「ルール」だらけの国です。コンビニで何かを買うにも、順番待ちのためのラインが床に書かれています。これは1つの「ルール」です。このコンビニの例で考えると、一見この順番待ちの「ルール」はとてもいい「ルール」のように思えます。しかし、実際は我々は他者に前を譲るといった「思いやり」の場面を1つ奪われています。そして、「思いやり」が実践できなくなると魂は「優しさ」を失っていきます。使わない感情は魂から失われていくからです。こういった「ルール」の問題は『ルールについて』により詳しく書いています。

この映画においても、「法律」という「ルール」によって、「愛」が奪われていく場面が描かれています。それが、この映画の終盤にある、メキシコ人の乳母が警察と会話している場面です。

警官「奇跡的に二人を見つけた。どうして二人を砂漠に置き去りに?」
乳母「二人の様子は?」(愛)
警官「あなたに関係ない。多くの子が国境を越えようとして死ぬ」
乳母「二人が生まれた時から側にいて、昼も夜も世話してきました。三度の食事も私が食べさせてあげ、一緒に遊びます。私の子供同然なんです」(愛)
警察「しかし、あなたの子供ではない。しかも、あなたは不法就労者だ」
乳母「甥のサンチャゴは?」(愛)
警官「分からない。二人の父親は怒っているが、訴えることはしないと」
乳母「ありがとう」(感謝)
警官「だが、あなたは重大な法律違反を犯しており、ただちに強制送還させる」
乳母「私はアメリカで16年暮らしているんです。すべてがここにあります。家を借りて、生活を築いたんです」
警官「先に考えるべきだったな」
乳母「弁護士と話します」
警官「裁判に持ち込んでも結果は同じだ。先伸ばしになるだけだ。送還に従う方が賢明だ」

この会話を見るだけでも分かると思いますが、どんなに乳母が「愛」で警察に話したところで無意味です。なぜならば、警察は「法律」の守護者だからです。だからこそ、この乳母と警察の会話は会話として成立していません。お互いの心が通じ合うかどうかということ以前に、「法律」があるからです。このように、「法律」という「ルール」は、人間同士が心を通じ合わせることを行なえないようにしていきます。

結果、この乳母は映画の最後に「絶望」を経験している様子が描かれます。これは「愛」を抱いても無駄な状況を「法律」によって用意され、その結果「絶望」という闇の感情に堕ちるということを表しています。このように「法律」は我々のコミュニケーションの壁を作り、「愛」を奪い、「闇」に落としてきます。

また、モロッコで撃たれた夫婦は、「国」と「国」の外交の問題によって、救急車が全く来ないということを経験します。どんなに夫が大使館に自分の「気持ち」を伝えたところで、大使館は「国」の指示で動いているため、全然動いてくれません。つまり、コミュニケーションは成立しません。そのことを通して、夫は「怒り」の感情を抱いていきます。これも「国」というものが、魂の「愛」を奪い、「闇」に落としてくる1つの描写として描かれています。

また、アメリカの政府がこの事件について、勝手な解釈でテロということにしたがっている様子もこの映画では描かれています。「国」と「国」は利害関係で成立しています。「国」という枠組み自体に人格はないからです。その「国」全体のことを考えると、利害関係で他国と付き合っていく方向性にどうしてもなってしまいます。そして、そういった「国」と「国」の利害関係に付き合わされている人間のことがよく描かれています。

 

[警察]

先程も書きましたが、「警察」とは「ルール」の守護者です。この映画においては、モロッコでもアメリカでも日本でも「警察」が登場します。そして、彼らは「ルール」の守護者として振る舞います。この映画をなんとなく観ていると気付けませんが、それぞれの国において「警察」が描かれているのは明確な意図があります。それは、「警察」という存在がどういう存在であるのかを人間に伝えるためです。

国においては「法律」が絶対です。だからこそ、「法律」を守る立場である「警察」には、とても強い「権力」があります。だからこそ、現場にいる「警察官」は自分が何か偉い立場の人間であると錯覚し始め、それが性格にも反映されていきます。この映画で登場する警察はそれぞれ違う個性を持っていますが、それは明確な意図があって、それぞれの個性を持っています。

