こういう記録を書くことにより精神の純粋性を失う可能性があるので、こういった記録日記を書き続けるかは定かではありませんが、今回の屋久島滞在最初の日記を書き残しておこうと思います。

この数日、滝を回っていました。屋久島に行くことを決めた文章の中でも書きましたが、今回の屋久島滞在の大きなテーマの一つが「滝」だからです。「森」という、もう一つの大きなテーマに入る前に、「滝」というテーマと向き合っている形になります。

技術的に、今は沢登りができないので、比較的行きやすい滝に行っていました。この数日間で行った滝は、屋久島南部にある『トローキの滝』『龍神の滝』『千尋の滝』『蛇之口滝』『大川の滝』の5つです。ただ、名のない小さな滝と出会う場面もあり、素敵な滝に感じた滝もありました。

それぞれの滝と出会う時、様々な教訓を得ました。一つ目の教訓は、滝は近くに行かなければ、その凄まじい精神性を感じづらいということです。

例えば、『トローキの滝』『龍神の滝』『千尋の滝』などは、近くまで行くことはできず、『千尋の滝』などは非常に巨大な滝にも関わらず、距離があるが故にその凄まじさを感じられませんでした。

この教訓が自分に教えてくれることとは、滝の近くまで行くことができるだけの技術を手に入れなければならないということです。ですから、沢登りなどの技術の必要性を痛感しています。

この教訓と全く異なる教訓があり、近過ぎることも問題であることを今日学びました。屋久島は現在梅雨で、屋久島最大級の大きさを持つ『大川の滝』は「凄まじさ」という言葉を超える凄まじさを持っていました。
 


ただ、滝の目の前まで行くと、その水しぶきによって目が開けられず、滝を見ることができない程でした。また、水しぶきが強すぎることによって全身はシャワーを浴びたように濡れるのですが、徐々に寒さを感じてきます。そういった理由によって、少し離れた所から見る方が滝を感じやすい状況でした。

しかし、そういった物理的な問題とは別に、この滝の表現するものは、自分の精神の許容範囲を超えていたようにも感じます。「凄まじさ」を持つ自然を感じることを目的に自然に接するようにはしているのですが、その「凄まじさ」があまりにも大きかったが故に、自分では受け取り切れない精神性だったように思えます。

この滝を目の前にしている時、何も考えられず、何も感じられない状態になったように思えます。なんにしても、今日の大川の滝は自分には早過ぎる、凄まじい滝だったと思います。

ただ、いつか、梅雨時のこの滝の前で瞑想をしたいと強く思いました。目を閉じてしまえば目を開ける必要はありませんし、目を閉じていても感じられる「凄まじさ」がそこにはあることは今日実感しました。

水量の凄まじいこの滝と同化するような瞑想を行なうならば、凄まじい「水の気持ち」を学ぶことができるでしょうし、そういう学びは、その精神性を音に変換する際にも大きな道標となります。

星は遠く、我々は星を近くで感じることはできません。それに対して、滝のような存在は近くに行けるからこそ強く感じることができます。この点は、滝が星よりも勝る点なのだと、帰り際に思いました。
 


三つ目の教訓は、登山に関する教訓なのですが、諦めることの重要性です。『蛇之口滝』に行くためには、二時間の登山道を登っていくのですが、最後の最後で渡らなければならない川を渡ることができず、滝まで行くことを断念しました。滝の上の方だけが見えていたにも関わらず、引き返さざるを得ませんでした。

自分のごく少ない登山経験の中で、諦めたことは今回初めてでした。もちろん、諦めたくはなかったのですが、この写真の川を渡ることは自殺行為だったので、諦めざるを得ませんでした。

登山には危険が伴うものなので、「諦め」を使えるようにしておくことは大事だと思います。特に、自分のような、前に前に進もうとしてしまう人間にとっては、とても大事なことだと思います。

そういったことを経験的に学ぶことができたことは、これから膨大な登山をしていくであろう自分にとって、とても良い教訓だったように思えます。

話は変わりますが、滝はよく「龍」に喩えられ、「龍」に最も近い動物が「蛇」です。そして、「龍」は「光」であるのに対して、「蛇」は「闇」の存在です。

ですから、『蛇之口滝』に行くことは少し気が引けることでもありました。結果そこに辿り着けなかったことに意味も感じます。

自分は「気合」を入れると、龍のような唸り声を自然と発します。もちろん、人前ではそのような声を出すことはありませんが、誰もいない登山道を歩いている時は、そういう声を使うことにより「気合」を入れ、怪我や事故を防いでいます。

