ここでは、説明文章を読む時の気持ちの重要性について書いていきます。文章を読むことと論理の関係性についてはこちらに書いているので、合わせて読んで頂けると幸いです。

http://junashikari.com/other/文章を読むことと論理について/


【「水の気持ち」と「甘さ」「依存」「欲望」】

説明文章は論理などによって、何らかの事柄を説明している文章です。だからこそ、論理構造を読み解きながら読む必要があるのですが、文章の論理を見抜きながら読むことは、「甘さ」といったいい加減な気持ちを持っているとできません。逆に言うと、「甘さ」を持って何らかの説明文章を読むのであれば、様々な誤読をしてしまいます。

文章を読んでいる時に重要なことはどういった気持ちでその文章を読むかということです。それによって、どのようにその文章を読むのかということがかなり変化します。これは日本人が意識化していない非常に恐ろしい問題になります。

例えば、「依存」の気持ちで文章を読むのであれば、自分にとって都合のいい情報が書いてある部分に強く共感し、それ以外の部分にはあまり心が動かなくなります。また、自分にとって都合の悪い情報を読み飛ばすということにも繋がります。

我々が文章を読み、その後に自分の中に最も残っている内容とは最も強く共感したことです。「依存」の気持ちで文章を読むと、「真実」よりも自分にとって都合のいい情報に心が強く動くので、読み終わった後にそういう情報ばかりが自分の中に残ります。そして、その文章が正しいか間違っているかを吟味する「問い」の気持ちよりも、自分にとって都合のいい情報を読みたいという「依存」の気持ちが勝ってしまうので、その本に間違ったことが書いてあってもその情報を鵜呑みにしてしまい、変な情報を信じてしまいます。こういう意味で「依存」の気持ちで文章を読むことは本当に危険な行為です。

また、「問い」ではなく、自分にとって都合のいい情報を信じるという傾向は「欲望」の気持ちで文章を読む時もよく起こります。例えば、「成功するためには?」「儲かるためには?」「能力を伸ばすためには?」みたいなことをテーマとしている本はよくありますが、こういった本を読む人の多くは「欲望」の気持ちで本を読みます。

「欲望」の気持ちで文章を読んでいると、例えば「こういう風にすると、お金がこういう風に入ってくる」「こういう風にすると、こんな風にうまくいく」「こういう風にすると、こんな風に能力が伸びる」という文を読んだ時に、すごく「欲望」が強まります。分かりやすく書くと、テンションが上がります。そして、そういった「欲望」が強まった状態だと、「問い」を行なう気持ちになれず、その情報を信じたくなります。何故ならば、「成功したい」「お金がほしい」「能力がほしい」という気持ちが「真実は何かを知りたい」という気持ちよりも勝るからです。

逆に言うと、「こういう風にすると、お金がこういう風に入ってくる」「こういう風にすると、こんな風にうまくいく」「こういう風にすると、こんな風に能力が伸びる」といった文章は我々の「欲望」をかき立てるような文章であって、これは「闇」に堕ちるための「罠」の文章です。何故ならば、そういった文章によって「欲望」の気持ちに堕ちてしまうと、「真実」を見抜くことが難しくなるからです。

我々人間は心の中で、自分が求めることを行ないます。「成功したい・お金がほしい・能力がほしい」=「欲望」の気持ちが、その文章を信じたいという気持ちを起こし、その気持ちが「真実を知りたい」=「問い」の気持ちよりも勝ってしまったら、ほとんどの場合「問い」を行なうことができません。もし「問い」を行なうのであれば、一度「欲望」の気持ちを止めて、「問い」に戻る必要があります。

これはパチンコをやる人間の心理と似ています。冷静な目線で考えると、そのパチンコ屋が開いているということは、そのパチンコ屋が儲かっているということであって、そのことはそのパチンコ屋でパチンコをやっている人間が平均して損をしているという「真実」が分かります。しかし、目先の「欲望」が故にそういったことを考えることができず、人はパチンコをします。パチプロであれば話は別ですが、そうでない方がパチンコをするのは「問い」ではなく「欲望」に堕ちているからです。このように、「欲望」に堕ちるのであれば「真実」は見えなくなっていきます。