アメリカ国境の警察官はとても「傲慢(負けず嫌い)」です。どうして彼が「傲慢」かというと、「警察」という立場は人を「支配」できるからです。その「支配」の感覚はいつも自分が勝っている感覚、自分が相手よりも上の感覚を抱かせることができます。この感覚が「傲慢」の感情です。その「傲慢」の感情を良く思うようになると、人は「傲慢」になっていきます。そして、この警察官が「傲慢」であるが故に相手(甥)を苛立たせ、国境突破に踏み切らせてしまいます。

モロッコの警部は「欲望」の1つである「支配欲」に堕ちている人物として描かれます。どうしてそのようなことが言えるかというと、この警部はいつも「強迫」を行なうからです。「強迫」とは相手に「恐怖」を与えることによって相手の魂の「自由」を奪い、相手の魂を「支配」する行為です。この警部はその「支配」の感覚を好んでいるからこそ、いつも「強迫」を行ないます。ライフル所有者に「拷問」という「強迫」をし、弟が嘘を付くと「嘘だったらお前のタマを切り落とすぞ」と「強迫」し、女に対して「騙したらただじゃおかん」と「強迫」します。警察とは「強迫」できる立場であり、それができるからこそ、「支配欲」が強い警察は「強迫」をよく使うようになります。そして、「強迫」によって相手は「支配」されますから、コミュニケーションは成立しなくなります。拷問を受けた男性は強い「恐怖」に堕ちている様子も描かれます。

乳母が最後の話す警察官は「無心」の感情に堕ちています。それは「冷酷」とも言えます。「ルール」の守護者は、自分自身がその「ルール」の奴隷です。奴隷だからこそ、「感情」を失っていきます。自分の「感情」を業務に入れても意味がないと感じるからです。そうすると、「無心」という闇の感情に捕まっていきますが、この警察官はそういった人物として描かれ、乳母の「愛」の発言に対して何も心を動かさず、ただただ相手にとって辛い事を言い放っていきます。その発言によって、乳母は「絶望」していきます。このような形で、「無心」を抱えている警察とはコミュニケーションが成立しなくなっていきます。

日本の刑事は、まだ「優しさ」を何とか持っている人物として描かれます。彼は最後の場面で、刑事ではなく、一人の人間として千恵子と向き合い、「優しさ」を実践します。そのことによって、千恵子は「絶望」から救われ、魂を「光」の方向へ持っていくことができます。「警察」が「警察」である内はコミュニケーションは成立しないけれども、一人の人間として相手と向き合うならば、コミュニケーションは成立するということをここでは意味していますし、「光」の価値を表現しています。「闇」に満ちた社会の中で苦悩しながらも、この刑事はかろうじて「光」を維持している人物です。その心の闘いの様子が、1人で酒を飲む姿から感じられます。

人間が創った悪しきものが「国」という枠組みや「法律」という「ルール」です。「警察」はその「ルール」の守護者であるが故に、警察官が「警察」として振る舞っている内は相手とのコミュニケーションが成立しません。本当のコミュニケーションは警察官が「警察」としてではなくて、一人の「人間」として振る舞った時に初めて生まれます。

そして、「警察」であるが故に警察官は、様々な「闇」に堕ちてしまいます。この映画では、警察官が堕ちがちな「闇」である「傲慢」「支配欲」「無心」が描かれています。そして、それとは対照的に「警察」ではあるけれど「光」を維持している刑事を描いています。そのことを通して、「光」の価値を訴えています。

そういった、人間が抱える「警察」というものの問題を、この映画ではよく描いています。

 

[聾について]

「バベルの塔」の話は、神が人間がお互いの言葉を理解できないように、人間の言葉をバラバラにしたという話も含まれていますが、神が作るコミュニケーションの壁の1つが身体障害です。この映画において、人間の言葉がバラバラであるからコミュニケーションがあまり取れないという場面は実はほとんどありません。モロッコに旅行で行っている夫婦も通訳の男性がいることで、言葉の問題はほとんど経験していません。

ただ、聾の女性は神が作るコミュニケーションの壁を経験している人として描かれており、聾の人間がどのような世界を経験しているのかを表現しています。逆に言うと、神が作ったコミュニケーションの弊害を表現するために聾の主人公がこの映画に登場しています。

