『トレーニング デイ』は「闇」の本質を描いた作品であり、「闇」に対してどのように「光」が立ち向かっていくべきかを描いた傑作映画です。

「トレーニング デイ」は「訓練日」を意味する言葉ですが、このタイトル通り、この映画はたった1日の様子が描かれます。だからこそ、非常に強い臨場感があり、リアリティもあります。

このような意味では『コラテラル』と非常に似た構造を持っている映画です。というのも、『コラテラル』も一晩の内の出来事が描かれるからです。

どちらの作品も傑作であり、比較をすることで見えてくる要素もあります。以下、『トレーニング デイ』の概要を書きます。
 

 

【レベルの高い「闇」とは何か】

この映画で悪役を演じるデンゼル・ワシントンの演技は、非常に能力の高い「闇」の人間の本質を表現しています。様々な映画の中で様々な個性を持った悪役は描かれてきましたが、この映画のデンゼル・ワシントンの演技は非常に重要です。

というのも、「闇」が他者を「利用」する上で、どのような方法を実践するのかという本質を様々な角度から描いていますし、その「悪役」の動機などの部分も非常に的確に描いているからです。つまり、レベルの高い「悪」の本質をこの映画は我々に強く教えてくれます。

「悪」の本質を知るということは非常に大事なことです。というのも、そういうことを理解することが「悪」に「利用」されることを防ぐことに繋がりますし、自分自身が気付かぬ内に「悪」を実践することを防ぐこともできるからです。

アロンゾ(デンゼル・ワシントン)は、自分が「勝つ」ために、他者を「利用」することに大変慣れており、だからこそ、どのように振る舞えば相手を「利用」できるのかを熟知しています。以下、その方法を整理して書いていきます。
 

・「マウンティング」

映画冒頭、アロンゾとジェイクが初めて会った時、アロンゾは見事な「マウンティング」を実践することで、自分を圧倒的に優位な立場に置かせることに成功しています。

この時の「マウンティング」で構築された関係性によって、その後アロンゾはジェイクに自分の指示に従わせやすくしています。こういった意味を踏まえて、二人の出会いを理解することは大変重要な点です。
 

・「餌」をぶら下げる

ジェイクは刑事になることを望んでおり、その望みの部分をアロンゾは徹底的に「利用」します。アロンゾに認められるかどうかが刑事になれるかどうかに大きく影響を及ぼすからこそ、ジェイクはアロンゾの指示に「従う」ことをしやすい構造があるとも言えます。

何らかの「餌」をぶら下げることを通して、「自分のため」に相手を「従わせる」ことは「利用」です。ジェイクがアロンゾに「従う」ことをし続ける様子は、こういった「利用」の構造を意味しますし、アロンゾは巧みに「餌」を使いながらジェイクを「利用」し続けます。

例えば、ドラッグを吸うことをジェイクが拒否した時、「吸わないんだったら、交通課に戻れ」といったことを伝えますが、相手が欲しがってる「餌」が手に入らないことをちらつかせることで、アロンゾは相手を自分の意図通りに動かします。

「刑事にする」という「餌」に加えて、アロンゾは様々な「餌」をチラつかせてホイトを動かします。このような形で「闇」が「餌」を使うことは非常に重要な真実です。
 

・「脅迫」を行なう

「餌」をぶら下げることとも繋がっていますが、ジェイクがアロンゾの指示に「従う」ことをしない時、アロンゾはジェイクに「脅迫」を行ないます。例えば、「従わないのだったら殺す」という形で、アロンゾはジェイクに銃を突きつけます。

相手に生命の危機を与えて、そのことにより「従わせる」のは典型的な「脅迫」ですが、アロンゾは様々な「脅迫」を使って相手を自分の意図通りに動かします。
 

・「弱み」につけこむ

「脅迫」を行なうこととも繋がっていますが、アロンゾは相手を「利用」するために、相手の「弱み」につけこみます。

その典型例が警察としての特権を使って、犯罪者達を「利用」することであって、「刑務所に行きたくなかったら、こうしろ」という形で相手を「利用」します。

様々な刑事系の映画などでもこういった描写はよく描かれますが、アロンゾは「自分のため」にこのようなことを繰り返し、犯罪者達を「利用」することで、自分の優位を保っています。
 

