ここでは、太陽系の成り立ちについて説明します。太陽系のそれぞれの星はいつも我々の「心」に影響を与えています。ですから、太陽系の成り立ちについて理解することは自分自身について理解することと繋がっています。自分自身について理解をするために、太陽系について御理解を深めて頂けると幸いです。


【太陽系の構造】

まず最初に太陽と月の位置関係から説明していきたいと思います。太陽と月は地球から見るとほぼ同じ大きさに見えます。だからこそ、皆既日食といった現象が起こります。地球から見て、太陽と月がほぼ同じ大きさに見えるということは、偶然には起こりえないことです。

(また、月が無ければ地球の地軸が安定することはありませんでした。月が地球の地軸を安定させ、なおかつ太陽とほぼ同じ大きさに見えるという2つの条件が満たされる可能性を数学的に計算するのであれば、その可能性がとてつもなく低いということは分かります。)

こういったことから言えることは、太陽系は神々によってデザインされたであろうということです。何らかの魂がデザインしたのであれば、このような構造になることは可能性の低いことではないからです。太陽系が神々によってデザインされたということが、太陽系の持っている様々な意味を理解するための前提条件なので、この点について、まず最初に納得して頂けると幸いです。


[太陽系の「光」の星]

太陽が無いと地球は一瞬で凍り付きます。また、月が無いと地球が成り立たないことは科学的にも明らかになっています。しかし、太陽系の太陽と月以外の星が何故存在しているのかは科学的には明らかになっていません。しかし、太陽系が神々によってデザインされていることを踏まえると、水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星といった太陽系の惑星も何らかの必要性があったからこそ、存在するのだろうということが推論できます。では、それぞれの星は何を行なっているかというと、地球に「光の気」を送っています。

太陽系は五種類の「光の気」を地球に送るためのシステムです。それぞれの星は地球に「光の気」を以下のような形で送っています。昔の人間はこういったことが分かっていたからこそ、その星に宿る「光の気」に合わせて、星の名前を決定しています。

水星:「水の気」
太陽:「火の気(元気・笑い)」
火星:「火の気(闘いの心)」
木星:「風の気」
土星:「土の気」
金星:「金の気」

※天王星、海王星、冥王星は発展系なので、今の時点では説明は避けさせて下さい。

物質には「気」が宿るので、太陽系のそれぞれの惑星程の巨大な物体には「気」が大量に宿っていると言えます。そして、重さがあるものは重力によって引き合いますが、「気」には微量ですが重さがあるからこそ、重力によって「気」は引き合います。もし「気」に重さが無ければ、重力によって太陽系のそれぞれの星が地球に「光の気」を送ることはできないので、太陽系はこのようなデザインではないとも言えます。

科学の分野でも、「ダークマター(暗黒物質)」という呼び名で、観測不可能ではあるが、重さがある物質が銀河系内に遍く存在するということが長年に渡って言われてきました。この「ダークマター」が「気」のことです。「気」は非常に軽いですが、銀河系全体の「気」の総重量で考えるとかなりの重量になるので、科学の分野でも明らかにすることができた形になります。

ダークマター(暗黒物質)
https://ja.wikipedia.org/wiki/暗黒物質

そして、「気持ち」「気分」という言葉が示すように我々は「気」を「持つ」ことによって、「気」を「分つ」ことによって「気持ち」「気分」を持っています。我々が大事なことを忘れていても、かつての日本人は大事なことを知っていたので、その知識が言葉にはまだ残っています。

「気」が「気持ち・気分」の原因なので、太陽系のそれぞれの星が地球に「光の気」を送り、その「光の気」を我々が受け取るのであれば、「光の気持ち」を抱きます。それぞれの「光の気持ち」を整理して書きます。

水の気持ち:「愛」の実践のために問題解決を行なおうとする心=「向上心・問題解決の心」
火の気持ち1:「愛」の実践のために相手を笑わせようとする心=「元気・笑い」
火の気持ち2:「愛」の実践のために相手を傷つける何かと闘おうとする心=「闘いの心」
風の気持ち:「愛」の実践のために相手に優しく接しようとする心=「優しさ」
土の気持ち:信じることのために何かをやり始めようとする気持ち・やり続ける気持ち=「勇気・忍耐」
金の気持ち:相手を大事と想う気持ち・相手と接したいと想う気持ち=「愛」そのもの