聾の人間がどのような世界を生きているのかを鑑賞者に伝えるために、千恵子の日常を描写する中で、普通に音のある部分と無音の部分を交互に描くようにして、聾の方の認識と聾ではない人間の認識のギャップを描いています。そのギャップから様々なことに気付く事ができます。


1、音楽の有無

クラブに行くシーンがありますが、そのシーンがそのことをよく表しています。クラブではものすごくテンションの高い曲が流れていて、耳の聞こえる方であれば、その音だけで自然と気分は高揚します。しかし、聾の方は音によって気分が変わるわけではなく、視覚によって気分を高揚させます。様々な視覚効果を見たり、楽しそうな人々の表情を見ることで、自分の気分を高めていきます。その様子を描いています。

そして、そういったシーンの直後に、自分が好意を抱いている男性と親友がキスをしているのを見て、急激に千恵子の気分が堕ちる様子が描かれます。これは何を意味するかと言うと、音が我々人間の意識をどれだけ維持しているかということを描いています。もし千恵子が耳が聴こえていたら、そのキスを見たところで、ここまで急激に気分を落とすことはありません。なぜならば、音が自分の気分を少しでも維持してくれるからです。しかし、千恵子は音という「助け」がないために、急激に気分を落とします。

「音楽」は「時間」を伴います。そして、「時間」と「感情」は非常に密接な関係にあります。我々が何らかの「感情」を抱くためには必ず「時間」が必要だからです。そして、「音楽」は「時間」を支配するために、その「音楽」が流れている間、「音楽」は我々の「感情」に強い影響を与えます。だからこそ、「音楽」は我々が何らかの「感情」を維持するための「助け」となります。

しかし、聾の方はこういった「助け」がないために、自分自身の魂の力で自分の「感情」を維持しなければなりません。聾の方が聾でない方に比べて大変な点の1つはこういった「音楽」という「助け」がないことです。この映画では、聾の方が経験している、こういった1つの魂の試練も描かれています。

聾の方とそうでない人の間にある、「音楽」の有無によって生まれる、こういった「感情」の差は、1つのコミュニケーションの壁です。「音楽」はそこにいる人間の気持ちを同じ方向へ導きます。しかし、聾の方はそういった「音楽」を経験できないが故に、他者との「感情」の差を経験します。つまり、「音楽」によって「気持ち」を通じ合わせることができません。これは、神が生んだ、1つのコミュニケーションの壁です。


2、会話で音が使えないこと

千恵子が刑事とメモを使って様々なコミュニケーションを取り、最終的に服を脱いで刑事に迫るシーンがあります。千恵子は自分の「性欲」を満たすために刑事を呼び出し、「嘘」を通して刑事の「同情」を誘ったりしますが、うまくいきません。そういった中で、どうしようもなくなって、直接的に自分の「性欲」をさらけ出すというのが、脱ぐという行為です。

耳が聞こえていると、「声」を使う事ができます。そして、「声」とは「音」なので、「音楽」と同様に相手の「感情」に影響を与えることができます。千恵子は刑事をその気にさせるために「嘘」などの方法を使いますが、うまくいかず、どうしようもなくなってしまい脱いでしまいます。

もし、彼女が「声」を使えたならば、色っぽい「声」などを使って、相手をその気にさせることもできたはずです。しかし、彼女はそれができないために、苦悩します。同じ「内容」を話していても、それを言う時に使う「感情」が異なると相手にはかなり違った印象を与えます。つまり、何かを言う時に使う「感情」が違うと、相手の「感情」に対する影響も変わってきます。

何を言うかという「内容」と同程度に、「声」というものは、相手の「感情」に強い影響を与えます。メモを使って「内容」を伝えることはできても、「音」が使えなければ相手と「気持ち」を通い合わせることはとても難しくなります。メモは、何を言うかという「内容」しかそこに表せないからです。

また、手話であれば、視覚的に「感情」を表現できますが、刑事は手話ができないので、そういった方法も千恵子は使えません。また、千恵子は表情や仕草で相手をその気にさせることができる程、賢くもないし、若いので経験もありません。そういった中で、どうしようもなくなってしまいます。

このシーンから、コミュニケーションにおいて「音」がどのように関与しているのか、ということを人は学ばなければなりません。

 