「依存」や「欲望」で文章を読むという状況は本当に多いですし、だからこそ、読み手にとって都合のいい情報ばかりが載った本が売れているという事実があります。「依存」とは「何かにすがる気持ち」とも言い換えられますが、自分自身の「意志」によって現状を良くしたり、問題を解決することを努力せずに、何かに助けを求める人が多いからこそ、人を「依存」させるような本が売れている形になります。そして、多くの日本人が「欲望」に生きているからこそ、「欲望」をどのように実現するのかという本が売れている形になります。

文章を読む時に貫かなければならない気持ちは「問い」の気持ちであって、「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」です。「向上心」を強く持てば持つ程、文章を読む時に「真実」が見えてきます。何故ならば、「向上心・問題解決の心」があれば、その文章の持っている様々な意味を深く捉えるだけの分析ができますし、その内容が正しいかどうかも問うことができるからです。

「真実」を知るということは多くの人を助けることに繋がります。何故ならば、「真実」を分かっていれば、「真実」を知らずに、そのことによって苦悩している人に向けて適切なアドバイスができるからです。そういう意味で、文章を読むことによって「真実」を知ろうとする行為は「誰かのため」の行為となります。これが、「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」で文章を読む基本スタンスになります。

もし、「水の気持ち」で文章を読むことができなくなりそうな時は、この部分だけをもう一度読んで頂けると役立つと思います。我々は油断するとすぐに大事なことを忘れてしまいますが、最も忘れてはならないことは、人間に「光の気持ち」を抱くことを促す「アイデア」です。「真実」を知ることがどのように他人にいい影響を与えるという「アイデア」を持っていれば、文章を読む時に「水の気持ち」を抱きやすくなります。こういった「アイデア」が我々が「光」を選び、「光」を保つ上で本当に有効な「道具」になります。このホームページ全体がそういった「道具」を書いていると理解して頂けると幸いです。

 

【「水の気持ち」と「知識欲」と「興味」】

そして、文章を読む時に「水の気持ち」=「向上心」と非常に近い気持ちが「知識欲」と「興味」です。「水の気持ち」が「光の気持ち」であるのに対して「知識欲」は「闇の気持ち」、「興味」は「中立の気持ち」になります。なぜならば、「光の気持ち」とは「愛」に基づく「相手のため」という気持ちであって、「闇の気持ち」とは「欲望」に基づく「自分のため」という気持ち、「中立の気持ち」とは「自分のため」でも「誰かのため」でもない気持ちのことだからです。

「水の気持ち」の「向上心」は「誰かのため」に「真実」を知ろうとする気持ちのことであって、だからこそ「光の気持ち」です。それに対して、「知識欲」は「自分のため」に何かを知ろうとする気持ちだからこそ「闇の気持ち」です。そして、「興味」は単純な興味であって、「誰かのため」でもなく「自分のため」でもなく、単純に知りたいという気持ちです。

「向上心」にしても「知識欲」にしても「興味」にしても、「何かを知ろう」とする点は同じなのですが、「何かを知ろう」とする動機が「誰かのため」「自分のため」「自分のためでも誰のためでもない」という点で異なる形になります。そして、「知識欲」で文章を読んでいると、その文章を読む面白さ=「快楽」に心が奪われてしまい、「問い」ができなくなりますし、「興味」で読んでいても「問い」は行なうことができません。この三つの気持ちの違いは人を対象にすると分かりやすいです。

我々は「愛」を抱く相手に対しては、その「相手のため」に相手のことを知りたいと思います。相手のことを知ることで、その「相手のため」に色々なことができるようになるからです。これは「愛」を原因に「水の気持ち」で相手のことを知ろうとするスタンスになります。それに対して、「欲望」の気持ちで人を知ろうとするケースはその人が自分にとってどんなメリットをもたらすことができるだろうかと思いながら、「自分のため」にその人を知ろうとするケースです。そして、「興味」の気持ちでその人を知ろうとするケースは単純にその人がどんな人なのかを知りたいと思う気持ちです。恋などをすると、その人がどんな人なのか知りたいと思いますが、この気持ちは「興味」を意味します。

