我々の生きている「人生」にとって、「幸せ」と「成長」という二つの要素が非常に重要な意味を持っています。言い換えると、「幸せ」と「成長」の本質的意味を理解することで、「何故生きているのか?」という大きな問いの答えの一部を知ることができます。
 

【「幸せ」】

「幸せ」を経験することは、この世に自分が存在することの「喜び」を我々に教えてくれます。言い換えると、この世は生きるに値するという「価値」を我々に教えてくれます。

例えば、子供を産み、可愛いその子を抱くことを通して「幸せ」を感じるということは、我が子という他者の存在の「かけがえのなさ」を感じることであり、その子の存在の「価値」を感じることですし、子育ての「価値」を感じることに繋がります。また、愛する異性と愛し合う生活を通して「幸せ」を感じるということは、その相手の存在の「価値」を感じることですし、愛し合うことの「価値」を感じることに繋がります。

ある存在の「価値」を「感じる」ことは「感情」と密接な関係にあるものです。「幸せ」という大きな「喜び」が伴う「感情」を経験するからこそ、「愛」する他者の存在の「価値」を深く「感じる」ことができますし、「愛」を促す事柄の「価値」を深く「感じる」ことができます。

つまり、ある存在の「価値」を「学ぶ」ことは「思考」で「理解」することではなく、「感情」によって「感じる」ことにより実現できます。もちろん、「考える」ことでそのような「価値」について「理解」が進む部分はありますが、「愛」に関する重要な「真実」の「価値」を「学ぶ」ということは「理解」だけでは不十分で、「感じる」ことによって実現します。

そして、「幸せ」という大きな「感情」は、「感じる」部分の大きな「感情」だからこそ、その「価値」を強く「感じ」させてくれます。ですから、「幸せ」という「感情」以上に、「愛」に関する重要な「真実」の「価値」を我々に教えてくれるものはありません。この点に「幸せ」の存在意義があります。

そして、この点は「我々が何故生きているのか」という問いの一つの答えでもあります。何故ならば、生きているからこそ「幸せ」を感じることができ、「幸せ」を感じるからこそ「愛」に関する事柄の「価値」を「学ぶ」ことができるからです。逆に言うと、生きていなければ、「幸せ」によってこのような「学び」を得ることはできないからこそ、生きている状態が我々には必要です。

このような意味で、我々は「幸せ」によって「学ぶ」ために生きています。そして、このような文脈で「幸せになるために生きている」という言葉を理解するなら、「幸せになるために生きている」という言葉は遥かに深い意味を持ちます。

また、「幸せ」とは何なのかが見失われがちな時代においては、このような文脈で「幸せ」の本質を理解することもとても大事です。本当の「幸せ」とは、「愛」に関する重要な「真実」の「価値」を感じる経験です。
 

【「成長」】

真の「成長」を実現することは、この世が存在することの「価値」を上げることに繋がります。何故ならば、真の「成長」を遂げるということは、この世のためになることを行ないやすくなるということであり、この世を少し良くするからです。

真の「成長」とは自身の心の「闇」を克服することであり、自身の心の「光」を育てることです。その結果、「他者のため」により多くを実現できるようにもなりますし、「他者のため」にならないことを行なってしまう機会を減らせます。

「他者のため」に何かするということは、この世を少し良くすることと繋がっています。何故ならば、ある人を「幸せ」にすることも、皆がより良い形で生きていけることを促すことも、この世を良くすることだからです。

今の世とは、膨大な我々人間の「意志」によって積み重ねられてきた「善」と「悪」の結果です。そのような意味で、ある人が「成長」するということは、その人がより「善」を実践し、「悪」を実践しなくなることを促すが故に、それはこの世がより良い場所になることを少し促すことであり、この世の「価値」を少し上げることに繋がります。