・「聾について」まとめ

耳が聞こえないと、「音」が使えません。「音」が使えないことによって使えなくなる大きなものが「音楽」と「声」です。「音楽」がないと「感情」を維持するための「助け」を使えなくなり、「音楽」を聴くことを通して回りの人々と同じ「気持ち」になることもできません。また、「声」が使えないと「感情」を表現するための道具が使えず、「気持ち」を通わせることが難しくなります。

聾の方とはそういったコミュニケーションの壁を経験しているのであって、神が作ったコミュニケーションの壁を、「試練」として経験しています。聾の話を書いたのでこれは書いておかないといけないと思うのですが、我々は輪廻転生しており、神々が次に我々がどういった身体に宿るのかを決めます。生まれつき聾の方とは、「今世においては聾になった方がいいだろう」と神々が判断したが故に、聾となっています。これは大変厳しい判断ですが、その判断には様々な理由があります。神々は善意で動いていますから、理不尽な理由で聾で生まれた人間はこの世に一人もいません。神々はその魂のために大きな「試練」を課します。

 

[「心が通じ合わないこと」まとめ]

『バベル』という映画のタイトルについて、「バベルの塔」の話が持つ「心が通じ合わないこと」という要素について、ここまで説明してきました。この映画の中では、人間が創った、お互いの心を通じさせなくする壁として、「国」「法律」「警察」などが描かれ、神が創った、お互いの心を通じさせなくする壁として「聾」といった身体障害が描かれます。

「国」「法律」「警察」といったものは、否応無しに魂を不自由にし、お互いの心を通じなくさせます。だから、その存在自体が本質的に「闇」です。「法律」を作るといいこともありますが、善意のある人間同士であれば、お互いに与え合いますから、「法律」といった「ルール」を作らなくても社会は成立します。これだけ「法律」が多い世界なのは、人間がお互いに奪い合っているからです。奪い合いが始まると、その奪い合う人間同士に「ルール」が必要となり、それが「国」「法律」「警察」を生んでいきます。そして、「国」「法律」「警察」は人間同士のコミュニケーションを成立させなくしていきます。

「聾」といった身体障害は、その魂に対する「試練」として神々が課しています。「聾」であれば、音が使えないが故に、心を通じ合わせることは、聾でない方に比べると困難です。しかし、この映画でもあるように、相手を抱きしめることによって、心を通じ合わせることはできます。だからこそ、身体障害とは「国」「法律」「警察」とは異なり、本質的に「闇」のものではありません。身体障害とは、あくまでも「試練」です。

「闇」を創るのは神ではなく、人間の方にあります。神々は「光」の存在であるからです。我々は、お互いの心を通じ合わせないようにしているものが何なのかを理解し、これから人間がどのように生きていくべきなのかを考えていかないといけません。人間は、物事の意味を考えることが本当に苦手です。だからこそ、神々が大事な事を人間に伝えるために、このような映画に多くを関与し、様々なメッセージを込めています。この映画において、神々が伝えたい大きなメッセージの1つが、お互いの心を通じ合わせなくしているものが何なのか?ということです。だからこそ、この映画は『バベル』というタイトルを持っています。

 

☆場面を切り替えることによって伝えているメッセージ

この映画は4つの物語が同時に進行しながら、それぞれの場面にいきなり映像が飛びます。これは、この映画の監督であるアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥがよく使う手法でもあります。どうしてそのような手法を取っているかというと、そのことによって重要なメッセージを伝えたいからです。また、場面だけではなく実際の時間軸もズレており、そのことによっても重要なメッセージを伝えたいという意図を持っています。以下、重要なメッセージを持っている画面の切り替えについて書いていきます。
 

[親子の電話]

この映画の序盤と終盤において、電話越しに行なわれる父と子の会話が描かれます。序盤の方は子供側からその電話を描き、終盤の方は父の側からその電話を描きます。そして、日常の何気ないことを子供が父に話します。この映画を観ていると、序盤のこの電話は何気ない会話として鑑賞者は観ることになります。しかし、終盤の同じ会話は「愛」を感じる強い場面と感じます。

妻を助けようと死に物狂いで努力してきた父は、生き残るかどうか分からない妻の手術中にこの電話を掛けます。酷い精神的疲労の中で、妻が生き残るかどうかも分からない「不安」の中で、子供の声を聞いて、父は泣き始めます。その時に父が経験してきた「闇」に対して、子供の声があまりにも「光」と感じたからこそ、父は子供に対する「愛」を感じ、泣き始めている形になります。我々が経験している親子の何気ない会話がどれほど重要であるかを伝えるために、このような方法でこの電話は描かれています。