※余談ですが、「恋」は「中立」であって、「光」の強い人も「闇」の強い人も行ないます。「愛」の強い人はその「恋」を「愛」にしていくのに対して、「闇」の強い人はその「恋」を「欲望」にしていきます。

「水の気持ち」「知識欲」「興味」のこのような違いは文章を読んでいる時も同様なので、このようなイメージを理解して頂けると幸いです。おそらく「興味」や「知識欲」で読んでいる方が日本人には多いと思いますが、「水の気持ち」=「誰かのために真実を知ろうとする気持ち」で文章を読んで頂ければ、と思います

 

【「水の気持ち」と「疑い」】

「水の気持ち」の「問題解決の心」は「問い」の気持ちを作ります。何故ならば、それが「真実」か見抜こうとする気持ちは「問題解決の心」だからです。そういった「問い」の気持ちに近いのが「疑い」の気持ちになります。

「疑い」は対象に対する「嫌悪感」から生まれる気持ちであって、言語化すると「それって本当かよ?」といった気持ちです。「問い」の気持ちを言語化すると「これは正しいだろうか?」といった形になります。「疑い」は「嫌悪」を内に含むのに対して、「問い」は「嫌悪」を内に含んでいません。

そして、「疑い」は時に「欲望」から生まれる気持ちでもあります。何かを見抜くという行為は自分の賢さなどに酔うことができる「快楽」を伴うものです。そういった「快楽」が好きで「疑い」の思考をする人は少なくはありません。例えば、古畑任三郎の話し方は全て「疑い」の「快楽」を楽しみ、そういった「快楽」を「欲望」している話し方になります。古畑任三郎は事件は解決していても、「誰かのため」ではなく「自分のため」であって、本質的に古畑任三郎自身のためです。ただただ古畑任三郎は「自分のため」に事件を「疑い」によって解決していく様子は「疑い」が「欲望」=「快楽」と非常に近い関係にあることを学ぶ上で、非常に参考になります。そういったことがこのドラマを観ているとよく学ぶことができます。
 


※この映像の中で、古畑任三郎は『三本の矢』の話を例に挙げ、毛利元就の教えが間違っていることを実験を通して論破し、異なる結論を出しています。そして、その過程で古畑任三郎が楽しそうに話している様子から「疑い」には「快楽」があること、今泉君を道具のように扱う様から全く「愛」がないことがよく分かります。余談ですが、実際の『三本の矢』の教えは「一本の矢では簡単に折れるが、三本の矢では簡単には折れない」というものであって、古畑任三郎は前提の部分で実は嘘を付いているor間違っています。

「疑い」に心が堕ちてしまうと、正しい情報を信じることができず、必要以上に「疑い」を行なうようになります。どうして、「水の気持ち(向上心)」だと適切に「問い」を行なうことができ、「疑い」だと適切に「問い」ができなくなるかというと、ここからは「気」の観点からの分析が必要になります。

「光の気持ち」を抱くと神々からの「光の気」を受け取り、「闇の気持ち」を抱くと悪魔からの「闇の気」を受け取るということはよく書いてきました。また、「情報」が乗った「気」を我々は神々や悪魔から受け取ることによって、我々は「アイデア(情報)」を浮かべているということもよく書いてきました(「気付き」=「気」が人間に「付く」の構造)。

これは文章を読んでいる時も同様です。文章を読んでいる時に「光の気持ち」を抱いていると神々から文章の読み方を支えられ、文章を読んでいる時に「闇の気持ち」を抱いていると悪魔から文章の読み方を掴まれてしまいます。我々は文章を読む時にも、その文章を理解するために色々な「イメージ」や「アイデア」を抱きながら読んでいます。「光の気持ち」で読むか「闇の気持ち」で読むかによって、そういった「イメージ」や「アイデア」を神々と悪魔のどちらに関与されるのかということが変わります。