逆に、皆が「善意」を失い「悪意」に満ちてしまった世界では、「愛」がほとんどない世界ですから、この世は存在するに値しない「無価値」なものとなります。「愛」があるかないかということは、この世の「価値」と非常に密接な関係にあるからです。

この世の「価値」を上げることは素晴らしいことです。だからこそ、「成長」を遂げるということは、確かに「意義」のあることです。ですから、「成長」を実現する人生は素晴らしいものですし、「成長」を実現するためにも我々は生きています。

この世という大きな単位で考えなくとも、自分が「成長」することは自分にとって身近な人に対して、「善」を行ない「悪」を行わない自分を実現することを意味します。そのような意味で、もし身近な人に対して「愛」を抱けるなら、自身の「成長」について確かな「価値」を感じることができます。

何故ならば、自分が大事にしたい誰かをより「幸せ」にできるということに「価値」を感じずにはいられないからです。つまり、「愛」を抱くということが、「成長」に対する「価値」を感じる心を生み出します。

そして、「幸せ」と同様に、生きているからこそ「成長」は実現します。何故ならば、生きていれば自ずと「試練」がやってくるわけですが、そういう「試練」が「成長」するためのきっかけを与えるからです。逆に言うと、生きていなければ、「試練」によって「成長」するためのきっかけを得られないからこそ、生きている状態が我々には必要です。

このような意味で、我々は「成長」するためにも生きています。そして、「成長」することは確かに「価値」のあることだからこそ、「成長」の機会を与えてくれる人生は生きるに値するものです。

また、「成長」とは何なのかが見失われがちな時代においては、このような文脈で「成長」の本質を理解することもとても大事です。本当の「成長」とは、より「他者のため」になることができる自己を実現することです。
 

【「愛」と「欲」】

このような意味で、「幸せ」はこの世の「価値」を感じることを促し、「成長」はこの世の「価値」を上げることを促します。だからこそ、「幸せ」も「成長」もとても重要で素晴らしいものであって、生きる意味と直結しています。

そして、どちらも「愛」に基づくものであることを理解して頂くことはとても大事です。「愛」が深ければ深い程、愛する人と共にいられる「幸せ」も深いですし、愛する人のために「成長」を求める心も深まります。

それは「愛」が深ければ深い程、愛する相手が存在することの「価値」を深く感じられるということであり、愛する相手のためにより多くをできる自己の実現に「価値」を深く感じられるということでもあります。

逆に言うと、「愛」を見失ってしまうなら「幸せ」や「成長」に本当の「価値」を感じることはできなくなります。だからこそ、「愛」を見失ってしまうなら、我々は「道」を見失ってしまいますし、生きる意味が見えなくなります。

つまり、人生に意味があるかないかは「愛」と「欲」のどちらを選ぶかどうかによって決まってきます。「愛」は「他者のため」を思う心だからこそ、「幸せ」や「成長」の「価値」を感じる心に繋がるのに対して、「欲」は「自分のため」を思う心だからこそ、「幸せ」や「成長」の「価値」を感じられません。

つまり、「他者のため」を思わず「自分のため」だけを思うなら、他人が「幸せ」になることはどうでもいいことであり、「他者のため」になることができる自分になることはどうでもいいこととなります。そういう風な生き方になると、人生は「虚しさ」に満ちたものとなります。だからこそ、「愛」を選ぶことが大事です。
 

【最後に】

我々の人生は「楽しい」こともあれば「苦しい」こともありますし、「喜ばしい」こともあれば「悲しい」こともあります。人生はそのような振り子のような存在だからこそ、「楽しい時」や「喜ばしい時」には、その「幸せ」からできるだけ多くを「学ぶ」ことが大事ですし、「苦しい時」や「悲しい時」には、その「試練」からできるだけ多くの「成長」を実現することが大事です。

だからこそ、生きていく上で、「幸せ」と「成長」という二つの言葉の意味をより深く認識し、この二つの言葉と共に生きていくことが、より「意義」のある人生を生きることを促します。