太陽系の太陽・水星・金星・火星・木星・土星はこれらの「光の気持ち」の原因である「光の気」を支えています。以下のように対応します。

水星:「水の気」を支えることによって「水の気持ち」を支えている星
太陽:「火の気(元気・笑い)」を支えることによって「火の気持ち(元気・笑い)」を支えている星
火星:「火の気(闘いの心)」を支えることによって「火の気持ち(闘いの心)」を支えている星
木星:「風の気」を支えることによって「風の気持ち」を支えている星
土星:「土の気」を支えることによって「土の気持ち」を支えている星
金星:「金の気」を支えることによって「金の気持ち」を支えている星

「気」は重力だけによって地球にもたらされるわけではなくて、光に宿ることによっても地球にもたらされます。それを行なっているのが太陽です。太陽は強い光を地球に届けていますが、その光に「火の気」を宿しています。だからこそ、太陽の光を浴びると我々は太陽神様からの「火の気」を受け取り「元気」になります。

太陽系のそれぞれの惑星は公転をしています。どうして公転をしているかというと、それぞれの惑星は公転する必要があるからです。では、どのような必要性があるかというと、地球へ送る「光の気」の量を変化させるためです。

近いものと近いものはより強く引き合い、遠いものと遠いものはより弱く引き合います。これは万有引力の考え方になります。ですから、ある惑星が地球に近い時、地球がその惑星から受け取る「気」の量は増え、ある惑星が地球から遠い時、地球がその惑星から受け取る「気」の量は減ります。また、地球に対して接近してくる惑星からは「気」を多くもらうのに対して、地球からある惑星が遠ざかる時はその惑星から地球が受け取る「気」の量は減ります。

こういったことを根拠に、どれだけの「気」が地球にもたらされているのかを明らかにし、そのことによって、人間の心にどのような影響が出るのかを解き明かす営みが占星術であって、本来占星術は天文学と同じ学問分野でした。しかし、人間が「気」のことを忘れていくにつれて、占星術と天文学は別のもののように考えられるようになってしまい、占星術は根拠のない占いとして、天文学は宇宙物理学という呼び名で単純に観測結果のみを調べる営みとなってしまっています。

占星術は「気」というものを根拠にした、極めて論理的・分析的な営みであって、天文学と矛盾するものではないことは知って頂けると幸いです。占星術を支えるために天文学は存在し、天文学を支えるためにも占星術は存在しています。そして、本質的には両者は繋がっています。

人間は歴史のどこかで物理的なものと精神的なものを分けて考えるようになってしまいました。本来は、物理的なものと精神的なものは「気」という媒体を通して繋がっているものです。しかし、「気」を忘れてしまった人間は、物理的なものと精神的なものを繋ぐ媒体が分からなくなり、物理的なものと精神的なものを分けて考えてしまうようになってしまっています。

物理的なものと精神的なものが繋がっているということは難しいことではなくて、大自然の中にいる時と大都会にいる時とでは、我々が抱く「気持ち」が違うという現象から本当は明らかな簡単な真実です。そこに目に見えない何か=「気」が存在し、その「気」が我々の心に働きかけているからこそ、場所が違うだけで我々の「気持ち」は変化します。

このことが分かると以下のように理解できます。もし太陽系に金星が無ければ、「愛」という「気持ち」は太陽系にはありません。我々が「愛」という「気持ち」を知っているのは、「金の気」=「愛の気」が宿る金星が太陽系に存在し、地球に「金の気」=「愛の気」を送っているからです。このような意味で、太陽系のそれぞれの星は我々に「気持ち」を教えてくれています。

「気」は必ずその「気」の主である魂が存在し、その魂が「気」を操作することによって、様々な命に関与しています。そういった意味で、それぞれの星には神々が宿っていて、そういった神々が我々に「気」を送ることで、我々に「気持ち」を教えてくれています。星の神々は地球に「光の気」を送り、その「光の気」を通して地球上の様々な命の心に関与している形になります。

古代から星には神々が宿っているという発想を人間は多く持っていましたが、そういった考え方の根本には「気」の考え方があります。例えば、ギリシャ神話で有名な古代ギリシャでは「プシュケー」という形で「気」のことを呼んできました。「気」のことをよく分かっていたからこそ、彼らは星に神々が宿っていることを知っていた形になります。逆に、現代を生きる我々は「気」のことを忘れたからこそ、星に神々が宿っていることを忘れた形になります。

星に「気」が宿っていることを確かめる方法は、それぞれの星を見つめるということです。それぞれの星を集中して見つめていると、その星の「気」を目から受け取ることで異なる「気持ち」になるので、そのことから星に宿っている「気」を特定することはできます。

