「彼らの一番大事なものは金でも女でもない、名誉だって。」

空賊達がポルコの飛行艇を壊そうとした時、フィオはこの言葉を通して空賊達を説得し、飛行艇が壊されることを止め、ポルコが殺されることを止めます。

この言葉に空賊達が心動かされたことに、『紅の豚』の大きな意味があります。というのも、この場面は空賊達が「極悪非道」には堕ちない精神性を保っていることを示すからです。

『紅の豚』で描かれているポルコと空賊達の「対立」は終始とても「平和」で、だからこそ、この作品は我々に良い「対立」とは何なのかを教えてくれます。そして、そういう「平和」な「対立」を実現している背景には、空賊達の「善意」があります。

例えば、映画冒頭に空賊達が子供達を誘拐する時、空賊のリーダーが「仲間外れを作っちゃ可哀想じゃねえか!」と言って、子供達を皆連れていく様子が描かれますが、こういった言葉には空賊達が保っている「愛」が表現されています。

このことと同様に、彼らが「名誉」を保っているところに、彼らが「極悪非道」に堕ちない構造があります。というのも、「名誉」とは他人からの「評価」を表す言葉であって、「極悪非道」に堕ちてしまえば他人からの良い「評価」は得られないからです。

つまり、「欲」のために生きようとも、「愛」や「名誉」をどこかで重んじている限り、行き過ぎた「悪」には堕ちないという構造があります。だからこそ、「悪」を選ぶ者であっても、「愛」や「名誉」を重んじることはとても大事です。

空賊達がそうであったように、自分の何かを壊されることは相手に対する「恨み」を生みますが、そういった「恨み」の奴隷となってしまえば「愛」や「名誉」などによって自分を止めることも不可能となり、「非道」に走ってしまい、悪い「対立」を生み出します。

そういった悪い「対立」を生み出すことをフィオの言葉は止めていますし、現代社会は様々な悪い「対立」が生まれやすくなってきているからこそ、フィオのこの言葉は我々に大事なことを教えてくれます。

このような意味で、『紅の豚』と比較するべき作品は『ダークナイト』です。『ダークナイト』のジョーカーは「極悪非道」に堕ちた存在であり、空賊やカーチスとはあまりにも対照的です。

『ダークナイト』の冒頭、銀行強盗を行なうジョーカーに向けて銀行員が「昔の悪党は信じていた。名誉とか敬意ってものをな」と言います。このセリフはまさにフィオが空賊達を動かしたセリフと本質は同じですが、ジョーカーは一切心を動かされません。

ジョーカーは「名誉」や「愛(敬意)」を一切大事にしないからこそ、自分の「狂気」という「欲」の実践のために如何なることもできます。そういった「悪」の力によって、バットマンとジョーカーの「対立」は多くの犠牲者を生み、恐ろしい「対立」を形成しています。

『紅の豚』と『ダークナイト』は構造がとても似ています。『紅の豚』のカーチスは空賊達から雇われてポルコを殺す仕事を引き受け、『ダークナイト』のジョーカーはマフィアから雇われてバットマンを殺す仕事を引き受けるからです。また、カーチスもジョーカーも主人公にとって大事な人を人質に取ります。

そういった共通の構造が、カーチスとジョーカーの違いを我々に教えます。カーチスは自分の「愛」や「名誉」のために可愛らしい形で「悪役」を務めていますが、ジョーカーは自分の「欲」のために「名誉」を一切気にせず恐ろしい形で「悪役」を務めています。

『ダークナイト』を作ったクリストファー・ノーランは映画『ヒート』を参考にして『ダークナイト』を作りました。映画冒頭の銀行員は『ヒート』で出演していた役者であって、このセリフにクリストファー・ノーランは『ヒート』の意味を込めています。

『ヒート』も『紅の豚』と同様に、心の中で「善意」を保っている「悪」が登場しますが、そういった「善意」がより大きな「悪」を終わらせます。

つまり、『ヒート』で描かれる要素は「善」と「良い悪」と「悪い悪」であり、そういう意味では、『紅の豚』と『ダークナイト』の両方の意味が込められている作品でもあります。

このような意味で『紅の豚』『ダークナイト』『ヒート』は繋がっている作品であって、この三作の意味を深く学び、繋げて考えることで我々は「善」と「悪」の「対立」について、多くを学ぶことができます。

このように、アニメ作品と実写作品、子供でも分かる作品と大人でなければ分からない作品の意味などを繋げて考えることにより、我々が映画を通して得ることができる「学び」は深まります。

『トイ・ストーリー』のような超子供向きの作品から、タルコフスキー作品のような超大人向きの作品、それらの間の作品といった、様々な作品の意味を理解し、それらの意味を繋げて考えられるようになる時、映画は我々に「真実」の意味をより立体的に教え、その「学び」が我々の人生の道標となります。