映画『ベルリン・天使の詩』の中では、天使が図書館にたくさんいて、文章を読む多くの人を支えている描写がありますが、これは神々や天使が我々の文章を読む行為を支えていることを視覚的に伝えるために神々が創った映像になります。我々が「光の気持ち」で文章を読むということは、いつもこの映像のようなことが起こっているとイメージして頂ければ、と思います。天使が近くにいるとは限りませんが、神々はいつも関与しています。
 


※この映像の中でひそひそ話のように聞こえる声は天使達が聴いている、人間の声です。神々が我々の心を全て見ているのは当然ですが、天使もこのように近くにいる人間の心の声を聞くことができます。そういったことを視覚的に表現している映像になります。

神々は「真実」を人間に教えたい立場であるのに対して、悪魔は「嘘」を人間に信じ込ませたい立場です。だからこそ、文章を読む時は必ず「光の気持ち」を抱いている必要があります。そして、悪魔は「疑い」の気持ちで人間に文章を読ませるのであれば、必要以上の「疑い」の気持ちを導きます。

「疑い」の罠について理解するためには、思考と感情の関係性を理解する必要があります。思考は完璧なものではなく、あるところで感情が結論となることがあります。例えば、以下のような思考があったとします。

疑問「我々は何故生きているのか?」
答え「魂の修行のため。」
疑問「では、何故魂の修行にはどのような意味があるのだろうか?」
答え「魂の光を強くしていくことができるという意味。」
疑問「魂の光を強くすることにどんな意味があるのだろうか?」
答え「魂が清くなると、より大きな愛を実践できるので、より他人を幸せにできる」
疑問「他人を幸せにすることに何の意味があるのか?」
答え「ただ心から、私は他人を幸せにしたいと思う。そのために生きたいと思う。そこに理由などない。」

これは最後は自分の感情が結論となっています。しかし、「疑い」の思考を持ってしまうと、いつまでも感情の結論を許さず、いつまでも思考をしたいという気分に悪魔によってコントロールされてしまいます。

疑問「我々は何故生きているのか?」
答え「魂の修行のため。」
疑問「では、何故魂の修行にはどのような意味があるのだろうか?」
答え「魂の光を強くしていくことができるという意味。」
疑問「魂の光を強くすることにどんな意味があるのだろうか?」
答え「魂が清くなると、より大きな愛を実践できるので、より他人を幸せにできる」
疑問「他人を幸せにすることに何の意味があるのか?」
答え「他人が幸せなのは、他人が不幸なことよりも意味があると思う。」
疑問「それは自分のためではないだろうか?」
答え「それは違う。何故ならば、他人が不幸だと辛いから」
疑問「他人が不幸だと自分が辛いから、結局自分のために他人を幸せにしたいと思っているのでは?」
答え「そうかもしれない、、、」

思考というプロセスは自分の中の自問自答(疑問と回答)の連続です。そして、どういった疑問と回答を行なうかということについて、神々も悪魔も「気」で関与することで「アイデア」をもたらしています。

「疑い」の気持ちで思考をすると、悪魔が我々に疑問を提示していくことになり、回答自体にも関与します。そうすると、どんどん悪魔のもたらす罠にはまっていきます。この例では、上の例文のように「他人を幸せにすることに何の意味があるのか?」という疑問に対して、「ただ自分はそうしたいと思うから」と答えるのが「光の人」にとって正解なのですが、悪魔はそういった正解を出すことさえもできないように心に関与します。そして、「真実」から遠ざけていき、「闇」に堕ちるように疑問を提示し続けます。下の例文だと最後に「自分のため」ということを悪魔に認めさせられていますが、このように本人は「光」であるにも関わらず自分のことを「闇」だと思わされるようなケースは多くあります。逆に、本当は「闇」なのに「光」であると思わせるケースもよくあります。

観たことがある方は分かると思いますが、下の例文は『エヴァンゲリオン』で主人公達が自分自身の分身と対話していく様子と似ています。特に、碇シンジの思考はこういった「疑い」の形です。『エヴァンゲリオン』は神々が創ったアニメであって、碇シンジは「水の人」なのですが、「問い」が「疑い」に堕ちてしまった人として描かれているからこそ、心の中でこのような対話が続いていきます。