昔の人はそのようにして星に宿っている「気」に合わせて名前を付けましたし、星の「気」は今の我々でも感じられるものなので、星を見つめるということを是非やってみて頂けると幸いです。例えば、金星を見ていると「愛」を抱きますが、そのことから「金の気」=「愛の気」が金星には宿っているということは、御自身の体験として理解できます。現代を生きる我々は一つの星をものすごく集中して見るということをしたことがなく、そういった行為の価値を忘れているだけになります。つまり、我々人間は星を見なくなったからこそ、大事なことを見失った形になります。

星に神々が宿っていることを確かめる上でも、それぞれの星を見つめるということはとても有効です。何故ならば、星を見ているといい「発想」が生まれるからです。これはどうしてかというと、「気」は「気持ち」の原因だけでなく、「気付き」の原因でもあるからです。

「気付き」とは「気」が「付く」と書きますが、「気」には何らかの「情報・アイデア」を乗せられ、そういった「気」が我々に「付く」時に、我々の心に「アイデア」=「気付き」が浮かびます。これは「思い付く」という言葉も同様の意味を持っており、「思い」=「アイデア」が「付く」ということを「思い付き」という言葉は意味しています。

ですから、星を見ていて何かいい「発想」が浮かぶ時は、星の神々が「光の気」に何らかの「情報・アイデア」を乗せて、送ってきていると理解して頂ければ、と思います。つまり、星の神々は我々の心に何かしらの「気付き・思い付き」を起こすことで、いつも我々に語りかけています。現代を生きる我々は自分の心に浮かぶ「アイデア」は自分自身が作っていると思っているが故に、神々が自分に語りかけていることを忘れている形になります。

星を見ていると自分の中に何かしらの「気持ち・気分」が起こるだけではなくて、「気付き・思い付き」が起こるからこそ、星には神々が宿っていることを我々は体験から理解することができます。

昔の人はこのようなことは分かっていたからこそ、太陽のことを「お天道様」と呼んでいます。太陽からの「火の気」に太陽神様が何らかの「アイデア・情報」を乗せて我々にもたらしていることを昔の日本人は分かっていました。そして、太陽神様がもたらす「アイデア・情報」の多くは生き方についてのアドバイスなので、「天の道」を教えてくれる神様として「お天道様」と日本人は呼んできた形になります。

大事なことは感じることや心を見つめることです。現代人は感じることが真実を知るための有効な方法であることを忘れ、感じることを無意識の内に軽んじてしまっている傾向があります。星に神々が宿っていることは星を真剣に見つめ、その時の自分の心の状態を観察していると分かります。今は本当に便利な時代で「星座表」というアプリケーションを使うと、どこにどの星があるのかをスマートフォンで特定することができます。

是非「星座表」をダウンロードして頂き、太陽系の惑星を見つめる習慣を付けて頂ければ、と思います。太陽(お天道様)をいつも浴び、(目が痛まない程度に)見つめる癖を付けるだけでも、そのことによって自分の「気持ち」と「気付き(アイデア)」が太陽神様の「火の気」に支えられていることが理解できます。

そのことと平行して、水星・金星・火星・木星・土星という太陽系の中でも代表的な惑星を見つめる習慣を付けて頂ければ、と思います。すると、それぞれの星を見ている時に、それぞれの星からの「光の気」をもらうことによって、自分が異なる「気持ち」と「気付き」を得ていることが分かります。

星を見る時は最初はただその星を感じるように見つめて下さい。星からの「光の気」を受け取るためには、その星の「光の気」に我々の「気持ち」が共感する必要があります。「疑い」「欲望」「嫌悪」「怠惰」といった「闇の気持ち」を持って星を見つめていても、星からの「光の気」を受け取ることはできないので、最初はあまり何も考えず、屋上といった比較的空気の綺麗な場所・できるだけ雑音がない状態で、その星を感じるように見つめて下さい。そうすると、少しずつ自分の「気持ち」が変化していくと思います。そしたらそのまま見つめていて下さい。すると、様々な「気付き」を星の神々がもたらすと思います。


[太陽系の「闇」の星]

