もう、俺には現代人の感覚が分からなくなってきているんです。そして、自分と現代人とのギャップは今後もっと大きくなっていくはずで、30年後のことなどを考えると非常に恐ろしく思うことがあります。


【現代流行っている芸能について】

フワちゃんに象徴されるように、明らかに気が狂った存在を現代は喜んで受け入れています。また、気が狂っているわけではないですが、ひろゆき、田中みな実、ホリエモン、といった様々な闇の使いが高い影響力を持ってきています。こんな調子で様々な闇の使いが影響力を高めていった先に、日本に未来などないと思わずにいられないことがあります。

もちろん、光の使いも頑張っているわけですが、彼らに対してもあまり心が動かない自分がいます。例えば、自分は藤井風の良さがよく分かりません。最新曲の『grace』は現代人でも共感できる光の領域を伝えてくれてるのは分かりますし、MVでインドを取り上げてくれていて本当に有難いのですが、歌に全然「共感」できません。
 


藤井風に限らず、基本的に今流行っている光の歌にも全然「共感」できなくなってきています。それに対して、先日加山雄三の引退インタビューなどを見ていましたが、彼がかつて日本精神の健全性を強く支えた時代のことを思うと、感謝の念で涙を堪えるのに必死でした。
 


例えば、『海 その愛』は「海」に関する「真実」や「男」としての「海」との向き合い方の一つの「理想」を我々に伝えてくれる名曲ですし、「昭和」の当時多くの人がこの曲から良い影響をもらったはずです。「令和」の今聴くと「古風」に感じるかもしれませんし、「時代遅れ」に感じるかもしれませんが、歌が持つ力をとてもストレートに伝える非常に「価値」の大きい歌です。

実はこの二曲は構造が似ています。どちらの歌も神(太陽と海)が人を助けていることを歌っている歌だからです。しかし、その向き合い方に「令和」と「昭和」の時代性の違いが表れています。例えば、『grace』の「助けて神様 わたしの中にいるなら 二度とこの場所を離れないで」という歌詞は「依存」を象徴する歌詞であるのに対して、『海 その愛』の「海に抱かれて 男ならば たった一つでも いのちあずけよう」という歌詞は「自己犠牲」の意味でも取れる歌詞です。

つまり、神が人を助けることについて『grace』の方は「自分のため」にその助けを受け取ろうとすることを歌っているのに対して、『海 その愛』の方は「他者のため」にその助けを受け取ろうとすることを歌っているとも取れる歌です。また、『grace』は自分が「自由」を得ることの「喜び」を歌っているのに対して、『海 その愛』は「海」に対する「賛美」としての「喜び」を歌っています。

「昭和」は「令和」よりも「正気」の人が多かったと思います。だからこそ、「正気」を保つことによって「自由」は元々手に入れていた前提の上で、その先の精神性を『海 その愛』が伝えているとも言えます。それに対して、「令和」は「昭和」よりも「邪気」に取り憑かれている人が多いと思います。だからこそ、「正気」に戻ることによって「自由」を手に入れる段階が必要で、そのことを『grace』が伝えているとも言えます。

また、加山雄三の声は「太さ」を持っていて「成熟」した人間性を伝えているのに対して、藤井風の声は「細さ」を持っていて「未熟」な部分があることを伝えています。ただ、今の時代においては加山雄三のような「太さ」は「古い」と思われてしまいやすいでしょうし、藤井風のような「細さ」は「お洒落」と捉えられるでしょうから、藤井風が今の時代には合っているとも言えます。

このような意味で、どちらの歌もその時代に必要な歌ではありますが、自分としては『海 その愛』の内容や加山雄三の声に「共感」しやすいのに対して、『grace』の内容や藤井風の声には何も「共感」できない形になります。というのも、「正気」を保つことの先の先の先位を目指して生きていますし、大きな「成熟」を目指して生きているからです。

このような意味で、その時代に必要な「光」と自分が進もうとしている「光」の差は広がるばかりですし、これからの時代に流行りそうな「闇」は今よりももっと酷い「闇」が想定されますから、そのような「闇」と自分の差は酷く大きくなることが予想され、その未来の人の感覚が自分にはより分からなくなるだろうと思っています。

例えば、映画『翔んで埼玉』の何が面白いのかも、Adoの何が魅力なのかも全然自分には分からず、如何に酷い表現なのかが見えるばかりですが、これからはそういうことが非常に多くなっていくのだと思います。そして、そういう酷い表現が流行ることを見ていると「世も末だ、、、」と「絶望」に飲み込まれそうになります。そのような意味で、このまま日本が30年進んだ未来を考えると、恐ろしく感じている形です。


【現代流行っている思想について】

​こういった芸能の点に限らず、新しい言葉と共に思想的にも毒が多く、例えば、「自己肯定感」「自尊心」といった今まで使われなかった新しい言葉と共に、危険な思想が色々生まれ、多くの人がその「罠」にかかりがちです。