この構造は、『彼氏彼女の事情』の有馬総一郎も同じです。そして、こういった「疑い」の思想を促しているのは悪魔です。悪魔はいつも我々自身が考えているように見せかけながら、つまり、我々自身のフリをしながら我々に色々なことを思わせるので、神々が創った『エヴァンゲリオン』や『彼氏彼女の事情』においては、主人公達の分身のような存在がその主人公に話し掛けているように描かれています。

「水の気持ち」で思考をするのであれば、神々が我々の理解を進めるために様々な疑問を用意するのに対して、「疑い」で思考するのであれば、悪魔が我々に間違ったことを信じさせるために様々な疑問を用意する形になります。思考とはいつも疑問と答えの連続であって、神々と悪魔はそれぞれ我々にその疑問と答えのプロセスに関与しています。

こういったプロセスは文章を読んでいる時も同様です。その文章を読んでいる時に、「これって違うんじゃない?」と「疑い」の気持ちを抱くと、そこからは思考を悪魔に掴まれてしまいます。「これは違うかもしれないから、何が違うのかを考えてみよう」という「問い」の気持ちを抱くと、神々がその思考を支えてくれるので、「真実」が見えてきます。


【読書環境について】

文章を読む時は「気」がいい状態や場所で読むことがとても大事になってきます。何故ならば、「気持ち」「気分」という言葉が示すように我々は「気」を「持つ」、「気」を「分つ」ことによって自分の「気持ち・気分」を抱いていますが、「光の気」に満ちた場所や身体の状態であれば「光の気持ち」を抱きやすく、「闇の気」に満ちた場所や身体の状態であれば「闇の気持ち」を抱きやすいからです。また、「光の気」がそこにあると神々から「アイデア」や「イメージ」をもらいやすいのに対して、「闇の気」がそこにあると悪魔から「アイデア」や「イメージ」をもらいやすくなるからです。

ですから、身体の状態を考えるのであれば、風呂上がりが読書にとって最もいいですし、風呂の中で読書をすることも有効です。どうしてかというと、水は身体の「闇の気」の浄化を促し、火(お湯)は身体の「火の気」を増やすからです。眠い時は身体に「闇の気」が溜まっている時なので読書はすべきではないです。あと、読書をする時の姿勢も大事になります。姿勢が悪いと気持ちが「闇の気持ち」に堕ちやすくなるからです。

そして、読書をする時はとにかく窓を開けることが大事です。換気をしないと部屋の中に「闇の気」が溜まっていきます。もし可能だったら野外で太陽の光を浴びながら読書をすることが最善になります。ですから、換気のしていない人の密集したカフェなどでは読書はすべきではないですし、もしそのカフェにテラス席があるのでしたらテラス席に座るようにした方がいいですし、テラス席のあるカフェを使うようにした方がいいです(寒い時は身体が寒くならない程度にして下さい)。また、電車は「闇の気」に満ち満ちているので、電車の中での読書は非常に良くないです。電車の中では多くの人がスマートフォンで何かを読んでいますが、これは悪魔に文章を読む行為を掴まれる本当に良くない行為です。もし電車の中で何かを読むのであれば、音楽を聴くことによって、「光の気持ち」に自分の心を維持することが絶対に必要になってきます。
 


以前にも取り上げましたが、「水の気持ち」の重要性を伝えるためにも金星神が創った歌がSalyuのデビューシングルの『VALON-1』です。「valon」とはフィンランド語で「光の中へ」という意味を持っています。この歌に「水」に関連する歌詞が非常に多いのは、この歌が「水の気持ち」を歌っているからです。また、「水の気持ち」の「愛」は銀色なので「銀の光る雫」も「水の気」のことを示しています。また、「疑い」と対比されている構造で描かれているのは、「水の気持ち」と「疑い」が対の関係性を持っているからです。また、PV自体からも我々の世界が様々な「嘘」を抱えていることを西洋医学のお医者さんを胡散臭く描くことで実現しています。西洋医学は悪魔が人間に教え込んだ「嘘」がとても多いからこそ、このように描かれている形になります(西洋医学の全てが悪いと言っているわけではありません)。

