今後の音楽についての方向性をこのページで書きます。

シャーマンを辞めるわけではありませんが、シタール奏者にもなることを最近心に決めました。様々な「気持ち」を説明することを目指しているシャーマンとして、シタールを通しても「気持ち」について説明することを目指す形です。つまり、シタールが「目的」となるわけではなく、シャーマンとして生きていく上で、シタールも「手段」に加える形です。

シタールを約4ヶ月学んできましたが、シタールでなければ表現できない、様々な素晴らしい「気持ち」があることをよく実感してきました。逆に言うと、様々な素晴らしい「気持ち」を表現することを可能にできる程に、シタールという楽器は優れた楽器であることを知ってきました。

私は人間の心について説明することを目指して生きています。そのための手段として、言葉も音楽も映像も使うのですが、今まで音楽の分野で使っていた楽器はコントラバスのみでした。そこに今後はシタールも加えるつもりです。また、自分のコントラバスとシタールの音を録音し、コンピューター上で音を混ぜるようなこともやっていくと思います。

私のコントラバス奏法は普通のコントラバスの奏法とはかなり異なります。普通のコントラバス奏法は基本的にノーマルチューニングだけを使うのに対して、自分は様々なチューニングを使い分けているからです(チューニングとは開放弦の音のことを意味します)。チューニングが違うと、楽器の響きがまるで違ってくるので、様々な空気感、つまり様々な「気持ち」を表現できます。

こういう音楽表現の方向性は様々な「気持ち」を説明しようとしている自分の生き方とすごく合っています。けれども、自分は意図的にこういう一致を元々狙ったわけではなく、結果的に方向性が一致していた形です。自分の「意志」を超えた、こういった奇跡的な一致からも、自分が様々な「気持ち」を説明するために生まれてきたことを思います。

この1ヶ月間、自分がコントラバスでやってきたような特殊なチューニングをシタールに応用することを試していました。この試行錯誤はとてもうまくいき、コントラバス奏法と同様に、誰も使っていないシタール奏法を生み出してきました。そして、その音色に「価値」を感じてきました。

特に「価値」を感じているのは、シタールで生み出すことができる日本人らしい「気持ち」です。現代の日本人は忘れがちですが、かつての日本人は「善」を目指す精神が故の自分に対する「厳しさ」を持っていました。例えば、武士道の精神性などはそういうものの一つだと思います。

こういった日本人らしい「厳しさ」は、自分を向上させていく上でも、世を良くしていく上でも、とても有効な「気持ち」です。だからこそ、そういう「気持ち」を音楽を通して伝えることはとても「価値」のあることです。何故ならば、人々がそういう「気持ち」を音楽を通して学ぶことができれば、その「気持ち」を人々は日常で使えるようになるからです。こういう風にして、音楽は世を変える力があります。

そういった「価値」のある「気持ち」をシタールで表現することが可能なことを、この1ヶ月間に確信してきました。この点が、自分がシタール奏者にもなるべきだという判断に繋がっています。この「気持ち」は自分でなければ表現できないと思っているからです。

これはどんな判断の時も使っている考え方ですが、「世のため」の何かを他の人がやってくれるのであれば、自分がやる必要はないのに対して、それを自分しかできないのであれば、自分がやるべきだと思っています。こういう判断方法が自分の生き方をいつも決定付けていますし、シタール奏者にもならなければならないという判断についても同様です。

この1ヶ月間、海と向き合いながらシタールを練習していました。この写真は自分がいつも向き合っていた海を、上空からドローンカメラで撮影したもので、この文章の一番初めの写真で写っている景色を上空から撮影したものです。

この文章で説明している素晴らしい「気持ち」とは、海が人間の心にもたらす「気持ち」のことです。海の存在はとても大きく、時に「穏やか」な「美しさ」を持ち、時には「厳しさ」によって「荒々しい」です。そして、日本人らしい海の「厳しさ」の感じ方はあり、その感覚を表現できるように試行錯誤や練習をしていました。

