ここでは、芥川龍之介『侏儒の言葉』の『星』を解説します。短いので、一度普通に読んで頂けると幸いです。


【本文】



 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群といえども、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生をはらんでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火りんかに過ぎない。いわんや我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中にわれに向ひて光る星あり

 しかし星も我我のように流転をけみすると云うことは――かく退屈でないことはあるまい。

 

【解説】

まだ、『侏儒の言葉』の概要解説を読まれていない方はこちらから読んで頂ければ、と思います。芥川龍之介が悪魔と共に文章を書いていることなどについて説明しています。

http://junashikari.com/芥川龍之介について/芥川龍之介『侏儒の言葉』について/

『星』は『侏儒の言葉 序文』のすぐ後に置かれている、『侏儒の言葉』最初の文章になります。

星には神々が宿っています。ですから、星とは星の神々のことを意味します。そして、この本は悪魔が芥川龍之介に書かせているものなので、この『星』は悪魔が神々のことを挑発するために芥川龍之介に書かせたものになります。そのことを踏まえて『星』を読むと意味がよく分かります。

「太陽の下に新しきことなし」とは『旧約聖書』の一節であって、「この世界において、本当に新しいものはなく、新しく見えるものであっても先人達が既に創ってきたものに手を加えたものに過ぎない」という意味を持った言葉です。これを文字通り解釈するのであれば、「太陽神様にとって新しいものはない」ということになりますが、これは真実です。太陽神様ははるかに長い間生きている魂であって、全知全能なので、既に様々なものは知っています。ですから、地球において太陽神様が知らないようなものが生まれることはあり得ません。

それを否定するような形で、芥川龍之介は「しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない」と付け加えます。これは、太陽神様を低く見せる為の構造です。太陽神様とは太陽系における最も大きな神様であって、太陽系の神々の長です。しかし、そういった太陽神様もこの宇宙の中で見れば、ただ一つの星に過ぎないということを言うための説明が続けられます。

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天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群といえども、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生をはらんでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火りんかに過ぎない。いわんや我我の地球をやである。

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このような「生」と「死」の論理から、星の神々であっても地上(泥団)の上の存在であっても大して変わらないという論理を通して、星の神々を低く見せていきます。

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しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中にわれに向ひて光る星あり

 しかし星も我我のように流転をけみすると云うことは――かく退屈でないことはあるまい。

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「真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」という短歌は正岡子規の短歌であって、「数限りなくある星の中に私に向かって光っている星がある」という意味を持っています。この短歌は神々が創ったものであって、正岡子規がある星の神様との「縁」を持ち、その神様からの「光の気」に支えられながら生きていたことを意味している短歌です。

この短歌を「いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた」という言葉と共に引用しているのは、芥川龍之介は悪魔によって真実を書いています。星には神々の魂が宿っていて、我々人間と同じように生き、我々人間を「気」で支えていることを正岡子規の短歌を引用しながら説明しているからです。

ただ、このような形で真実を書いても、読者のほとんどはこの文の意味を理解し切れません。何故ならば、星に神々が宿っていることや、ある人間が星の神々と「縁」を持ち、その「縁」によって支えられていることを日本人は知らないからです。悪魔としては、真実を表現していながら、その意味を理解できない日本人の様子を神々に見せることで、神々を挑発しています。こういった構造で悪魔が神々を挑発することはよくあります。

例えば、中島美嘉の『KATE』のCMでは「NO MORE RULES」というキャッチコピーと共に「気」という「ルール」の解説をしています。しかし、日本人のほとんどはそのCMが「気」という「ルール」説明になっていることに気付けません。当然神々はそのことを人間に気付かせたいと努力してみるのですが、全く日本人に伝わりません。そういったことを通して、悪魔は神々を馬鹿にします。
 


というか、この挑発の方法から、芥川龍之介を「支配」していた悪魔と、中島美嘉を強く襲っている悪魔が同じ悪魔であることがよく分かります。悪魔も様々で、実際は相当な数の悪魔がいます。そして、その性格はかなり異なります。ただ、この『星』の挑発の構造と『KATE』のCMの挑発の意味はほとんど同じなので、このことから同じ悪魔である可能性が高いとは言えます。また、その他様々なことを分析すると、確実にこの悪魔は中島美嘉を襲っている悪魔と同一であることを明らかにできます。そして、この悪魔は地球を最も強く荒らしている悪魔になります。

この『星』は最後に「しかし星も我々のように流転を閲すると伝うことはーー兎に角退屈でないことはあるまい」という言葉がありますが、これは非常に分かりやすく悪魔からの神々に対する挑発です。

星の神々は死に物狂いでいつも全力を尽くしています。何故ならば、この悪魔が地球を荒らしに荒らしているからです。そのようなことはこの悪魔は当然知っています。それを踏まえた上で、「星の神々は退屈だろう」≒「星の神々は暇だろう」ということを書いています。これは神々に対する皮肉の意味を持っています。

また、もう一つの意味として、人間に「星の神々も退屈だろう」ということを伝えることで、誤った情報=「嘘」を人間に教えています。この文章を読んで、星のことを星の神々に置き換えて読む人は少ないと思いますが、それでもなんとなく星も退屈だろうというイメージを与えることができます。この構造は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』で神々が暇そうに描かれていることと同じ意味を持っています。

この悪魔としては、自分が神々を忙しくしているのにも関わらず、人間に「神々は暇」という「嘘」を付くことをとても面白がっています。逆に言うと、こういったことを楽しむ悪魔であることも、これらの「嘘」からよく分かります。