「自己肯定感」や「自尊心」に関する思想の多くは、「ありのままの自分を肯定する」ことの必要性を伝えています。というのも、「自己肯定感」が低ければ様々な負の感情に囚われてしまうから、「自己肯定感」を高めるために「ありのままの自分を自分を肯定する」ことが必要だと考えるからです。

それに対して、自分は「ありのままの自分を自分を肯定する」ことは間違っていると思っています。というのも、我々人間は「未熟」だからこそ人間をやっているわけであって、「ありのままの自分を肯定する」ことなどやってしまったら「成長」など実現できないからです。「弱さ」に堕ちなければ、「自己否定」をしたとしても負の感情には堕ちないとも思うからです。

他にも、「『こうあるべき』という考え方を止めることが大事だ」といった思想も多いですが、「成長」のためには「目標」を持つべきで、「目標」を持つということは「あるべき自分」というものを自分の中に持つことが必要です。つまり、「こうあるべき」の放棄もまた「成長」を止めます。

もちろん、「常識」や「義務」によって他者から押し付けられる「こうあるべき」という考え方は有害なことはありますが、「より良い人間になりたい」という「善意」に基づく「願い」によって「こうあるべき」と考えることは「正しさ」に他ならないです。しかし、「常識・義務」と「善意に基づく願い」といった観点で分けないからこそ、「こうあるべき」と考えること自体が間違っていると誤解している人は少なくありません。

こんな時代を見ていると、馬鹿馬鹿しく思えることが非常に多いです。「弱さ」が人間を様々な「闇」に落とし、「善意」が人間を様々な「光」へ導くという当たり前の「真実」を踏まえずに思考するからこそ、様々な危険な思想が生まれているのが分かるからです。しかし、「弱さ」を抱えている人が非常に多くなっていて、「善意」を貫ける人が少なくなってきているからこそ、「弱さ」を無意識に大前提に考え、「善意」を無意識に排除して思考してしまうのは当然とも言えます。

ライターにせよ、ユーチューバーにせよ、誰でも自分の思考を発信できる時代ですが、正しく思考することはいい加減な気持ちでできるようなことではなく、人生をかけた闘いなわけですが、そのような闘いもせずにいい加減な気持ちで発信する誰かの「欲」によって、この国は少しずつ狂っていっています。


【今後の自分】
 


鶴見岳の山奥は今日から本格的に寒くなってきました。俗世を離れて生きてはいますが、それでも自分もまた現代という時代の影響を受けてしまっています。しかし、本当は、極寒の高山の中に生きる孤高の「白虎」のように、誇り高く気高く強く逞しくありたいと思います。

そういう存在を実現するためには、日本人らしい「和」の精神も一時的に本当に放棄しなければならないと思います。人と関わるとどうしても「和」の精神を使わざるを得ないです。物事を円滑にスムーズに進める上でも、相手に不愉快な思いをさせない上でも、「和」の精神はとても大事だからです。

これは日本人の良さでもありますが、「和」の精神は人格形成に関してある限界を生み出すことも事実です。このような意味で、「和」の意味を理解するために「和」をよりいい形で実現すると共に、「和」の限界を超えるために「和」を放棄することも自分にとっては大事だと思っています。だからこそ、「白虎」のようにあるためには、「和」の精神を使わなくてもいいように、やはり人と関わることを極限まで避けなければならないと思います。
 


髪を結ぶ時だけ自分の顔を鏡で見るのですが、素の時の自分は怖い顔をしています。凄まじい「善」は「恐ろしさ」さえも持つものですが、そういった正しい「怖さ」を実現しなければならないと今日自分の顔を見て思いました。

と同時に、自分は「慈愛」の女神のような精神性を日々勉強しているところがあります。そういう精神性を養わなければ見えないことがあるからです。そういう意味では、「怖さ」と並行して「慈愛」ももっと学ばなければならないと思っています。どちらもまだ足りません。

そんな形で自分の中に、「人間離れ」した「善意」に基づく「男」と「女」を生み出した時、「真実」はよりはっきりと見えてくるはずです。そんなことを山奥で相変わらず実感しながら生きていますし、冬の始まりである今日は「白虎」のことを踏まえて、この冬の修行の始まりを迎えています。

誰とも関わらず、誰ともしゃべらず、現代という時代とは無関係に自分の中に流れる意識を経験し、「白虎」のような精神を獲得したい。「龍」は少し知っていても、まだ「虎」は全然分かっていないからこそ、それを獲得しなければならないとも思っています。

自分は古代人のような人間です。最近は、机の上に孔子の『論語』を置いていますが、彼らがそうであったように、自分もまた「君子」になりたいと思って生きています。それに対して、素晴らしい人間(君子)になることをどうでもいいと考えがちな現代人の感覚がよく分かりません。

本当に、このまま進んでいった先の日本のことを考えるといつも「絶望」しそうになります。けれども、天変地異といった奇跡によってこの国が進路変更せざるを得ないような時が来ることを願うと共に、そんな時代が来た時に、この国が正しい方向へ向かうことを少しでも促せるように、「真実」を徹底的に掴み取り、それを整理し続けるために精進していますし、もっと精進したいところです。