もちろん、まだシタールを初めて4ヶ月なので、技術的にはかなり不足しています。けれども、目指すべき方向性はかなり見えるようになってきました。目指すべき方向性が見えてくれば、必要な技術も具体的に見えてくるので、これはとてもいい進歩だと思っています。

以前の文章で書きましたが、インド音楽は研究しなければならないと思っています。そのために、インド音楽を弾いてみることはとても大事なことだと思います。何故ならば、やってみることによって分かることはとても多いからです。けれども、自分がインド音楽家になる必要はないと思っています。何故ならば、既にたくさんのインド音楽家はいて、自分がやらなくても他の人がやってくれるからです。

つまり、自分はシタールというインド楽器は演奏すべきだと思っていますが、必ずしも自分がシタールでインド音楽を演奏する必要はないと思っていますし、むしろ、インド音楽以外の大事な新しい表現を生み出すことを目指すべきだと思っています。

そもそも、自分のコントラバスの方向性もこういったものでした。コントラバスという楽器は基本的にジャズやクラシックやポップスといった音楽の中で使われるベース楽器なのですが、自分はジャズもクラシックもポップスも、非常に中途半端にしか演奏できませんし、それでいいと思ってきました。何故ならば、ジャズはジャズ奏者が、クラシックはクラシック奏者が、ポップスはポップス奏者が演奏しているからです。誰かがやってくれているのだから、やる必要はないと思ってきました。それに対して、長い間コントラバスを通して生み出そうとしていた、自分にしか表現できない方向性は他の人にはできないことなので、そういう方向性を目指す必要はあると思っていました。

もちろん、ジャズやクラシックといった分野をコントラバスで弾けるようにした方が、表現の幅が広がるので、自分にしか生み出せない音楽の可能性を広げます。しかし、ジャズもクラシックも相当に深い分野なので、演奏しようと思うと、果てしなく探求できてしまいます。シャーマンとして、様々なことを同時並行して進めないといけない現状になったからこそ、そういう方向性を取ることは諦めています。

自分としては、コントラバスにせよ、シタールにせよ、一つの「道」を用意できればいいと思っています。つまり、流派を作ることができればいいと思っています。そういう「道」を作ることができれば、他の人が真似てくれますし、自分と異なり音楽家のみとして生きている人は、音楽に割くことができる時間が自分よりも圧倒的に多いです。そういった人達が、自分が時間的な問題が故に習得できない技術などを使ってくれればいいと思っています。

音楽の分野において自分が用意する「道」とは、チューニングに関する「道」です。様々なチューニングは異なる「気持ち」を表現し、それぞれの「気持ち」には方向性があります。そういった方向性を「気持ち」のことを研究し続けているシャーマンの観点から説明することこそ、他の演奏家が自分の作り出したチューニングを正しく使っていくことを促すと思っています。

例えば、先程説明した海のもたらす「厳しさ」の音色とは「水の気持ち(問題解決の心)」です。そういったものを表現しやすいチューニングをコントラバスとシタールの両方で生み出しましたし、シタールとコントラバスを混ぜた時に、うまく混ざり合うようにも作りました。ですから、コントラバス奏者とシタール奏者が一緒に演奏することが可能なチューニングですし、将来的にはそういう曲も作るつもりです。

そのチューニングを使うと、日本人らしい「水の気持ち」が表現できます。けれども、「水の気持ち」についての理解が浅ければ、たとえそのチューニングを使ったとしても、「水の気持ち」の本質を表現することができず、ただの真似事で終わってしまいます。逆に言うと、その「気持ち」を真似るレベルを抜け出すためには、その「気持ち」を自分の中にしっかりと持つ必要があります。

では、どのようにして、ある「気持ち」を自分の中に持つことができるかというと、人生に起こる様々な局面で、その「気持ち」を使おうとすることでしか、その「気持ち」を学ぶことはできません。そして、そういう「気持ち」を抱くことを促すものは、その「気持ち」に関する理解を深めることであって、言葉のレベルでその「気持ち」について「分かる」ことです。そして、自分は言葉で「気持ち」の本質を「分ける」=「分かる」説明ができるように、ひたすら修行と分析をしてきたので、他者がある「気持ち」を理解し、その「気持ち」を抱くことを促すことができます。