この歌を聞くと「水の気持ち」がどういう気持ちか感覚的に理解ができるので、我々にとってとても大事な一曲になります。この曲は金星神が創り、Salyuは金星神と共に「水の気持ち」で歌っているので、この曲の持っている感情は金星神の「水の気持ち」です。「水の気持ち」とは言っても、ものすごく強い「向上心・問題解決の心」から優しい「向上心・問題解決の心」までありますが、この曲では「水の気持ち」を失った日本人でも馴染みやすい優しい「水の気持ち」が表現されています。

この曲を聴きながら様々な文章を読む癖を付ければ、「水の気持ち」で文章を読むことがしやすくなります。私もいつもこの曲をループ再生しながら文章を書いています。履歴をチェックしたところ1500回近く聴いています。本当に素晴らしい歌は何千回聴いても全然飽きるようなものではありません。音楽は我々の抱く気持ちと密接な関係にあるので、このように音楽を使って頂ければ、と思います。

この曲は文章を書いたり読んだりする時に限らず、どんなことをやっている場合でも聴くことができますし、これは「水の気持ち」を保つ上でとても有効で具体的な方法なので、やってみて頂ければと思います。この曲はYouTubeでも再生できますが、iTunesなどでダウンロードして頂き、いつでもどこでも再生できるようにして頂けるととてもいいと思います。iTunesのダウンロードURLを貼付けておきます。

ダウンロードURL:https://itunes.apple.com/jp/album/valon-1/id526670254?i=526670269

この曲だけに限らず、Salyuのほとんどの曲は金星神の「水の気持ち」を表現しているので、本当にSalyuはオススメです。「水の気持ち」は本当にこれから大事な感情であって、Salyuは我々が「水の気持ち」を保つための道具を用意し続けてくれている歌手です。この国にとって本当に素晴らしく、必要なことをSalyuはずっとしてくれています。是非色々な作品を聴いてみて頂き、Salyuの歌と共に生きていくようにして頂ければ、人生はより素晴らしくなると思います。

 

【最後に】

文章を読む行為は1つの闘いです。そして、神々も悪魔も絶対に人間に読ませたくない文章とはあります。神々が最も人間に読ませたくない文章の1つは、このホームページでも取り上げている芥川龍之介の『侏儒の言葉』のようなものであって、悪魔が最も人間に読ませたくない文章の1つはアリストテレスといった古代哲学者の文章です。『侏儒の言葉』は悪魔が書いており、「嘘」=「罠」だらけなので、神々は人間を守るために悪魔の「嘘」を読ませたくないと思っています。それに対して、アリストテレスの文章は神々が書いており、「真実」に満ちているが故に、「真実」を知られたくないと思っている悪魔は人間に読ませたくないと思っています。

だからこそ、こういった本を読んでいる時は神々も悪魔も徹底的にその読者に関与します。神々は人間を守り導くために、悪魔は人間を騙し真実を知られないようにするために、徹底的に関与します。しかし、人間はこういった神々と悪魔の関与を意識化していないので、あまりにも気軽にこういった文章を読んでしまっている形になります。真実を知るためには強い「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」=「問いの気持ち」が必要です。しかし、あまりにも気軽に読んでいるものだから、そういった気持ちになることができず、「甘さ」や「怠惰」などに堕ちてしまっている形になります。

また、私は哲学科出身ですが、私の出身校は古代哲学を日本一ちゃんと勉強している大学です。だからこそ、私の通ったその哲学科に対する悪魔からの攻撃は激しく、その結果として、鬱病や自殺が多く、人間同士の対立も多いです。哲学科に入る人は元々そういう気質の人が多いという「アイデア」を悪魔は人間に落とし込んでいますが、そうではなく、古代哲学を読もうとするからこそ悪魔から襲われ、悪魔から鬱病を抱えさせられたり、自殺をさせられたりする形になります。入学当時はものすごく「光」が強かった人がどんどん「闇」に堕ちていく様を私は哲学科で見てきました。

