「運」の構造
2017.11.28 気と心の関係性
ここでは、「運」の構造について説明していきます。
現代は、様々な形で「開運」に関する情報が社会に流れています。そして、人々は自分が「開運」するためにその「開運法」を実践していたりします。しかしながら、「運」というものがどのような構造によって成り立っているのか、ということの説明はあまりシェアされていません。
これは良くない状態です。何故ならば、自分が使っているものがどのようなものなのかを知らなければ、そのものが本当にいいものか悪いものなのかは分からないからです。「開運法」の中には実際に「開運」に繋がるものもあります。しかし、そういった「開運法」の全てが「善」ではありません。つまり、「開運」するからといって、その「開運法」が必ずしも「善」とは言えないということです。なかには、その「開運法」を実践し、「開運」したからこそ毒を食らってしまうようなものも多くあります。
例えば、宝くじに当たることが全て「善」かというと、そうではなく、宝くじに当たったことが原因で金銭感覚が狂ってしまい、破産する人はいます。実際、高額当選者の7-8割が破産しているという情報もあります。また、当選したことによって、周囲の人から金を無心されたりして、友人に対する「疑い」を抱いて生きていくことになる人もいます。
こういうことから理解して頂きたいことは「運」は必ずしもいいものとは言えないということです。その時だけは何らかの「利益」を得られたとしても、本質的には自分を苦しめるような「運」も多くあります。人を本当に「幸せ」にする「運」を「善運」、人を本当は「不幸」にする「運」を「悪運」と言います。
ここでは、そういった「運」の構造について説明していきます。
【「運」の構造】
「運」には大きく分けて2種類あります。それは、神々が起こす「導き」と悪魔の起こす「コントロール」です。神々と悪魔は、それぞれ「気」を司り、我々の心に関与しています。「光の気持ち」を抱いていれば、神々からの「光の気」を持つが故に、神々から心を導かれていきます。それに対して、「闇の気持ち」を持てば、悪魔からの「闇の気」を持ち、悪魔から心を「コントロール」され始めます。
神々にしろ、悪魔にしろ、我々になんらかの出来事をもたらします。神々は、この世界や一人ひとりの人間が「幸せ」になるために、我々を動かそうとするのに対して、悪魔は、その悪魔自身のために我々人間を動かそうとします。このような意味で、我々人間は、自分が「光の気持ち」を抱くか「闇の気持ち」を抱くかを「選択」することによって、神々と組むか、悪魔と組むかを決めている立場の存在です。
「運」とは、一般的にはなんらかの「利益」を受け取ることです。たとえば、道端に一万円札が落ちていて、それを見つけたとしたら、その日は「運」がよかったということになります。この一万円札を見つけるという現象を、神々と悪魔はそれぞれの理由によって引き起こしています。
神々がそれを引き起こす場合、それはその人を本当に助けたい場合です。それに対して、悪魔がそういうことを行う場合は、その一万円札をなんらかの方法でその人間に使わせたい場合です。神々は我々のことを本当に思いやっているからこそ、我々を支えたいと思うのに対して、悪魔はその悪魔自身のことだけしか考えていませんから、人間をいかに道具にするのかを考えています。一万円札というものは、なんらかのお金の使用を可能にするものであって、神々と悪魔はそれぞれの理由によって我々に一万円札という道具を与えた形です。
「我々がどの道をどういう風に歩くのか」ということに関して、「気持ち」は強く影響しています。また、「どこかに目が行く」という現象は我々の「意志」を越えています。ふと気づくと、我々はなんらかの広告に目が行っていたりするからです。そういった部分に神々と悪魔は、「気」で関与していると理解していただけると幸いです。だからこそ、「一万円札を見つけさせる」ということが、神々と悪魔には可能だということを分かっていただければと思います。
【「善運」と「悪運」】
このような意味で、神々がもたらす「運」のことを「善運」、悪魔がもたらす「運」のことを「悪運」と言います。この二つを分けて考える必要があります。何故ならば、「悪運」は我々にその場限りの「メリット」を与えるものですが、最終的には我々を苦しめるものになりますし、社会にも悪い影響を出すからです。それに対して、「善運」は本当に我々の人生を支えるものですし、この社会を支えるものです。