芥川龍之介を読んでいると、このような形で地球を最も荒らしている悪魔の性格が見えてきます。そして、その性格が分かってくると、どのような形でこの悪魔が地球を荒らしているのかがよく見えてくるようになってきます。

この悪魔が地球をかなり荒らしているということの意味は、この悪魔が人間の心をかなりコントロールしているということです。そして、そのコントロールの仕方はこの悪魔の趣味がかなり表れます。すると、この悪魔の趣味通りに「闇」を実践している人間は、この悪魔によって動かされている人間なのだろうということが見えてきます。悪魔の性格を分析するということは、このような形で、人間がどの悪魔に動かされているのかを明らかにすることに繋がります。

そして、それぞれの悪魔は異なるモチベーションで生きています。ある悪魔はただ人間を苦しめることを趣味としていますし、神々に勝つことを趣味としている悪魔もいます。この悪魔の目的は神々に勝つことを楽しむ「負けず嫌い」を抱えた悪魔であるということです。だからこそ、このような挑発が面白く感じられています。

その悪魔が神々に勝っているにも関わらず、神々が勝っているように見える「神々は暇」という嘘を言うことは完璧な皮肉です。そして「負けず嫌い」な魂は自分が勝っていることを感じることを「快楽」としながら生きています。だからこそ、自分が勝っているという事実を感じる為に、このような皮肉を使って相手(神々)を少しでも苛立たせることを楽しみます。「負けず嫌い」な魂にとって、負けた相手を見ることは愉快だからです。

また、星には人間のように人格があるという真実をこのように書くと、この文章を読む時は神々と悪魔の勝負となります。我々人間が文章を読む時、その文章をどのように理解させるかということについて神々と悪魔はいつも「気」で関与しています。例えば、ある文章を読んでいて、そこに書かれていることの具体例を考えるのであれば、どういった具体例を考えるかということを神々も悪魔も「気付き」によって与えられます(「情報」が乗った「気」が人間に「付く」こと=「気付き」)。そのようにして、我々は文章を読む時にかなり目に見えない存在の影響を受けています(神々が創った映画の『ベルリン・天使の詩』の図書館のシーンなどはそういった意味があります)。

そして、真実が書かれている文章を人間が読むなら神々は必死に分からせようと努力し、悪魔はその文章を理解させないように関与します。芥川龍之介にこの真実を書かせた悪魔は、神々とこのようなゲームをするために芥川龍之介に真実を書かせています。そして、悪魔がその圧勝しているからこそ、このような文章があっても、星には神々が宿っていることをほとんど知りません。

また、このようなことを芥川龍之介に書かせるということは、こういった意味を理解でき、解説できるシャーマンが現れることはないと、この悪魔が思っていたことを意味します。何故ならば、こういったことを書き、このような解説を書くことができるシャーマンが現れると、星に神々が宿っていることやその悪魔の性格や様々なことが人間にバレてしまうからです。では、どうしてこの悪魔はそれでもこういったことを芥川龍之介に書かせたかというと、こういったことを説明できる「光」のシャーマンが出てこないようにシャーマン狩りができるという自信があったからです。このことからもこの悪魔が「負けず嫌い」であることはよく分かります。ちなみに、悪魔は「光」のシャーマン候補の人間を「闇の気」で満たし、統合失調症(狐憑き)にしています。これがシャーマン狩りの意味です。

もし、こういったことを芥川龍之介のような作家に書かせないのであれば、いつか「光」のシャーマンが現れることをこの悪魔が恐れていることを神々に示してしまうことになります。しかし、それは神々に気持ちで負けていることを見せているようなものです。それは「負けず嫌い」な魂にとっては非常に悔しいものだからこそ、こういった文章を人間に書かせています。

このように、芥川龍之介の文章を分析するだけで、人間が理解すべき様々な重要な真実を明らかにできます。この『星』は悪魔の神々に対する挑発の意味を持った文章であって、「真実」を使い神々を低く見せ、「真実」を使い神々を挑発し、神々を低く見せるための「嘘」も混ぜられています。悪魔は自分にとって都合が良ければ「真実」も利用しますが、そういったこともこの文章から学ぶことができます。

そして、この『星』が『侏儒の言葉』の最初の文章であることも非常に重要な意味を持っています。神々を挑発している『星』が最初にあるということは、この本全体が神々に対する悪魔の挑戦状のような意味を持っているからです。

先程説明したように、文章をどのように解釈するかということに関して、神々と悪魔はかなり人間に関与します。だからこそ、それぞれの人間の文章の読み方は本当に皆異なります。そして、この本は悪魔が創った「嘘」=「呪い」の本です。神々としては、この本を通して人間が悪魔の「嘘」に騙され「呪い」を抱えてしまわないように、全力で関与する必要があります。それに対して、悪魔はこの本を人間に読ませている時に「嘘」に騙すように関与します。

そういう意味で、この本を人間が読むということは神々と悪魔にとって大きな勝負です。だからこそ、この悪魔は最初に神々に対する挑発の意味を込めて『星』を芥川龍之介に書かせています。当然、芥川龍之介はこのような構造は理解しておらず、ただ悪魔からもたらされていた「アイデア」を忠実に文章化していただけです。

我々人間にはこのような構造は見えにくいですが、神々と悪魔はいつもこのように闘いを行なっています。我々人間にとって大事なことは、このような構造を理解することです。何故ならば、このような構造が見えると、文章を読むということの本当の意味も分かりますし、だからこそ悪魔の書いた本は読まなくなるからです。

以上が『星』の解説になります。『侏儒の言葉』については、他の文章もできるだけ取り上げますので、読んで頂けると幸いです。