ここでは「計算高さ」について書いていきます。一般に「計算高さ」は悪いものとして扱われています。それは「計算高さ」の前提に「欲望」があるというイメージがあるからです。

しかし、「計算高さ」というもの自体は「欲望」のためだけではなくて、「愛」のためにも使えるものです。逆にいうと本当に「愛」を実践したい場合、ある程度の「計算高さ」が必要なことも多くあります。しかし「計算高さ」=「悪」だと思っていると、「愛」の実践のために「計算高さ」を使うこと自体が間違っているようにも思えてしまいます。これは「計算高さ」自体を「悪」だとみなした場合に生まれる一つの弊害です。

「欲望」の「計算高さ」は分かりやすいと思います。例えば、自分が他人からよく思われたいとして、そのためにAさんとBさんに対して異なる自分を演技し分けるといったことなどです。これは自分がよく見られたいという「欲望」のために、「どういった自分を演じることが最も有効か」といった「計算」から生まれる行為です。これが「欲望」の「計算高さ」、つまり「あざとさ」です。

それに対して、「愛」の「計算高さ」であっても、自分を使い分けるということは必要な時もあります。「元気」がない人に対して「元気」を与えるためには、やはり自分も「元気」に振る舞う必要がありますし、あまりにも「甘さ」を持った人間に対しては自分が「厳しさ」を持って接するべき時もあります。こういった形でその相手その相手に対して「どういった自分の側面で向かい合うべきか」ということを考えることはとても大事であって、それをするためには「計算高さ」というものは必要となってくることもあります。これが「愛」の「計算高さ」です。

こういった「愛」の「計算高さ」について他にも具体例を挙げると、「相手のため」に最初に「厳しさ」で接した後で「優しさ」で接することを予め「計算」するといった「計算高さ」もあります。「厳しさ」というものは相手の心の状態を下げやすいものです。それに対して「優しさ」というものは相手の心の状態を持ち上げやすいものです。そういった「厳しさ」と「優しさ」という対立を踏まえた上で、その相手が自分との会話の後にいい形でその日を過ごせるようにするために、先に「厳しさ」を見せて後で「優しさ」を見せるべきだと元々計算している形になります。

この社会では、「愛」の「計算高さ」のイメージがあまりシェアされていませんが、こういった具体例から、「愛」の「計算高さ」というものがあるということを理解して頂けると幸いです。現代の人間を観察していると、「欲望」が強い人たちは「計算高さ」を使いこなし、「愛」の強い人間は「計算高さ」を使いこなしていない現状があります。それはやはり「計算高さ」というもの自体が「欲望」のためのものだと思われがちだからです。そういった罠の「常識」に騙されないようにするためにも、この文章から「愛」の「計算高さ」というものが、いかに大事なのかということを理解して頂けると幸いです。

また、こういったことを理解することを通して、「計算高さ」を持った人間が全て「欲望」によって動いていると誤解する可能性も減らすこともできます。「計算高さ」=「悪」だと思っていると、「愛」の「計算高さ」を実践している人間のことを、「欲望」を実践している人間だと誤解してしまいやすくなります。そういった可能性を減らすためにも、この文章を有効に使って頂けると幸いです。