「運」というものが我々に強く影響を与えるのは「お金を得る」ということも一つですが、もっと影響力が強いことは「誰と出会うか」ということです。たとえば、なんとなく山登りに行ったとして、その山頂でたまたま高校時代の恋人に会って、そこで会話が弾んだことがきっかけで復縁し、結婚するというようなケースはあります。「人と人がどこかで偶然出会う」ということも「運」の一つの形です。神々はこういった「出会いの運」を通して我々人間を支えようとしています。
それに対して、悪魔が人間と人間を出会わせる「運」の場合、たとえば、お酒が飲みたくなって、ふとあるバーに入りたくなり、そのバーに入ってある異性と出会い、付き合い始めるようなケースです。悪魔がこういったことを起こす場合は、大抵は、その関係性によってお互いが苦しむようなことになります。悪魔という存在は、我々を「闇」に堕としたいと思っている存在ですから、そのために出会いという道具も使います。こういった出会いのケースは、悪魔が我々を闇に堕とすために使った「悪運」の一つの例です。
このような形で、「善運」は我々を「幸せ」に導き、「悪運」は我々を「不幸」に堕としてきます。だからこそ、「悪運」とは仲良くせず、「善運」を受け取るように生きる必要があります。
【「善運」を受け取り、「悪運」を受け取らないために】
「愛」を基本とする「光の気持ち」を抱いて生きていれば、神々からの「光の気」を「持ち」、そのことによって神々から我々は導かれながら生きることになります。そうすると、神々の「善運」を受け取ることになり、より「幸せ」になっていくことができます。
「欲望」を基本とする「闇の気持ち」を抱いて生きていれば、悪魔からの「闇の気」を「持ち」、そのことによって悪魔から我々はコントロールされながら生きることになります。そうすると、悪魔の「悪運」を受け取ることになり、より「不幸」になりやすくなります。
つまり、我々が「善運」を受け取るために必要なことは、「光の気持ち」を抱くことであって、「悪運」を受け取らないようにするために必要なことは、「闇の気持ち」を抱かないようにすることです。ですから、「愛」をいつも抱きながら生き、「欲望」や「嫌悪」といったものをいつも抱かないように心がけていれば、「善運」を受け取り、「悪運」を受け取らないように生きていくことができます。
【最後に】
神々は、神々や悪魔といった目に見えない存在が人間に関与しているということを、伝えたくてしょうがなく思っています。何故ならば、そういった「真実」を見失ったのが現代だからです。そういった我々が忘れてしまった「真実」を思い出してもらうために、神々は「偶然」とは思えないようなことを引き起こそうと、いつも努力しています。
「善運」にはそのような意味合いもあります。「善運」は、ただ単純に我々を「幸せ」にするための道具という側面だけではなく、我々に大事な「真実」を思い出させるための道具として、神々は「善運」を使っています。
実は、「善運」にしろ「悪運」にしろ、「運」は「真実」を理解するためのとても重要な道具になり得ます。目に見えない存在が引き起こしたと考えない限り、絶対に起こり得なかったことを経験するからです。
現代に生きる多くの日本人は「奇跡」を信じません。それはどうしてかというと、「奇跡」がどのように起こるのかという構造を知らないからです。そういった構造を理解することが、「奇跡」がどのように起こるのかという因果関係を明らかにし、そういったことを理解できれば、明らかに目に見えない存在が我々の心に関与することによって、我々を動かしているということについて、確かな理解をすることができます。「運」によって実際に「奇跡」を体験し、その体験と共に、どのようにその「奇跡」が起こったのかを分析していけば、「真実」が見えてきます。
「奇跡」は、信じるものではなく、理解すべきものです。そのために必要なことは、神々と悪魔の「気」が我々の心にどのように関与しているのかを理解することです。幸い、日本語には「気」を「持つ」と書いて「気持ち」という言葉や、「気」を「分かつ」と書いて「気分」といった言葉がありますから、昔の人が理解していた大事な「真実」を思い出すことができます。これは、日本人が持っていて外国人が持っていない一つの特権です。是非、この日本語の構造や日々生きている際の具体的経験から、「運」の構造について理解して頂く、また、「奇跡」の構造について理解して頂くことを通して、神々や悪魔について理解していただけると幸いです。
そして、「運」には2種類あることを意識していただきながら、「善運」を受け取るように生きていただけると幸いです。そのためには、御自身が「自分のため」ではなく「誰かのため」に日々生きる必要性があります。