「欲」は我々を「支配」する力を持っています。何故ならば、「欲」が故に生まれる「快楽」を経験すると、その「味」を知ってしまうが故に、その「快楽」を再び「欲」する心が生まれるからです。また、その「味」を知ってしまったが故に、その「快楽」を経験できない状況を「嫌悪」するからです。

このような意味で、「味」を知ることが更なる「欲」と「嫌悪」を生み出し、我々は「欲」の「奴隷」となってしまいます。「欲」=「〜が欲しい」と「嫌悪」=「〜が手に入らなくて嫌だ」という心は表裏一体の関係を持つからこそ、このような構造が生まれます。

例えば、一度高級な寿司を食べてしまうと、回転寿司を「美味しい」と思いづらくなります。だからこそ、回転寿司の味を通して「嫌悪」することも起こりやすくなりますし、高級寿司を食べられない今の現状に対する「嫌悪」も起こりやすくなります。そして、そういった経験が、高級寿司を食べるためにもお金を持とうとする「欲」も生み出します。

このような形で、たった一度何かの「味」を知ることが、我々の人生全体の道を誤らせる力を持っています。それは「食欲」だけでなく、「性欲」「承認欲求」「自己顕示欲」「名誉欲」「ギャンブル欲」、他にも様々な「欲」について同様のことが言えます。

大事なことは「味」を知らずに生きていくことです。逆に言うと、「いい思いをしたい」という「欲」に同調せずに、程々のもので「満足」するようにすることで、心が「欲」に「支配」されることは回避できます。

知らない方が「幸せ」な「味」はたくさんあります。言い換えると、知ってしまえば取り憑かれてしまう「味」はたくさんあるということです。そして、その「味」を知ってしまった上で、「欲」の「奴隷」になることを避けるためには、その「欲」に同調しないように心で闘う必要性も出てきますが、それは大変な闘いです。

また、「味」を知った上で、その「味」を求める「欲」に同調し、しかし、その「味」が手に入らない状況をずっと経験するなら、強い「嫌悪」に襲われることになりますが、それは「不幸」への入り口です。このような意味で、「いい思いをしたい」と思ったが故に、たった一度経験したその「味」は、我々を「不幸」へ導いていきます。

いい思いをし続けるために金持ちになることを目指し、実際に金持ちになることができたとして、その「味」を経験し続けられたとしても、「欲」が生む「快楽」には「飽き」が来ます。ですから、より美味い「味」を求めさせられます。

しかし、「味」も果てしなく上があるわけではないので、どこかで「諦める」必要がありますし、なによりも、そんな人生を生きてしまうなら、心は完全に「欲」の「奴隷」で、自分自身も「正気」も見失いますし、「正気」の人が経験できる「喜び」を経験できなくなります。それに対して、強く「正気」を保っている人は美しい夕日を観るだけで深い感動を得ることができます。

「欲」が生み出す「快楽」のために金を稼ぐことに囚われていった結果、「正気」を失い、夕日に感動できなくなるよりも、「愛」を抱いて生きていくことで「正気」を保ち、毎日夕日に感動できる人生を生きた方が「幸せ」だと思います。

世界には大金を出せば経験できる「味」も色々ありますが、夕日のように無料でも感動できる「喜び」も膨大です。ですから、その「喜び」が見えなくなってしまうのではなく、その「喜び」を深く感じられるようにするためにも、「欲望」に囚われず「愛」を抱くことで「正気」を保つ方が結果的には「幸せ」になります。

このような意味で、「幸せ」はお金などを使って手に入れるものではなく、「幸せ」に気付ける心を実現することです。