以下、月について説明を書いていきます。

太陽系において、最も強い「光」の存在は太陽です。何故ならば、太陽は太陽系中を光で照らし、その光と共に「火の気」を送っているからです。そして、地球から見ると太陽と全く同じ大きさに見えるものが月であって、この構造は太陽系において最も強い「闇」の存在が月であることを示しています。太陽や太陽系の惑星に「光の気」が宿っていて、「光の気」を送っているのと反対に、月には「闇の気」が宿り、「闇の気」を送っています。このような意味で、太陽と月が同じ大きさに見えることは「光」と「闇」によって太陽系が成立していることを、視覚的に分かりやすく描くためのデザインです。

月に「闇の気」が宿っていることは月をよく感じていると分かります。月は美しくも見えるものですが、どこか怪しげに感じるような要素もあります。この怪しげに感じる部分が月が本質的に「闇」であることを示しています。

英語で月はlunaとも言いますが、lunaとは古代ローマ神話の月の女神の名前です。そして、派生語のlunacyは「精神異常、狂気」といった意味を持ち、lunaticは「精神異常者、狂人」といった意味を持ちます。こういった語源から月が「闇」の存在であることは分かります。

また、日本語の「月」も本質的に月が「闇」の存在であることの一つのヒントとなります。月がどうして「つき」と読むかということについては、様々な解釈があり、正解が分かっているわけではありません。しかし、一つの解釈として「憑き」から来ているのではないかという説があります。かつて統合失調症のことを日本人は「狐憑き」と呼んでいたように、「憑き」という言葉は何かしらの悪霊に取り憑かれる状態のことを意味します。このように考えると、英語の「luna・lunatic・lunacy」の意味とも整合性を取ることができます。何故ならば、「狂気、精神異常(lunacy)」という状態は何かしらの悪霊に取り憑かれた状態(憑き)であると言えるからです。このような根拠から、「月」が「憑き」から来ていると考えることは、十分にあり得る解釈だと考えられます。

我々の体は太陽からの「光の気」を受け取ることに加えて、月からの「闇の気」を強く受け取りながら生きています。その一つの表れが女性の生理です。女性の生理は「月経」と言いますが、健康な女性は月の満ち欠けの周期に合わせて、生理がやってくることを表している言葉です。

もし、月からの影響を受けずに我々が生きているのでしたら、月の満ち欠けに合わせて月経が発生することはありません。ですから、月経という現象から、月が我々に「闇の気」をもたらしていることの一つの根拠です。

月は満ち欠けによって、地球へ送る「闇の気」の量を変化させています。月経はこの「闇の気」の量の変化によって、身体に起こる現象です。月が太陽に照らされるとその分だけ月には太陽からの「光の気」がもたらされ、地球に届く「闇の気」は減ります(満月)。その反対に、月が太陽に照らされないとその分だけ月自体が持っている「闇の気」を地球に送ることになります(新月)。このような形で、月の満ち欠けは地球に送る「闇の気」の量を変化させるためのシステムです。

月を見る時は、月に反射している太陽の光を見る場合は「光の気」を感じ、「光の気」を受け取ることになります。しかし、月自体に宿っている「闇の気」を感じる場合は「闇の気」を受け取ることになります。ですから、月を見る場合は二種類の見方があります。自分が「光の気持ち」で月を見るのであれば、月に反射している太陽の「光の気」を感じることになりますが、自分が「闇の気持ち」で月を見るのであれば、月自体に宿っている「闇の気」を感じることになります。「闇」の見方で月を見てしまうと、「闇の気」をもらってしまうので、月を見る場合は「光」の見方で見て頂ければと思います。

月の二通りの見方を表現している音楽があるので、これらの音楽を聴いて頂くことで、「光」の見方と「闇」の見方を感じて頂けると幸いです。ドビュッシーの『月の光』は「光」の月見の態度なのに対して、ベートーヴェンの『月光』は「闇」の月見の態度です。この二つの曲は、人間に二種類の月見の方法を教えるために神々が創っています。是非、聴いてみて頂けると幸いです。
 

ドビュッシー『月の光』

 

ベートーヴェン『月光』

 

【太陽系の個性】

以下、上に書いた太陽系の構造の説明を根拠に、太陽系の個性について書いていきたいと思います。
 

[太陽系の「光」と「闇」の理想バランス]

太陽と月の大きさは太陽系における「光」と「闇」の理想的なバランスを説明しています。太陽系において、太陽はとても大きな星です。それに対して、月は非常に小さな星です。これは、太陽系の神々が、地球という場所について「闇」は少しであるのに対して、ほとんどが「光」であってほしいという願いを持っていることを意味します。

