音楽とMV(ミュージックビデオ)と映画は、それぞれできる事が異なります。この文章はその違いについて書いていきます。

音楽はある精神性を音で伝えるのに対して、MVはその音楽が伝えようとしている精神性を映像によってより方向付けるものです。この点に、音楽よりもMVの方が音楽の言わんとしていることを伝える力があります。

MV(ミュージックビデオ)は音楽と映像によって何かを伝えるものですが、MVと違って映画は「物語」という要素を加えることができます。この点に、MVよりも映画の方が圧倒的に人の心を動かす大きな原因があります。

けれども、MVだけでかなり人の心を動かせるものを作れなければ、そこに「物語」を加えたとしても、感動の大きさは弱いです。だからこそ、まずMVで映像と音楽の修行をすることは映画制作に向けての良い修行過程となり得ます。

実際、宇多田ヒカルなどのMVなどで有名な紀里谷和明は、MVで経験を摘んだ後に『CASSHERN』や『GOEMON』といった映画を作った監督ですが、彼が映画の中であれだけ独特の世界観を作り上げる事ができた背景には、5分程度の映像作品の中で独特の世界観を作り出す努力を積み重ねた結果だと思います。
 


感動が大きければ大きい程、人は真に何かを学ぶことはできます。感動が大きいということは、ある「真実」の「重み」を感じるということであって、「重み」を感じずに「真実」を学ぶことは不可能だからです。

例えば、「愛が大事」という言葉は「愛が大事」という「真実」を全然伝えないのに対して、「愛が大事」であるということを伝える「物語」は「愛が大事」であるという「真実」を強く我々に教えてくれます。この点にこそ「物語」を通して「真実」を伝えることの価値があり、古代世界から人類が行なってきた行為でもあります。例えば、古代ギリシャなどにおいては吟遊詩人達が物語と歌で人々の心を動かすことを通して大事なことを伝えることを目指していました。古代ではありませんが、日本の琵琶法師なども同じ役割を持っていました。

古代と違い現代は、録音装置と撮影装置があります。その恩恵によって、かつての吟遊詩人や琵琶法師達が表現していたよりも圧倒的に強い何かを作品に込めることができるようになりました。この点に、人類が録音装置と撮影装置を生み出したことの大きな価値があります。我々は大事な「真実」を理解するための映画という方法を手に入れる事ができたからです。

アーティストとは、ある「真実」を伝えようとする人間のことだと思います。そして、「真実」を伝えようとする者が、その「真実」がより深く伝わるための道具を使うということは、非常に自然なことだと思います。つまり、現代のアーティストが音楽や映像や演技といった複数分野に手を出すことは非常に自然なことです。特に、昔と異なり現代は比較的質の高い録音や映像が、一般消費者用のマイクやカメラでも作り出す事ができるので、その点でも音楽家が映像に手を出したりすることは自然な流れです。

しかし、様々な表現者を見ていると、あまり手を広げたがらない人が多過ぎるようにも思いますし、これはとてももったいないことだと思っています。何故ならば、才能のあるアーティストは様々な方法を使って自身の才能を発揮させていくべきだからです。例えば、北野武はお笑いに加えて、映画や絵画や絵画や小説や音楽などの様々な方法を使って表現をしている天才アーティストですが、才能のあるアーティストは彼のように手を広げていくべきです。

ただ、一つの楽器を極めることを通して、一つの楽器の可能性を世の中に提示することを目的とするような音楽家は、一つの楽器の表現だけを追求するのはアリかもしれません。そういう立場の音楽家は、人類の音楽の可能性を広げるが故に非常に重要だからです。

手を広げ過ぎると、当然一つ一つのクオリティを上げていくことが遅くなることは問題ですが、その問題は努力によって解決していけばいいと思います。つまり、手を広げるアーティストは他のアーティストよりも圧倒的に多くの努力が必要となります。