つまり、それぞれのチューニングの持つ精神性を、音や言葉を通して説明することを通して、他者へ伝えていくことを目指しています。そして、このようにしてチューニングを学んだ音楽家達が、様々な重要な音楽を作り出していけばいいと思っています。こういうことによって、「価値」のある「気持ち」を世の中に広げていくことも、音楽家や鑑賞者が様々な「気持ち」に関する理解を深めることにも繋がっていきます。

逆に言うと、現代はこういう形で音楽を活かすことがあまりできていません。素晴らしい「気持ち」を表現する音楽が社会で流行ることはよくあります。けれども、その流行った音楽を人々はただ「好き」なだけで、そこで表現されている「気持ち」の本質を言葉のレベルで「分ける」=「分かる」ことができているわけではありません。だからこそ、学びに繋がっていません。そういう現状があるからこそ、「気持ち」のことを説明しようとしている自分は、自然と様々な音楽家の解説をすることを目指し、日々分析をしています。そして、こういったことは誰もやっていないからこそ、自分がやるしかないと思っていますし、それをできるようにするために、日々厳しく修行・分析しています。

仮に自分が間違った分析を伝えてしまえば、間違った考え方を誰かに教えてしまうことになりますが、そんな「間違い」は「他者のため」に生み出してはならないと思うからこそ、自分に対する「厳しさ」を持つことができます。「間違い」とは「問題」であって、「問題解決の心」の精神は「問題」を「解決」することを目指すからこそ、事前にそういう「間違い」という「問題」を生み出してしまいそうな自分の心の「未熟」を「解決」しようとします。こういう形で「水の気持ち(問題解決の心)」は自分への「厳しさ」へと繋がっていき、これが「水の気持ち(問題解決の心)」が故に生まれる「向上心」です。この過程を全て「誰かのため」という「愛」が支えています。

自分の場合は、こういう形で、自分が目指す「夢」への努力を通して「水の気持ち」の「厳しさ」を学んできました。だからこそ、「水の気持ち」の本質を知っていて、それを表現することができます。こういった学びを、それぞれの音楽家はそれぞれの人生の中で経験を通して学ぶ必要があります。

「愛」を表現する音楽を生み出すことができるのは「他者のため」に生きる人間です。何故ならば、「他者のため」に生きようとする人間は、日々の生活の中で「他者のため」を選び、「自分のため」を選ばない努力をし続ける中で、大事な「気持ち」について、つまり「愛」について理解を深めていくからです。だからこそ、その「愛」を学び、表現できるようになります。

また、そういう過程の中で、「愛」と相反する「欲」の「恐ろしさ・虚しさ・危険性」も理解できます。そういう理解が「欲」の「恐ろしさ・虚しさ・危険性」などを表現できるようになることを促します。これは「愛」を表現した音楽ではなく「欲」を表現した音楽ですが、「欲」を否定することを促すので「価値」のある音楽です。

このような意味で、チューニングと「気持ち」の関係性だけではなく、音楽を生み出すこととは何なのかといった基本的な事柄についてもなんとか伝えたいと思っています。それを通して、素晴らしい音楽家が世の中に増えることを促せると信じているからです。

現代の音楽家の多くは、自分の中に沸き起こってくる「表現したい」という動機に従って生きている人ばかりで、音楽が何なのかを分かって音楽を作っている音楽家はとても少ないです。つまり、大概の音楽家は自分が何をやっているのかを、本当は知りません。

これは音楽家に限らず、表現者全般において言えることです。「光」と「闇」、「愛」と「欲」、「男」と「女」、といった我々の心の持つ様々な基本的な対立軸を理解していない限り、自分が人間の心のどの部分を表現しているのかを捉えることはできません。また、我々の心に「アイデア(インスピレーション)」が浮かぶことがどのような構造によって成り立っているのかを知らなければ、何かを生み出すことの本質的な意味も見えてきません。