・「嘘」を使う

アロンゾはジェイクを自分の狙い通りに動かすために、「嘘」も巧みに使います。例えば、ジェイクにドラッグを吸わせる時、「ただのマリファナだ」と「嘘」を付き、マリファナよりも危険度の高いドラッグを摂取させます。

他にも、膨大な「嘘」を使って、アロンゾはジェイクが自分にとって都合のいいように動き、都合の悪いように動かないことを促します。
 

・「正当化」をする

「嘘」を使うこととも繋がっていますが、アロンゾは自分の行動を巧みに「正当化」します。その「正当化」のために「嘘」と「真実」を混ぜながら、その「正当化」を相手に信じ込ませます。

ジェイクがアロンゾに対する不信感を抱いてしまえば、アロンゾはジェイクを「利用」しづらくなってしまいます。だからこそ、アロンゾはジェイクから不信感を抱かれないようにするために、「正当化」の主張を信じ込ませようとし続けます。

こういったことは「賢さ」がなければ咄嗟にできないことです。ですから、「嘘」も混ぜながら巧みに「正当化」を行なうことなどから、アロンゾの「悪賢さ」はよく見えてきます。
 

・高い「演技力」

「正当化」の点とも繋がっていますが、アロンゾは非常に高い「演技力」を持っています。

例えば、「自分のため」に相手との関係性を保つために、偽りの「友情」を示すこともアロンゾは巧みに行ないます。ロジャーの家に二度行くことが描かれますが、一回目と二回目の訪問の態度の違いは、そういったことをよく示す描写です。

また、「嘘」を使って自分の行動を「正当化」をする場面においては、自分が「正義」であるように振る舞う「演技」を巧みに行ないます。

映画『ジャッカル』では、この点について極めて多くを描写していますが、レベルの高い「闇」を実践する人間が、非常に高い「演技力」を持つことは一つの重要な真実です。
 

・「笑い」を使う

アロンゾは自分にとって都合のいいように相手の気分を変えるために「笑い(ジョーク)」も巧みに使いこなします。だからこそ、相手が自分に対して不信感などを抱きつつある時に、そういう相手の状態を「笑い」を使って変えます。
 

・「褒める」ことを使う

ほとんどの人は「褒められる」ことで気分が良くなるものです。ですから、アロンゾは相手の気分を変えたり、相手の気分を良くするために「褒める」ことも巧みに行ないます。
 

・「罠」に落とす

アロンゾは巧みにジェイクを「罠」に落とし、自分にとって都合のいいように物事を進めることを行ないます。映画の最後の方になると分かってきますが、事前に立てた計画に沿って、アロンゾはジェイクを「罠」に落としています。

例えば、アロンゾが何故ジェイクにドラッグを摂取させたかというと、それはジェイクがアロンゾに「従う」ことをせざるを得ない状況を作り出すための「罠」だったわけですが、そういう形で計画的に「罠」に落としていることを悟られないように、アロンゾはその場その場の気分で振る舞っているように振る舞います。
 

・計算高さ

「罠」に落とすこととも繋がっていますが、アロンゾは極めて「計算高い」です。映画後半になると分かりますが、一週間前から非常に計画を練った上で、しかし、そういう計画を悟られないようにジェイクを「罠」に落とします。
 

・平気で「奪う」

アロンゾは「自分のため」に他人のものを「奪う」ことを平気で行ないます。この映画の中では二回他人の金を「奪う」様子が描かれますが、その強引さから、彼の「自己中心性」がよく感じられます。
 

・力のある人間との関係を作る

この映画の中では、警察側の力のある人間とも、犯罪者側の力のある人間とも、アロンゾが「利害関係」を作っていることが垣間見えます。警察と犯罪者という、対立する両方と関係性を築いているからこそ、彼は自分の動きたいように動ける状況を作り出しています。