「光」の価値を知るために、この世には「闇」があります。もし「光」だけだったら、我々は「光」の価値は分かりません。「闇」を経験して初めて、「光」の価値を我々は知る事ができます。そういった、この世において最も重要な「光」と「闇」というものの関係性を、この場面はよく描いています。それは、この映画において最も重要なテーマが「闇の中の光」だからでもあります。そういった「闇の中の光」を象徴する場面として、この一本の同じ電話は映画全体をまたぐように存在しています。
 

[家族にとって最も「光の時間」と「闇の時間」]

映画の中盤において、モロッコの兄弟が殴り合う場面からメキシコの結婚式に映像が飛ぶシーンがあります。これは何を意味するかというと、家族というものにおいて、最も「光の時間」と「闇の時間」を描くためです。家族にとって、最も「幸福な時間」と最も「不幸な時間」とも言えます。

結婚とは神々に「愛」を誓い、家族という関係性になる場面です。つまり、家族という関係性を「肯定」する場面です。
それに対して、兄弟同士で「憎しみ」の感情を抱く事は、神々が作った家族という関係性を「否定」する場面です。

「愛」なのか「憎しみ」なのか、家族という関係性に対する「肯定」なのか「否定」なのか、という「光」と「闇」の対比がここで描かれ、そのことから、家族間で「愛」を感じるということの「喜び」と、家族間で「憎しみ」を抱くことの「悲しみ」が描かれています。

家族とは「愛し合う」ための1つの枠組みです。「憎しみ合う」ために家族はあるわけではありません。だから、本質的に家族というものは「光」です。そういった本質的に「光」である家族が、「愛」という目的を果たす時の「喜び」と、「憎しみ」という「愛」と矛盾する方向性に行ってしまった時の「悲しみ」が、対比を通して描かれています。

この場面も親子の電話の場面と同様、光と闇の対比から光の価値を鑑賞者に伝えるためにある場面です。このように、映像が飛ぶ時の「光」と「闇」を対比させることによって、それぞれの出来事の意味はよく分かります。

 

[暗闇を彷徨う乳母・子供達と祈りを捧げるモロッコの人々]

「光」と「闇」の対比の関係性から映像が飛んでいる場面はまだあります。砂漠に取り残されてしまった乳母と子供達が「不安」や「恐怖」の中で砂漠を歩き始める描写から、銃に撃たれた女性の横で祈りを捧げる通訳のモロッコ人男性の場面に飛ぶシーンです。これも明確に「光」と「闇」の構造を持っていますが、そういった対比で考えないとこのシーンの持つ意味を理解できません。

夜中の砂漠であてもなく歩き始めることは間違っています。いたずらに体力を消耗しますし、迎えに来るといった甥も見つけられなくなるからです。しかし、「恐怖」に囚われると人間は誤ったことを行ない始めます。「恐怖」にはそのような力があります。そういったことが乳母と子供達の場面では描かれています。

それに対して、銃で撃たれた女性の横で「祈り」を捧げる男性の振る舞いは非常に正しい行動です。何故ならば、「祈り」を捧げるのであれば、神々がより人間を助けることができるからです。誰か他者のために「祈り」を捧げる時、神々はその「祈り」によって生まれた「光の気」を使う事ができます。祈りについて、詳しくはこちらを読んで下さい。

祈りについて
http://junashikari.com/energy/祈りについて/

アメリカ人の夫はその「祈り」の光景をただ眺めています。これは何を意味するかというと、「祈り」の意味を忘れた現代人の描写です。夫は妻のことを想うのであれば、本当は神々に「祈り」を捧げるべきなのですが、「祈り」の意味を忘れているために行なわず、その場において最も必要なことを行なってくれている通訳の男性をただ眺めています。また、妻はただ眠っている様子が映されますが、「睡眠」は神々が行なう身体の治療の力(自然治癒力)を高めます。そのことを表すために、少しだけ眠っている妻の様子が映ります。そして、他者の「祈り」は自然治癒力を高めます。なぜならば、神々は「気」によって自然治癒を行なっているからです。その「気」の量が増えるとより自然治癒を行なうことができます。そういった意味で、眠っている妻を実は助けている「祈り」を捧げる男性と、その横で何もできない夫が描かれます。

