ここでは、「教育」と「洗脳」について書いていきます。このことは我々の日常において、とても身近かつ重要なことなので、この文章を通して理解して頂けると幸いです。
 

【「教育」と「洗脳」の対立構造】

正しいことを人に教えるのが「教育」であるのに対して、間違ったことを人に教えるのが「洗脳」です。「教育」と「洗脳」はこのような対立構造を持っています。

そして、間違ったことを正しいと信じている人からすると、誰かが正しいことを人に教えている様子は「洗脳」に見えます。しかし、正しいことを理解している人からすると、正しいことを人に教えているのは、ただただ「教育」です。

また、間違ったことを正しいと信じている人からすると、自分が正しいと信じていることを人に教えることは「教育」に思えます。しかし、実際は意図せず「洗脳」を行なっています。正しいことを理解している人は、間違ったことを人に教えることはないので、「洗脳」はしません。


【「教育」と「洗脳」を見分けるために】

何が「教育」であって、何が「洗脳」であるのかを的確に見分けるためには、何が「真実」なのかを予め理解しておく必要があります。この努力は楽なものではなく、少しの「甘さ」も許されないものです。

しかし、この社会は何が「真実」なのかを理解するための努力を促さず、ただただ「常識」を正しいものとして鵜呑みさせています。しかし、「真実」と「常識」はいつも一致するものではありません。そんな社会に生きる我々日本人にとって、何が「教育」であって、何が「洗脳」かを見分けることはとても難しいことです。それにも関わらず、我々日本人はそういった判断をできている気になっています。これは大きな罠です。

自分ができていないことをできている気になっていると、いつまでもできないままになってしまいます。何故ならば、自分ができていないことを自覚して初めて、それをできるようにしようと思えるからです。そういう意味で、「教育」と「洗脳」を見分けることができていないということを日本人が自覚することはとても大事です。

これは自分を棚に上げているわけではなくて、私自身いつも自分自身に問い続けています。私は人生の中で非常に長い間、何が「真実」なのかを強い気持ちと共に四六時中問い続けて生きている立場の人間だと思います。そんな私であっても、「教育」と「洗脳」を見分けることに関して、「自分は絶対に判断できる」といった自分自身に対する「過信」を持っていると、その「甘さ」から判断を誤ることに繋がります。「甘さ」は「傲慢・過信」に繋がり、「謙虚」を損なわせるからです。

それほどまでに「甘さ」という気持ちは判断を狂わせる力を持ったものです。我々日本人は、「甘さ」が如何に「真実」を見せなくする気持ちなのかを知らないが故に、簡単に「甘さ」に同調してしまい、自分が判断できている気になってしまっています。そのことによって、本当は「教育」と言うべきものを「洗脳」と考えてしまい、大事な学びの機会を失ったり、本当は「洗脳」と言うべきものを「教育」と考えてしまい、間違ったことを学んでしまっています。

何が「教育」であり、何が「洗脳」であるのかを判断するということは、言い換えると、何が「真実」であり、何が「間違い」であるのかを判断するということです。それを見抜くためには、非常に強い気持ちで、常に「問い」を行なう必要があります。「これは真実だろうか」「これは間違っているのではないだろうか」といったところから、「何故それが正しいor間違っていると言えるのか」という理由を考えていくことになります。その思考過程は絶対に間違ってはならず、少しの「甘さ」も許されないものです。けれども、多くの人はそういった努力を行なってはいないため、何が「教育」であり「洗脳」であるのかを判断できていません。この問題は我々にとって非常に身近なことです。

例えば、テレビを見ていると我々は様々な誰かの意見を聞くことになります。テレビ番組によっては、何らかの専門家が出演していて、その専門家が何かを説明しているケースもよくあります。そんな話を聞きながら、我々は絶えず「この意見は正しいだろうか」ということを問い続ける必要があります。しかし、多くの視聴者はその専門家の話を鵜呑みにするだけで、「問い」は行なっていません。だからこそ、その専門家が間違ったことを言っている場合は、間違ったことを正しいこととして信じてしまいます。つまり、「洗脳」されてしまいます。

また、現代の日本人の傾向は「問い」を行わないことに加えて、自分にとって都合のいい話は信じ、自分にとって都合の悪い話は信じないという傾向を持っています。つまり、「依存」や「欲望」の観点からどういった意見を「真実」とみなすかを考えています。これは本当に危険なことです。何故ならば、「真実」は必ずしも、自分自身にとって都合のいい意見とは限らないからです。

逆に言うと、何が「真実」であるのか判断できるようにするためには、どれだけその意見が自分にとって都合が悪くても、それが「真実」であれば受け入れるだけの、心の「強さ」が必要です。何が「真実」であるのかを見分けることをできるようにするためには、必ず心の「強さ」が必要であるということは、生きていく上でとても大事な基本事項です。

我々日本人の心は弱くなっています。だからこそ、無意識に自分にとって都合のいい話を「真実」と思い、自分にとって都合の悪い話を「真実」とみなさないようにしています。また、心が弱くなっているからこそ、何が「真実」なのかを絶対に理解しようという努力をすることなく、簡単に「甘さ」や「怠惰」に同調してしまい、その努力を止めています。だからこそ、絶対に心に「弱さ」を持つことを受け入れてはなりません。

また、何が「真実」であるかを見分けるためには適切な思考が必要不可欠ですが、ちゃんとした思考を行うためには「論理」を使いこなす必要があります。しかし、学校教育などでは「論理」を適切な形で学生に教えることはしていないので、日本人の多くが「論理」をちゃんと使うことができていない現状があります。たとえ、絶えず「問い」の努力を行なっていたとしても、「論理」をちゃんと使えていなかったら、判断を誤ることになります。「論理」を使えるようにすることの重要性も理解して頂けると幸いです。


【まとめ】

色々書いてきたので、我々日本人がどうして「教育」と「洗脳」を見分けることがしづらいのかを整理して書きます。

・「教育」と「洗脳」の対立構造を意識化していない
・「教育」と「洗脳」を見分けられていると誤解している
・「甘さ」や「怠惰」に堕ちがちが故に「問い」の努力をしていない
・「依存」や「欲望」によって何を「真実」とみなすかを決めがち
・「常識」と「真実」が必ずしも一致するわけではないことを意識化していない
・専門家であっても、間違ったことを言うことを意識化していない
・「甘さ」の恐ろしさを知らない
・「論理」を使うこなすことができていない

こういったことを読んでいくと、「教育」と「洗脳」を見分けること、つまり「真実」と「間違い」を見分けることが、如何に困難なことかを分かって頂けると思います。とにかく、この文章を通して理解して頂きたいことは、「教育」と「洗脳」を見分けることはとても大変なことであって、今の日本人のスタンスではいけないということです。そういったことを理解して、いつもこのことを意識化して生きていれば、より「謙虚」かつ「慎重」になることができるので、判断を誤りづらくなります。

「教育」と「洗脳」を見分けるための第一歩は、このような「現実」を知ることです。「現実」は「真実」だからこそ、「現実」を知ることは確かな「学び」であって、御自身の人生に役立ちます。この文章が、皆様のその第一歩に繋がることができると幸いです。