自分にとって都合良く物事を進めるために、力のある人物との関係性を築くことも、強い「闇」の人間はよくやることですから、そういった真実をよく捉えています。
 

・「悪」の仲間を持つ

必要とあれば、仲間の汚職警官達とも手を組み、自分の欲しいものをアロンゾは手に入れようとします。言い換えると、必要に応じて汚職警官達を「利用」しています。

彼が力のある人物達だけではなく、自分の部下とも「利害関係」を構築し、必要とあらばその部下を「利用」するという構造があります。
 

・間違った「思想」を持つ

間違った「思想」は人生を大きく変える程の悪影響を与え得ます。アロンゾは「狼に勝つためには狼になるしかない」という思想をジェイクに何度も主張しますが、この思想は間違っています。というのも、「狼」以外の例えば「虎」などでも「狼」には勝てるからです。

かつては、アロンゾが「善意」を抱えた警官であったということが少し垣間見れるように映画はできていますが、もしかすると、「狼に勝つためには狼になるしかない」という思想が彼の人生を大きく誤らせてしまったのかもしれません。
 

・自分の狙いが実現される時の「ニヤニヤ」

「欲」を動機に動く人間が、自身の「欲」を実現する時、「快楽」が生まれます。デンゼル・ワシントンの演技は、そういった「快楽」を「ニヤニヤ」とした感じで見事に表現しています。

逆に、映画の最後では、自分の思い通りに物事が進まなくなったことで「怒り」を抱き、極めて「ヒステリック」にもなりますが、そういった演技も「闇」の本質を描いています。
 

[まとめ]

このように、デンゼル・ワシントンのこの映画での演技は、強い「闇」が持つ様々な特徴を非常に見事に教えてくれます。この映画程に、「闇」の持つ様々な方向性を伝える映画は非常に少ないはずです。

だからこそ、この映画は「闇」の本質を理解する上で非常に素晴らしい教科書のような意味がありますし、このようなことを理解することで、「闇」に「利用」されることも、自らが意図せず「闇」を行使してしまうことも防ぎやすくなります。
 

【この映画の「光」】

ジェイクは多くの場面において、アロンゾの「嘘」に騙され、「利用」され続けてきましたが、ギリギリのところでアロンゾに勝つことができます。その意味を理解することは大変重要です。

ジェイクの「光」は彼の「正義感」であって、そういった「正義感」によって本人も意図せず、非常に重要なことを行ないます。それが映画の途中で出てくる女子高生を救う行為です。

「善意」に基づいて何かしらの行動を起こすことが、結果的に本人が思っている以上に重要な意味を持つ行動になることはあります。

アロンゾが全てを計画通りに進めようとしているのに対して、ジェイクは無計画に良い流れを生み出しました。その背景に、彼の「正義感」があったということは大変重要なことです。
 

【最後に】

この映画は2001年という1000年の節目に生まれた映画ですが、非常に傑作です。これからの1000年、ジェイクとアロンゾの対立のように、大きな「闇」を実践する人間と対決せざるを得なくなる人は少なくないと思います。

そういった時に、どのようにあるべきなのかを、この映画は主に「闇」の本質を教えることを通して、我々に伝えてくれます。これは『コラテラル』が持つ意味ともかなり通じます。

トム・クルーズが演じた『コラテラル』の悪役ヴィンセントとアロンゾの個性はある意味真逆です。というのも、ヴィンセントは「氷」の「悪」であるのに対して、アロンゾは「火」の「悪」だからです。

アロンゾが動機としている、メラメラとした「欲」は「闇の火」の意味があるのに対して、ヴィンセントが動機としている、冷徹な「欲」は「闇の氷」です。だからこそ、アロンゾは「ニヤニヤ」しているのに対して、ヴィンセントは「冷徹」です。

二つの映画は似た構造を持つ作品ですが、このような意味で対立軸を持っていることも大変重要になります。この二つの作品は、もはや忘れ去られつつありますが、できるだけ多くの人が、この二つの作品から大事な教訓を学ぶことを願っていますし、この解説ページがその一助となると幸いです。