その上で、乳母と子供達の話に戻ると、彼らも本当はただそこに座って、神々に「祈り」を捧げるべきでした。もしそれを行なっているのであれば、乳母と子供達がいる場所に、翌朝神々が車をよこすことなども可能だったからです。「気」を使えば、その付近の車を運転している人の「気分」に関与することができるので、そういった運転手がどこに行くかを神々が操作できる可能性が出てきます。それを通して神々が彼らを助けることができます。

状況が困難な中で、「恐怖」といった闇の感情に堕ちてしまう人間、「祈り」という最も必要なことができる人間、何もできない人間の描写がこの場面の切り替わりの持っている意味です。それを通して、「祈り」の価値を理解してほしいがために、このような場面の切り替えを神々は使っています。

 

[タバコを使うシャーマンのおばあさんとエアコンを使うおばあさん]

「光」と「闇」の対比を使って、正しい事と間違っている事を描写している場面は他にもあります。それは「恐怖」に堕ちてしまっている妻をタバコを使って落ち着かせるシャーマンの老婆と、バスで夫のことを気にかけ「冷房を入れて!夫の具合が悪いの!」と運転手に頼んでいる老婆の対比です。この二つの場面も画面がいきなり変わるような形で描かれています。

タバコとは現代人が吸っているようなものではなくて、光のシャーマンの使うタバコです。光のシャーマンが使うタバコとはどのようなものかというと、何らかの光の精霊が宿っている植物によって作られているタバコのことを意味しています。そういったタバコを使うと、その光の精霊が関与でき、我々を助けてくれます。植物の光の精霊とは、神々や天使に近い存在だからです。そういったことについてはここに書いています。

植物について
http://junashikari.com/plant/植物について/

※余談ですが、闇のシャーマンが使うタバコやお香は闇の精霊が宿っている可能性が高いですから、絶対に使用しないで下さい。

本来、人間とは植物ともっと近い関係の中を生きていました。我々は植物を育て、植物は我々を助けてくれる。そういった人間と植物の間で行なわれる助け合いの中で生きてきましたし、本来人間はそのように生きるべきです。しかし、今の人間はそういった関係性を忘れています。そして、それぞれの植物はどのように我々を助けてくれるのかが異なります。ある植物はこの病を治し、別の植物は別の病を治すというような形です。漢方とはそういった知識を今でも実践しているものになります。

このシャーマンの女性はそういった人間の正しい生き方を今でも実践している人間の姿です。そして実際に問題を解決します。それに対して、エアコンを付けることによって夫を助けようとする老婆は間違っています。何故ならば、エアコンとは本質的に身体にいいものではないからです。熱中症になりそうな男性に対してはまず水を飲ませたり、外の風に当たらせるべきです。しかし、自然から離れてしまっている人間はそういった基本的な解決策を実践できず、間違ったことを行なってしまいます。また、このことがきっかけで、バスが先に行ってしまうということにも繋がってしまいます。

今の人間は本当に愚かなことをしてしまっていることの描写が、「祈り」の描写であったり、この老婆の対比であったりします。こういった表現を通して、神々は重要なことを人間に伝えようとしています。

 

[鶏の首を切ったのを見てはしゃぐ子供達と銃に撃たれてパニックになっている大人達]

上の話と関連して、人間が犯している過ちを伝えるための画面の切り替えは他にもあります。それは、鶏の首を切り、それでも走り回っている鳩の身体を追いかけることを楽しんでいる子供達の場面から、バスで撃たれて血だらけになっている妻を見てパニックになっている大人達の描写に飛ぶ場面です。

我々人間は動物です。だからこそ、本来は同族の動物を殺すことは間違っています。人間を殺すことと動物を殺すことは本来は同じ程度に重い行為であってもよかったはずです。鶏が血だらけの描写と人間が血だらけの描写を繋げて表現することで、そういったことを表現しています。

今の人間は動物をあまりにも簡単に殺します。そういった批判が、この場面の切り替えには込められています。子供の頃から動物を殺すことが当たり前であるからこそ、我々は動物を殺す事に対して違和感を感じません。そういった間違った教育の様子も描かれています。