どうして、このように言えるかというと、星の大きさはその星に宿る「気」の量の大きさを意味するからです。太陽は莫大な「光の気」を持っているのに対して、月が抱える「闇の気」の量は太陽に比べると圧倒的に小さいです。また、太陽系には太陽の他にも水星・金星・火星・木星・土星といった「光の気」を地球に送っている星があるので、太陽系の星全体としては「光」がほとんどであるのに対して「闇」は少しです。

このような「光の気」と「闇の気」の量のバランスは太陽系の理想的な「光」と「闇」のバランスを意味します。神々が太陽系をデザインする上で、あえて理想的なバランスではない形で太陽系をデザインすることはあり得ないからこそ、このように言うことができます。

「光」を強くするために、「光」の価値を理解するために、「闇」は存在します。「光」とは「愛」を基本感情とする「光の気持ち」を表し、「闇」とは「欲望」を基本感情とする「闇の気持ち」を表します。そして、太陽系の構造自体が支え合いの構造を持っているので、「光」=「愛」のために太陽系は存在することは言えます。

そして、もし「光」だけしかなければ「光」は弱くなります。何故ならば、完璧に平和で楽園のような世界だと、あまりにも問題が無くて、「光」を実践する機会が失われるからです。「光」を実践する機会が失われると「光」は弱くなるので、「光」を強めるためには何かしらの問題は必要です。

そして、何らかの問題を作るのは「闇」であって、「闇」は「光」を実践する機会を用意するために存在します。「愛」は「相手のため」の立場であるのに対して、「欲望」は「自分のため」の立場です。そして、「自分のため」に行動すると自己中心的で配慮に欠けていくので、何かしらの問題が生まれていきます。だからこそ、「闇」はいつも問題を作ります。

太陽系の理想の姿は「闇」は非常に小さく、ほとんどが「光」で良いというものです。ですから、太陽系の理想の姿はほとんど平和で問題が少なくて、皆がのびのびと「幸せ」に生きていくことができるような世界です。太陽系はそういった平和的な場所であるべきだということは知って頂けると幸いです。

「闇」が大きければ大きい程、「光」は強くなる必要があります。何故ならば、「闇」が強いと世界が問題だらけになり、そういった問題を解決するためには強い「光」が必要だからです。今の地球の状況はそういった状況で、「闇」が非常に強く、問題が山積みの状況にあります。これは、太陽系の理想の姿とは全然異なる状況です。

今の時代は「闇」が非常に強いからこそ「光」を強めるべき局面にあります。また、もしそのような方向性で人間が進んでいくのであれば、我々人間の魂の「光」はかなり強くなることができます。今の太陽系の状況は、理想の姿とは全く異なり、かなり危機的状況にあることを知っておいて頂き、その上で御自身がどのように生きるのかを考えて頂けると幸いです。


[太陽系において最も強い「光」]

太陽系の中心は太陽であって、太陽と火星という「火の気」が宿る星が地球の近くに2つあります。そういう点から考えて、太陽系はとても「火の気」が強い系であるということが言えます。

「火の気」は「元気」という「光の気持ち」を作りますが、どうして「元気」という言葉が「元の気」と書くかというと、地球にとって、「火の気」が最も基本的な「光の気」だからです。ですから、地球に生きる様々な命も「火の気持ち」を基本に生きていくことになり、様々な魂の個性の傾向も全体的に「火の気持ち」が強くなってきます。太陽系に生きる命にとって、「火の気」がこのような意味を持つことは知っておいて頂けると幸いです。

こういう意味で、太陽系とは「火の気」を中心とする惑星系です。宇宙全体で考えて、1つの惑星系とは1つのグループです。この宇宙には様々な惑星系がありますが、それぞれの惑星系には個性があります。そういった大きな目線で考えて、太陽系は「火の気」が強い惑星系であって、我々はそういう場所に生きていることを御理解頂けると幸いです。

では、他の系はどうかというと、例えばリゲルは青色の恒星であって、もしリゲル系というものがあったとしたら、この惑星系は「水の気」が基本となる惑星系です(リゲルが実際に惑星を持っているかどうかは宇宙物理学ではまだ不明です)。

色には「気」のことが反映されます。「火の気」の色は赤・オレンジ・黄であるのに対して、「水の気」の色は青・紫です。このことは、火の色が赤・オレンジ・黄であり、水の色が青であることによく表れています。

リゲル系の恒星はリゲル星であって、リゲル星は青色をしています。太陽系の場合は、恒星である太陽の光に「火の気」が乗っていますが、リゲル系の場合、リゲル星からの光に「水の気」が乗っています。ですから、リゲル系全体にリゲル星からの「水の気」が強くもたらされます。