『蛇之口滝』に向かっている途中、少し疲れが出るポイントもあったのですが、そういう時に「龍の声」が「蛇の声」になる瞬間を何回か感じました。

「疲れ」というものに負けないためには、その「疲れ」に勝つための「気持ち」を使うことが大事なのですが、その「気持ち」は、何のために登っているのか、という「気持ち」と密接な関係にあります。

「誰かのため」に登ろうとする「気持ち」を抱くなら、「龍の気持ち」という「正気」を使うのに対して、「自分のため」に登ろうとする「気持ち」を抱くなら、「蛇の気持ち」という「邪気」を使うことになります。

自分の場合は、「龍の気持ち」が基準にあるので、その「気持ち」から「闇の気持ち」に堕ちてしまえば、「龍の気持ち」に最も近い「闇の気持ち」である「蛇の気持ち」に堕ちる形です。

登山中にひたすら声を使うので、その声に「龍」と「蛇」の違いが表れ、自分が「蛇の気持ち」の方に行くことを防ぐことができていました。

今回、おそらく生まれて初めて「蛇の気持ち」で声を出してしまったように思えます。この経験が「蛇の気持ち」の特徴をより自分に分からせ、そのことで、自分自身が精神的に「道」を外れてしまうことや、他者が精神的に「道」を外れてしまうことを防ぐことを良い形で促すので、良い経験だったと思います。こういった学びを『蛇之口滝』に向かう途中で得ていることに導きを感じます。

また、『蛇之口滝』の往復の過程で、5匹程のヒルに刺されましたが、このことにも意味はあると思っています。下山した後に話した、その付近に住むおじいさんは「『蛇之口滝』のあたりはとりわけヒルが多い」と言っていたからです。

自分としては、『蛇之口滝』という名前が適切なのかは分からないと思っていましたが、この付近に、蛇にも近い「闇」の動物であるヒルが多いことから、『蛇之口滝』という名前は適切な名前なのかもしれないと思いました。

つまり、その付近は「闇の気」が多い可能性が高いということです。雨が降っていたので、その影響もあるとは思いますが、確かに、とても「気持ち」がいい山ではありませんでした。

この分析自体、まだ確かな分析だとは思っていませんが、屋久島のことを理解する上で、一つ重要な分析のポイントだと思います。

『蛇之口滝』という名前の由来をネットで何度か調べてもいるのですが、ネットでは出てこないので、いつか現地の人に直接尋ねてみようと思います。また、既に行なっていますが、その付近に住む人々の精神性の分析も、その付近の「気質」を理解する上で大事になってくると思います。

滝は川の一部であって、川は神様です。そして、滝はその神様の性質を表すようにデザインされています。屋久島には100本以上の川があり、それぞれの川が別々の神様なのかは分かりませんが、分析できることから分析していこうと思います。

また話が変わりますが、元々雨が多い屋久島の梅雨においては、ほとんど太陽の光が入ることはなく、曇りか雨です。また、海も近いのですが、穏やかな海というよりは厳しい海の表情を見せていますし、自分が泊まっている場所のすぐ近くに川があり、その川の激しい水の音がずっと聞こえてきます。

屋久島に来ることを決めてから、心のスイッチが切り替わり(自分に対する「気」の関与が変わり)、決して心地良くはない精神性の中を生きています。

「氷の気持ち」の瞬間もありますが、この前の冬に経験していた「氷の気持ち」とは異なる、何らかの「水の気持ち」の中を生きているように思えます。

自分も心に隙を抱えて生きています。その隙とは、自分が自分でいられないことに対する「嫌悪」です。他人からは理解され得ないことですが、「霊感(気に対する感度)」が高過ぎて、なおかつ「気合」を入れていると、自分が自分として生きている感覚ではなく、何者かを自分に宿して生きる感覚となります。

