「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める。」

アシタカは物事の本質を「見定める」ためにどのような精神性が必要なのかを知っています。また、物事の本質を「見定める」ことが、最善の行動を「決める」上でとても大事であることを知っています。

このセリフはそういったことをよく象徴する言葉で、我々に大事なことを教えてくれます。そして、この言葉の意味をより深く学び、人生に取り入れることができたなら、我々もアシタカのように物事の本質を「見定め」、最善の行動を「決める」ことがしやすくなります。

「曇った眼」は物事の本質を見えなくします。そして、「曇った眼」とは何らかの「先入観」を持った「眼」のことであり、「弱さ」や「愚かさ」などによって「先入観」は生まれます。

何故ならば、「弱さ」は「自分を守る」ことを目指させるが故に我々を「感情的」にし、何らかの答えを元々求めさせ、そういう心が「先入観」を生み「曇った眼」を作り出すからです。そして、「愚かさ」があれば、常識などに囚われやすくなりますし、答えでないものを答えだとみなし得てしまうからです。

それに対して、「曇りなき眼」とは一切の「先入観」を持たない「眼」のことであり、「強さ」や「賢さ」などによって「先入観」が生まれることは阻止できます。

何故ならば、「強さ」は「自分を守る」ことを目指させないが故に我々を「冷静」にし、如何なる答えでも受け入れることを可能にし、そういう心が「先入観」を生まず「曇りなき眼」を作り出すからです。そして、「賢さ」があれば、常識などに囚われにくくなりますし、答えでないものを答えだとみなすことを止められるからです。

「愛」や「善意」があれば、必ず物事の「真実」を見抜けるわけではありません。何故ならば、「愛」によって「相手を守る」ことを目指すが故に相手を否定することができないといったこともあるからです。特に、「優しさ」を実践する人はよくこの罠に堕ちます。このように、「愛」が故に「感情的」になってしまう場合も「曇りなき眼」は実現できません。

様々な「愛」の実践の心の中で、最も「冷静」なのが「問題解決の心(水の気持ち)」です。だからこそ、物事の本質を見定める上で、最も優れているのは「問題解決の心(水の気持ち)」です。

そして、アシタカは素晴らしい形で「問題解決の心(水の気持ち)」を使いこなしているが故に、彼は基本的に「冷静」であって、根本的な「問題」を明らかにしています。

逆に言うと、タタラ場の人間達も森のサンやモロや猪達も、極めて「感情的」であるが故に、タタラ場と森の対立が根本的な「問題」であるという意識はなく、敵は悪だという意識をお互いに持っています。

「闘い」によって相手の大事な仲間を殺し合っているからこそ「憎しみ」は強まり、その「憎しみ」が相手を否定的に見る「感情的」な態度を生み、本質を「見定める」ことが困難な状況を生み出しているとも言えます。このような意味で、「憎しみ」が「曇った眼」を生み出すということは大事な真実です。

「問題解決」を行なうためには、根本的な「問題」とは何なのかを見定める必要があります。そういった姿勢が、「全体」を見ようとする「冷静」な視野を生み出します。それに対して、「闘い」を行なおうとする人間は、自分の仲間を守ることに意識を向けます。そういった姿勢が、「部分」を見ようとする「感情的」な視野を生み出します。

「部分」だけを見るということは「視野が狭い」ということであり、「全体」を見ることは「視野が広い」ということです。そして、「広い視野」を使ってこそ全体像は見えてくるからこそ、「問題解決」を目指す「冷静」な「水の気持ち」こそ、物事の本質を「見定める」上で優れた精神性です。

ここまでを全て整理すると、「曇りなき眼」を生み出すのは「強さ」や「賢さ」といった性質を獲得した心の「成熟」であり、「水の気持ち」といった「冷静」な精神を使いこなせるだけの心の「成熟」です。

映画の中で説明されているわけではありませんが、アシタカはどのような要素によって「曇りなき眼」は実現するということをよく知っていたはずです。

というのも、アシタカの出身の村は、このような構造を教えられる程の「成熟」があったと考えられるからです。例えば、アシタカを旅へ導いた、ひい様というシャーマンはアシタカに向けて「曇りのない眼で物事を見定める」ことの重要性を最後に伝えて、アシタカを見送ります。

このことが象徴するように、この村は「曇りなき眼」の価値や意味を知っており、その価値や意味をアシタカはその村から学んだはずです。そして、ひい様が圧倒的に「成熟」した人物であることは映画から感じることができます。

こういったことが見えてくると、人間が本当の意味で「成熟」を実現し、「成熟」した大人達の中で子供が学び成長するなら、アシタカのように世の中の様々な「問題」を「解決」できる人間が誕生しやすくなるということを想像しやすくなります。

残念ながら、この村とは異なり、現代日本は「曇りなき眼」とは何であり、「曇りなき眼」が何を可能にするのかを教え合えるほどの「成熟」した国ではありません。しかし、宮崎駿という一人の「成熟」した人間の力によって、『もののけ姫』は我々に「曇りなき眼」の本質と価値を教えてくれます。

このような有難い恩恵を我々はもっと適切に受け取っていくべきですし、こういった映画を、ただの「エンターテイメント」として一時的に「消費」するのではなく、優れた「教科書」として一生向き合って「学ぶ」ことを行なう時、我々は多くの恩恵を受け取ることができるようになります。