色を根拠に考えることは科学的に考えると幼く見えるかもしれませんが、自分が神々のような立場に立つとこれが幼い考え方ではないことが分かります。神々は万物のデザインをしてきた魂達です。では、どのように万物をデザインするかというと、何かしらの意味を持たせます。

例えば、蓮の花は地球と金星の公転が描く図形を基にデザインされていますし、松ぼっくりなどは火に近いデザインを持っています。蓮の花は「金の気」を強く受け取りながら生きている花であり、松は「火の気」を強く受け取りながら生きている木だからこそ、神々はそのことが人間に伝わるようにデザインをしています(松の種類にも依りますが、松ぼっくりは山火事の際に松かさが開き、繁殖を行ないます。これは松が火と非常に相性がいいことを示しています)。鶏の頭のデザインも、鶏が「火の気」を受け取って生きている動物であることを示すためのデザインです。だからこそ、彼らは太陽が昇る頃に鳴き始めます。

   

 

 

神々は「誰かのため(愛)」に生きている魂達であって、デザインも「誰かのため」に行ないます。だからこそ、神々はデザインにその存在が持つ意味がよく表れるようにしています。このような意味で、デザインとは神々からのメッセージです。そして、デザインの基本要素は色であって、色にその存在が持つ意味を表現します。そういった点から、星の色を踏まえてその星の持っている意味を考えることは幼い分析方法ではなく、非常に理にかなった分析方法です。

もし、我々人間がリゲル系に行けたとして、リゲル星からの光を感じると太陽を浴びる場合とかなり「気持ち」が異なってきます。何故ならば、太陽系の場合は太陽の光に「火の気」が乗っているので「火の気持ち」になりますが、リゲル系の場合はリゲル星の光に「水の気」が乗っているので「水の気持ち」になるからです。太陽の光を浴びると「元気」になりますが、リゲル星の光を浴びると「向上心」が出てきます。

その惑星系の恒星がどの「光の気」を光に乗せてその惑星系全体に届けているのかということには、このような意味があることを知って頂けると幸いです。そして、その上で、太陽系のことを見つめ直して頂き、「火の気」が強い惑星系であることを理解して頂ければ、と思っています。


【最後に】

このページの解説を通して、太陽系の成り立ちについて理解を深めて頂くだけではなくて、「気」の観点・科学の観点・古代神話・言葉の語源・デザインの考え方といった様々な学問領域が繋がっていることも理解して頂けると幸いです。

我々人間が真実を見失ったのは様々な学問領域を分けて考えるようになってしまったからです。物理学者はこう考え、哲学者はこう考え、アーティストはこう考えるというような形で、それぞれの専門家はそれぞれの専門領域だけで物事を考えるようになってしまっています。だからこそ、真実が見えなくなってしまっています。

真理があるとしたら、その真理は如何なる学問領域であっても矛盾なく真理として成立しているはずです。逆に言うと、それぞれの学問領域で矛盾無く真理として成立しているからこそ、様々な学問領域の考え方を根拠に真理は導くことができます。そして、様々な学問領域を根拠にしない限り、真理は導きにくいものです。

それぞれの学問領域を分けたのは人間であって、本当はそういった目線は不自然な目線です。もし人間がそれぞれの領域を分けなければ、それぞれの分野は繋がって見えます。そういった全ての領域が繋がって見える視線が、本当は自然な目線であって、自然な目線を持つと本質は見えてきます。何故ならば、自然な目線とは何も先入観を持っていない目線だからです。先入観があると物事は見えなくなっていきます。

そういう意味で、「曇り無き眼」で物事を見定めることがとても大事になります。この「曇り無き眼」という言葉は宮崎駿の『もののけ姫』で三度も使われる言葉であって、私自身とても好きな言葉です。宮崎駿作品などの優れた作品は我々人間に大事なことを教えてくれます。

このページを通して、一つの学問領域だけから物事を考えるのではなくて、様々な分野の目線を持って物事の本質を見つめることが大事であることも知って頂けると幸いです。

このページでは、太陽系についての概要を書きました。概要なので、内容は非常に大雑把に書いています。ですから、太陽系のそれぞれの星についての解説を別で詳しく書くべきだと思っています。また、宇宙全体の構造の説明は既に書いているので、以下のリンクの文章も読んで頂けると幸いです。

http://junashikari.com/cosmos/宇宙の成り立ちについて/