文字通り「分かる」こととは「分ける」ことです。そして、「選ぶ」ことを可能にするのは「分ける」=「分かる」ことです。何故ならば、「分ける」ことで選択肢が生まれ、選択肢が無ければ、我々は「選ぶ」ことができないからです。

そして、「分ける」=「分かる」ことを促すのが「観点」です。この点にこそ「観点」=「物の見方」を学ぶことの価値があります。逆に言うと、「観点(物の見方)」を知らなければ「分ける」=「分かる」ことができず、「選ぶ」こともできず「選ばされる」ことになります。

例えば、人間の動機が「他者のため」と「自分のため」という風に「分かれている」ことを知っている人間は、自分自身が何か行動をする時に、「他者のため」と「自分のため」のどちらを「選ぶ」のかを決めやすくなります。逆に言うと、この「観点(分け方)」を知らない人間は、自分の中に起こる感情に従うだけの日々を過ごしやすいです。

人間は自分自身の「選択」によって、自分の人生を決めていくべきです。そして、人生の中でも最も重要な「選択」は自分自身がどのような人格の人間になりたいかということです。

日々抱いている感情は自分の中に定着し、それが自分自身の人格となっていきますから、どんな感情があるのかを事前に「分かる」=「分ける」ことは大事です。そういうことの結果として、自分自身の中に起こるどの感情に同調するのかを「選ぶ」ことが実現しやすく、その結果として、自分自身が実現したい人格の自分を実現できます。

逆に言うと、言葉を使って「分ける」=「分かる」ことをしなければ、自分がどの感情を抱いているのかも曖昧なまま生きることになります。そういった状況を生きていると、自分が抱いている感情が何なのかも分からないので、「選ぶ」ことも「選ばない」こともできません。

自分の人格形成の点だけに限らず、他人の心をどれだけ「分かる」ことができるのかもあまりにも大事です。我々人間は他人との関係性の中を生きていますが、他人の心を誤解することは関係性悪化に繋がりやすいからです。

他人との関係性において、我々は相手が何故それを行なったのかを無意識にも推測しています。例えば、相手が自分に「愛」が故に嘘を付いた時に、嘘自体が全て「悪」だと思う人は、その相手が「悪意」で自分に「嘘」を付いたと誤解しやすいです。

全ての「嘘」が「悪」というわけではなく、「善意」の「嘘」もあれば「悪意」の「嘘」もあります。しかし、「嘘」というものがこのように「分かれている」ことを知らない人は相手を誤解しやすく、そういうことで人間関係は悪化し得ます。

つまり、このケースは「嘘」という存在について「分ける」ことができていない(「観点」がない)が故に、相手の心の「真実」を「選ぶ」ことができていないケースです。

心のことに限らず、物事の意味がどのように「分かれているか」という「観点」を得ることで、我々はより良い形で「選ぶ」ことができるようになり、そういうことを通して、自分自身がどのように生きるのかも「選ぶ」ことがしやすくなりますし、「真実」を見抜くこともしやすくなります。

こういった文章を通して「観点」を学ぶことの重要性を理解して頂けると幸いですし、「分ける(分かる)」ことと「選ぶ」ことの関係性についても理解を深めて頂けると幸いです。