我々は蟻といった小さな動物から輪廻転生を繰り返しながら、人間となり、人間としての生を何十回も過ごしています。そういう意味で、動物は我々の弟や妹に当たる魂であって、そういった魂達を簡単に殺す事は間違っています。


[「体罰」と「拷問」]

モロッコの父親が子供達に「体罰」を与える場面から、警官が一般人に「拷問」を加えている場面へと飛ぶシーンがあります。これも、人間が犯している過ちの説明です。

子供に「体罰」を与えることは、「拷問」と同じ意味を持っています。「拷問」とは相手に「恐怖」に抱かせ、そのことによって相手の魂を「支配」する行為です。そして、子供にとって「体罰」とは「拷問」と同じで、親に対する「恐怖」を抱き、その「恐怖」が故に自分の「意志」をねじ曲げるということを子供は行ないます。そして親は子供を「支配」することになります。

これは「教育」としては間違っています。何故ならば、親が子供を「支配」することが「教育」ではないからです。もし「体罰」によって子供が変わったとしても、その子は親に対する「恐怖」が故に変わったことになります。これは魂が変わる(成長する)プロセスとしては間違っています。「何かが怖いから、それはしない」というのは、その魂の「意志」なのではなくて、単純に「支配」されているが故に抱いている気持ちに過ぎないからです。

本当の「教育」とは、その子供自身の「意志」を尊重して、その子供の「意志」によって「間違ったことをすべきではない」と思うようにすることです。そのために、何故それをしてはならないのかということを親は言葉などで伝える必要があります。

魂にとって重要なのは「意志」です。そして、その「意志」を成長させるのが本来の「教育」です。「体罰」などを使ってその魂を「支配」することは、「教育」とは正反対の方向性にあります。しかし、人間は「教育」というものを理解していないが故に、親は子供を「支配」するような、間違った「教育」をしてしまっています。その最も悪しき例が「体罰」であって、それが如何に悪しき事なのかを伝えるために、この映画では「拷問」と重ねて「体罰」が表現されています。実際、子供にとって「体罰」は「拷問」と変わりません。そして、その時に経験した「恐怖」は永きに渡って「トラウマ」として刻まれます。「教育」について詳しくは以下を読んで頂ければ、と思います。

・「教育」と「支配」
http://junashikari.com/other/「教育」と「支配」/

・「教育」と「支配」2
http://junashikari.com/other/「教育」と「支配」2/

 

[酒の闇]

モロッコの銃撃戦の場面から、メキシコの結婚式の終わった後の様子に画面が切り替わるシーンがあります。銃撃戦は言うまでもなく「闇」の表現です。それに対して、結婚式の終わった後の様子も「闇」として描かれます。皆が泥酔しており、喧嘩が起こったり、男女が乱れてしまっています。これは何を意味しているかというと、「酒」というものの持つ「闇」の側面です。「銃」と「酒」が同じ「闇」であることを伝えるためにこのようなシーンがあります。

「酒」は「闇の気」で満ちている飲み物です。「酒」は人間を解放的な気分にするいい側面もあります。しかし、本質的には「闇の気」に満ちている飲み物なので、深酒や泥酔すると「闇」に堕ちていってしまいます。そういった「酒」の持つ「闇」の側面を表現しています.

 

[天国]

モロッコの兄が倒れている場面から、メキシコの結婚式の後の風船が映る場面に切り替わり、空が映るシーンがあります。これは何を表すかというと、天国があるというメッセージです。このシーンで映る風船は心臓のように見えます。これは兄の心臓を意味しています。そして、誰もいなくなった会場が映った後に、空が映ります。天国は雲の上にあります。ですから、兄は心臓が止まり、地上からいなくなり、天国に行ったという描写がこのシーンの意味です。

 

[猫]

場面が切り替わるシーンではないのですが、場面の切り替えと似たような形で説明されていることがあります。それは「猫」です。刑事を待つ時の千恵子と猫が重ねて描かれる場面があります。千恵子も猫も横になっているからです。これは何を意味するかというと、千恵子と猫が「闇」という部分で共通しているということです。その描写を通して「猫」とは本質的に「闇」の存在であることを説明しています。「猫」は人間から「闇の気」を吸うために生まれた動物です。本質的には「闇」の存在であっても、人間にとってありがたい存在が猫になります。猫についてはこちらに詳しく書いています。