文章を読む行為は「真実」を摑み取る行為です。そして、「嘘」を見抜く行為です。「真実」を見抜く上でも「嘘」を見抜く上でも、強い「水の気持ち」が必要です。もし強い「水の気持ち」を抱くことができれば、その間は神々が我々の読解を支えますが、少しでも「甘さ」「欲望」「依存」「疑い」「怠惰」といった気持ちが出てくると悪魔に捕まります。

本当に文章を読むことは身を危険にもさらすことにも繋がる行為です。そして、文章を読むことは本当に人生を豊かにすることにも繋がる行為です。そのどちらにするかは、読者の抱く気持ちによって決まります。「光の気持ち」で読書をするのであれば、読書は人生をより豊かに、「闇の気持ち」で読書をするのであれば、読書は人生を台無しにします。

また、文章を読む行為は、「真実」と「嘘」を見分けるだけではなく、一文一文の重みをどれだけ感じられるかということも非常に重要です。どんなに重要な「真実」がそこに書いてあっても、その「真実」を軽く読むのであれば、学びとしては薄くなってしまいます。しかし、本当に強い「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」を持っているのであれば、深く読もうという「意志」を持つことができるので、学びも大きくなります。

我々はいつも自分がしたいと思うことをしたいものです。自分がしたいと思わずに「すべき」と思っているのであれば、どこかで「嫌悪」などに堕ちてしまいます。そして、「真実」を深く理解したいと思う気持ちは「水の気持ち」です。だからこそ、「水の気持ち」を抱いているのであれば、その文章を深く読みたいと思いますし、「真実」か「嘘」なのかどうかを問いたいと思います。そして、そういったことを続けていきたいと思うようになります。逆に言うと、他の気持ちで「真実」を知りたいと思い続けることは難しいですし、知識欲などでそのように思ったとしても悪魔から様々な誤読をさせられます。こういった説明から、説明文章を読む時に「水の気持ち」を抱くことがどれだけ大事であるのかということを御理解頂けると幸いです。

これだけ世界が「闇」に満ちてしまったのは、人々が本当には「真実」を知ろうとはしていないからです。それよりも人は、自分にとって都合のいい情報を「依存」や「欲望」によって信じがちです。「依存」や「欲望」に留まっている限り、自分にとって都合の悪い情報を受け入れることは困難ですが、「水の気持ち」を持つのであれば、自分にとって都合の悪い情報でさえも受け入れられます。何故ならば、「水の気持ち」は「向上心」であって「向上心」の立場にとって、自分にとって都合の悪い話は自分が本当に成長するための道具だからです。

人間が「真実」が見えなくなったからこそ、そのことによって様々な「嘘」に振り回されている形になります。そして、新たな「嘘」が生まれては人はそれを「闇の気持ち」で読んだり聞いたりするが故に、その「嘘」を信じてしまっています。そういった悪循環の末に今の世界があります。この世界は「嘘」に満ち満ちています。

そういう意味で、これからの時代に求められる気持ちは「水の気持ち」です。どうか「誰かのため」に自分が「向上」し、「問題解決」をしたいと思う気持ちを大事にして頂ければ、と思います。逆に言うと、自分が何か「嘘」を信じていた場合、その「嘘」を信じているが故に大事な人を傷つけてしまいます。例えば、本当は身体に悪い健康食品を健康にいいと信じてしまい、それを善意で他人に薦めることなどです。そういう意味で、「嘘」はかなり恐ろしいものであって、そういった「嘘」を見抜くために「真実」を知っていく必要があります。だからこそ、「水の気持ち」はとても大事です。

「水の気持ち」であれば、「真実」が見えてきます。そして、そういった「水の気持ち」を抱く時間が長ければ長い程、強ければ強い程、魂の「水の気」が増え、「水の気持ち」と共に生きていくことができるようになります。そういう風にして「水の気」を増やしていく人が増えていけば、人間はもっと「真実」を学んでいくことができ、この世界はより良い世界になっていきます。