そういった認識の足りなさが「迷い」へと繋がり、「迷い」が表現するものの質を下げています。また、素晴らしい表現を生み出すことの真の「価値」を理解していないからこそ、「他者のため」ではなく「自分のため」に表現活動を行なってしまう人が多くなりがちです。こういった「問題」をなんとか「解決」するためにも、何かを表現することに関して必要な知識や精神性はなんとか伝えたいところです。

私は自分の人生の中で限りなく楽器演奏のための技術を養い、その技術を保つことは不可能だと思っています。何故ならば、音楽以外にやるべきことが大量にあり、なおかつ技術習得も技術維持も時間のかかることだからです。また、最近シタールを始めましたが、今後も様々な楽器を学んでいくつもりで、演奏楽器が増えるという意味でも、それぞれの楽器のレベルを可能な限り高めることは不可能だと思います。

人生は限られているので、楽器の技術については諦めざるを得ない部分があります。自分が様々な楽器で様々な「気持ち」を非常に高いレベルで表現できれば、それは理想的なことですが、時間的に絶対に不可能です。

しかし、私はおそらく、非常に高いレベルの音楽分析家にはなると思っています。何故ならば、「気持ち」に関する分析は死ぬまでやっていくつもりですし、死ぬまで様々な音楽を分析し続けることになることは確信しているからです。だからこそ、自分の持つことができる技術には限界があっても、音楽家に対して、その音楽家が何を表現しているのかを教えることは、高いレベルでやり続けられると思っています。

音楽は「気持ち」を他者に教えます。言い換えると、音楽は様々な「気」を世の中に広げるための、非常に有効な手段です。シャーマンの目線から音楽を捉えた時、本当に「音楽は気を広げるための手段」として見えます。そして、神々は様々な素晴らしい「気(気持ち)」を彼らの中に既に用意していて、それらの「気持ち」を世の中に広げたいと思っています。だからこそ、神々と共に働く音楽家は、神々が世界に広げたい「気持ち」を人間に伝える仲介者です。逆に言うと、神々と共に音楽を生み出すことを人生の役割に持って生まれてくる人々は、そういう「夢」を元々抱いて人間として生まれてきた魂達です。

この世の中を良くするために音楽を使う意味でも、それぞれの音楽家の「夢」を叶えていく意味でも、神々の「願い」を叶える意味でも、自分が音楽の分野において貢献できることは最大限に貢献して死んでいきたいと思っていますし、そのためには流派を作る必要があると思っています。そして、そういった目的を実現するための手段として、神々は自分にチューニングの考え方に関する贈り物を既に与えてくれていますし、チューニングに関する学びを自分が深めていくことを、今後も支えてくれると思っています。

シャーマンになってからコントラバスを長い間離れましたが、シャーマンになるまでの間、自分が新しく発見したチューニングと、その時々に経験している「気持ち」は不思議と一致していました。例えば、海沿いで生活を始める直前に、海の音色を捉えることができる「水の気持ち」のチューニングを発見し、危険なシャーマン達と関わる直前に、それから経験することになる「闇の気持ち」を表現できるチューニングを発見しました。

海のチューニング


闇のチューニング


それとは逆に、自分の中に感じている「気持ち」を表現するためにチューニングを作ったこともあります。例えば、韓国を旅していた時に、韓国人の温かさを表現するために、チューニングを作りました。その時は『アリラン』という韓国で伝統的な歌に合わせるようにチューニングを作ったのですが、自分は『アリラン』を韓国に行く前から知っていました。自分がこの歌を知っていたことに、いずれこのチューニングを自分が発見することを促したかった神々の狙いを感じます。以下の動画の中では、そのチューニングの即興演奏を使っています。

韓国のチューニング


神々は「計画」=「シナリオ」に沿って自分を動かしているからこそ、こういったことが起こります。神々としては、私が人生の経験の中で学ぶことになる「気持ち」と合わせて、その「気持ち」を捉えることができるチューニングを自分に「気付き」「思い付き」という形で与え続けてきました。