その、何者かを自分に宿して生きる感覚が、自分が自分でいられない感覚を生み出します。その時に、「自分が自分でいたい」という「欲」を抱くのであれば、「自分が自分でいられない」ことに対する「嫌悪」が生まれてきます。

この数日、自分に課されている修行はそういった、自分が自分でいられない感覚を強く与えられ続けられるという修行です。ですから、屋久島行きを決めてから、ほとんど自分が自分で生きている感覚がありません。

こういった構造は、自分を「気」によって導いている神々が作ろうと思えば作れる構造です。こういった構造を事前に作ることによって、屋久島でこれから経験することの意味が深まってくるはずなので、このような構造を与えられています。

7年前、屋久島に初めて来た時も、その半年後に来た時も、自分の心の隙を屋久島は見事に突いてきました。そして、そういう経験を通して、自分は自分の心の中にある隙のことを理解しました。

今回の屋久島滞在は、ただの屋久島分析のための滞在ではなくて、自分の人生を良い形に導く、修行の経験であればいいと思っています。

7年前程の凄まじい経験ができることは期待していませんが、あの時程の大きな経験ができるのであれば、そのこと以上に嬉しいことはありません。何故ならば、それは、より良く生きるための大きな教訓を得るということだからです。

間違った生き方をしている段階から、正しい生き方に方向を変える時、たくさんの大きな教訓を得ることになります。そして、そういった教訓は経験によって明らかにされます。自分自身、そういった経験を繰り返し、深く大事な教訓を気付かされる毎に、涙が止まらないようなことが少なくありませんでした。

しかし、そういう形で学びを得続けてくると、自ずと正しく生きることが常態化するので、大きく「道」を正されるような教訓を得る場面が減っていきます。そうなると、自分が進歩していないようにも感じやすくなります。

だからこそ、今、非常に大きな教訓を得ることができるなら、それはとても喜ばしいことです。大きな教訓をもたらす経験をするための準備段階として今の自分の状態があるのだろうと思い、その状態を受け入れながら生きています。

もうそろそろ、「滝」というテーマから「森」というテーマに移ると思っています。その時から、大きな教訓を得るための修行が始まるように予感しています。
 

※余談
 


何処へゆくのか 嵐の中で
水鏡に映る 隣合う世界

私が跳ねれば 空に波紋が
風は交わり 狭間に龍の道が
見えるだろう

満ち引きを見ている原生の茂り
丘の上で星を見る子ども
風が吹いている

夜光貝 触れる指
命の振り分け
光に 消える神さま
 

屋久島行きを決めた頃、青葉市子が新しい曲をYouTubeにアップし、屋久島に行く前も着いた後もずっと聴いています。チェロは持って来ていますが、時折、この曲に合わせてチェロを弾いています。

今の屋久島は嵐にも等しい状態がよくあり、自分はその日にどこに行くべきなのか、家を出る直前まで教えてもらえません。そんな時に、青葉市子のこの曲を聴いていると、今の自分の状態と合い、独特な気分になります。

振り返った時に、何故今この歌を聴き続けているのかが分かるのだと思います。実際、屋久島に着くまでは、こんなに「何処へゆくのか 嵐の中で」という歌詞と自分の置かれている状況が一致するとは思いませんでした。
 


「龍の道が見えるだろう」という歌詞の通り、「龍の道」に対する精神的理解をより深め、そのことによって、「龍の道」に対する音楽的理解を深められるのであれば、それは一つの成すべきことなので、「龍の道」が見えたいところです。

「龍の道」を見つけるために、滝に通っているにも関わらず、滝を通して確かな屋久島の「龍の道」を見いだしていない自分にとって、これは切実な願いの一つです。

また、「龍の道」という点だけに限らず、他の点でも屋久島滞在の中で自分が学ぶべきことを学んで、富士山に帰りたいところです。

 

自分も人間ですが、現代を生きる人間とは、あまりにもかけ離れた認識の中を生きています。本当に認識的にとんでもないところまで来たと思いますし、これからも、自分の予想をはるかに超えて、自分の認識は進んでいくのかもしれません。

世に必要なことだと思って、このような生き方をしていますが、今の世の中で需要があるものでもないにも関わらず、自分がこのように生きることを可能にしてくれている方には深く感謝しています。