・犬と猫について
http://junashikari.com/other/犬と猫について/

 

[まとめ]

場面を切り替えることによってメッセージを持たせているシーンは他にもあります。しかし、それらのメッセージはさほど大きなメッセージではないので、ここではこれだけにしておきます。しかし、この映画を観る時は、どうしてこの場面からこの場面に飛んだのであろうかということを読み解きながら観ることが大事です。それによって、監督や神々がそこに残しているメッセージを受け取ることができます。

 

☆最後に

この映画は膨大な重要なメッセージに満ちた映画です。この解説でもこの映画の持っている全てのメッセージを書いたわけではありません。神々としては、このような解説無しでそれぞれのメッセージを全て人間が受け取れるとは思っていませんでした。しかし、いつか解説のできる人間が現れることを期待して作った映画です。解説できる人間とは、「気」のことをよく理解している人間のことです。

全てのメッセージが鑑賞者に伝わらないにしても、これだけメッセージが膨大であると、その鑑賞者に必要なメッセージを伝えることもできます。我々が映画を観ている時、神々はかなり関与ができます。どういうところに関与するかというと、どういう点に気付かせるかということに関与ができます。同じ映画を観ていても、人によってその映画をどう観るかとはかなり異なります。そういった点に神々は関与しています。この映画は膨大なメッセージを持っているので、その鑑賞者に必要なメッセージを神々は我々に気付かせながら観せることができます。

1つの作品にこれだけ膨大なメッセージを込めた映画は他におそらくありません。そういった作品を創ることを通して、映画製作に神々が強く関わっているということを証明するために生まれた映画でもあります。ある映画が重要なメッセージを数えられるだけ持っていたとしても、それは偶然であって、神々が関与したわけではないと思われる可能性があります。しかし、これだけメッセージが膨大で、しかも監督さえも意識しなかったメッセージに溢れているのであれば、それは神々が関与したと言えると思います。それを偶然と考える方が不自然であるからです。そういった意味で、『バベル』は神々が映画に関与していることを証明するための作品でもあります。

この映画は何度も何度も観るべき映画です。何故ならば、観る時期が違うだけで、この映画の抱えている様々なメッセージに対してどれだけ心が動くかということが変わってくるからです。この映画の最も大きなテーマは「闇の中の光」ということは書きましたが、様々な光の感情と闇の感情を経験しない限り、この映画で描かれている様々な光の感情と闇の感情を理解することはできず、メッセージを受け取ることができず、心が動きません。

実は私はこの映画が日本で公開された2007年、映画館に観に行ったのですが、この映画が自分は嫌いでした。何故ならば、これらのメッセージにあまり気付けなかったからです。しかし、今改めて観直すと、これほどまでに素晴らしい映画はないと思える程に、この映画が好きです。それ程の差を作ることができる作品です。

ある映画を面白いと思うかどうかは、その映画の持つ様々なメッセージにどれだけ「共感」できるかに依ります。逆に言うと、「共感」ができない限り、メッセージを受け取ることもできません。この映画が公開された時、私は20歳でしたが、当時の自分には「共感」できないことが多く、だからこそこの映画が嫌いでした。何か苦しい経験ばかりを見せつけられたように思えたからです。当時の自分は「闇」が強く、「光」について理解が浅い状態でした。そんな状態だったからこそ、この映画が最後の最後に描く「光」に共感できず、それでいて「闇」のことは理解ができたために、ただ観ていて辛い映画でした。

しかし、今は光のシャーマンとして生きていますから、「光」のことはよく理解してきました。だからこそ、この映画の描く最後の「光」に強く「共感」し、この映画は何度観ても涙を流さずに観ることができません。本当に素晴らしい作品を神々は創ったと思いますし、それを実現したアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督は偉大だと思います。彼の作品は他の作品も観たことがありますが、大変素晴らしく、いずれそれぞれの作品の解説を書くつもりです。

『バベル』は人類の教科書とも言える映画です。是非、『バベル』は一生付き合っていく映画として、数年に一度観るような形にして頂ければ、と思います。

 

Amazonで、中古なら1円から、新品でも1000円程で買えますので、是非購入されることをオススメします。

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