ですから、ある意味、自分はこの流派の最初の生徒です。これは「武道」であっても同じですが、「光」の流派、つまり「光道」は神々が人間に教える「道」です。ですから、流派の創始者とは、神々からその「道」を学ぶ最初の弟子です。

我々にとって本当の師匠は神々です。神々と働く人間は神々の仲介者でしかなく、そういった形で生きることができている人間の師匠とは、弟子にとって神々の代弁者に過ぎません。そして、正しい心を以て生きるなら、誰でも人間は神々の代弁者になることができます。そうなった時に、本当の「教師(教えの師)」となることができます。

そもそも、この世界はより優れた魂から何かを学ぶためのシステムの側面が強くあります。神々は「気」を通して、我々の「気持ち」と「気付き」に関与し、我々の心を正しく導こうとする魂達です。正しく生きることができる人間はそういう形で、神々から直接心で何かを学び、それを他の人間に伝えることができます。そういう人間が、人間の中で師匠という立場になるに過ぎません。

私もただの仲介者として、神々から学んできたチューニングに関する考え方を、地上で広げることをすべきと思っています。そのことを通して、人間はもっと「気(持ち)」に関する理解を深めることができ、そのことが正しく生きていくことを促すと信じているからです。だからこそ、将来的には流派という形で、そういう「道」を用意しなければならないと思っている形です。

コントラバスでやってきたチューニングの考え方をシタールに応用することを通して、こういう方向性は弦楽器全般で進めていくことができるものだと確信するようになりました。だからこそ、将来的には他の弦楽器でも様々なチューニングの実験をしていくことになると思います。

昔から、将来的に様々なチューニングを使ったコントラバスアンサンブルや弦楽器のオーケストラをやりたいとは思ってきました。そこに音楽の持つ新しい可能性があると思えていたからです。今はそういう構想の中で、シタールを取り入れている場面になるのだと思います。

人間は、様々な形で音楽の形を変えてきました。例えば、コンピューター上で音楽を操作することによって新しい音楽を生み出す方向性はとても新しい音楽の方向性で、この方向性は地球全体でかなり広がったものです。それに対して、現代音楽といった音楽は難解な方向性へ進みがちで、難解だからこそ、多くの人々の心に届くことは難しい音楽です。

大雑把に説明すると、コンピューターを使う方向性は、既にある音をコンピューター上で加工する方向性、現代音楽は、譜面を今まで以上に複雑にする方向性と言えるかもしれません。そういう観点で考えた時に、様々なチューニングを使う方向性は、楽器の使い方を変えることによって、音楽を変える方向性だと思います。

そして、この方向性は、これからの音楽の可能性を大きく広げ得るものになると思っています。逆に言うと、バイオリンにせよギターにせよコントラバスにせよ、いつも同じノーマルチューニングばかりを使っている現代の音楽の持っている現状は、音楽の可能性をものすごく限定しているように、長い間思ってきました。

チューニングの考え方を使うことは諸刃の剣です。「光」のチューニングもあれば「闇」のチューニングもあるからです。「光」のチューニングを使った音楽はものすごく素晴らしいのに対して、「闇」のチューニングを使った音楽はものすごく恐ろしいものになります。

しかし、この地球が「光」と「闇」の関係性を見失っている現代において、音楽を通して「光」と「闇」の対照軸がよりはっきりと分かるようにしていくことは、人間が「光」と「闇」を思い出していく上で、有効に働く可能性が高いと思っています。また、「闇」のチューニングの多用を防ぐことや、そういうチューニングを使う上での注意点なども、将来的に作る流派の教えの中で徹底的に伝えていくつもりです。

今までこういう話は一度も書いたことがありませんが、これは長い間ずっと思っていたことです。そして、今すぐ流派を作るわけではなく、今は流派を作るための準備段階です。具体的に流派を作るのは、もっと後のことになると思います。そういう計画の一部として、最近はシタールと向き合っています。

こういった準備を進めている現状にあるということを、この文章を通して残すべきだと思っているので、この文章を書きました。
 

※この文章は後日内容を向上させた後に再度アップすると思います。