「善意」は「他者のため」を思う心ですから、もし「偽善意」という言葉があったとしたら、それは「自分のため」を思う心です。そして、基本的に「善意」から「善」は生まれ、「偽善意」から「偽善」は生まれます。

「善」と「偽善」は非常に近いところにあります。何故ならば、「他者のため」を思う心は油断すると「自分のため」を思う心にすり替わるからです。そして、「善」が「偽善」にすり替わるかどうかは、一瞬一瞬の心の勝負です。つまり、1秒前に「善」だったものが、1秒後に「偽善」にすり替わり得ます。

「善意」を貫く上で非常に重要なことは、何故自分がそれをやるのかということを考える時間を極力毎日作ることです。そういうことによって、「善意」の「動機」を見失いにくくなり、その結果として「偽善」に堕ちることを防ぐことができるからです。逆に言うと、何故自分がそれをやるのかということをあまり考えないでいると、「善意」の「動機」を見失いやすくなり、「偽善」に墜ちやすくなります。

本当の「善」とは「他者や世の中のため」になるものであり、「善意」とは「他者や世の中」に対する「愛」から生まれます。だからこそ、そういった「愛」を自分の中に損なわぬことが、「善意」を貫く上で大事なことです。

「偽善」に堕ちているものを「善」だと思い込めば、その人は知らず知らずの内に「道」を誤っていきます。そして、「偽善意」によって行なう行為は「善」のように見える「悪」になりやすいです。だから、「善」の「道」を進む者は、絶えず自分が「偽善」に堕ちていないかを「問う」ことを続けなければなりません。

しかし、そういった「問い」は、自分が「道」を誤っているかもしれないという「不安」や自分自身に対する「疑い」と隣り合わせです。そして、「不安」や「疑い」に堕ちるなら「善」を実践することを止めやすくなってしまいます。

また、自分が行なっていることが「他者や世の中のため」になることを信じられなくなると、「善意」が損なわれやすくもなります。どうしてかというと、「誰のため」にもならないと「虚しさ」に飲み込まれやすくなり、「虚しさ」は「他者や世の中のため」になると信じる心を奪いやすいからです。

だからこそ、本当に「他者や世の中のため」になることをすべきですし、「他者や世の中のため」になると信じる心を貫くことが必要な場面も少なくありません。特に、直接的に「誰かのため」になることを行なっていない人の場合、こういった信じる心が非常に重要になってきます。

逆に、直接的に「誰かのため」になることを行なっている人は、自分が行なっていることが「他者のため」になることを「信じる」必要もなく「知る」ことになるので、「善意」は貫きやすいです。

例えば、他者に喜んでもらうために飲食店を営んでいる料理人は、そこでお客さんが喜んで食べ物を食べる様子を見ることを通して「喜び」を感じますし、その「喜び」が更なる「善意」へと繋がりやすいです。

人が「善意」を貫く基本的動機は「愛」ですが、「愛」が故に生まれる「信念」によっても「善意」は貫くことができます。しかし、「信念」は「愛」よりも「偽善」に通じやすいので、「善」を実践する者は「愛」をベースにした方がいいです。

というのも、「信念」とは「自分が正しいと考えることを実践しようとする心」であり、その心自体には「愛」が含まれていないからです。しかし、「愛」が「善意」を貫く上で非常に重要になってきますから、「信念」は「愛」よりも簡単に「偽善意」に通じやすい形になります。

「愛」の感覚をよく知ってる者にとって、自分が「愛」で動いているかどうかを見極めるのは簡単です。「愛」の感覚はそれだけ分かりやすいからです。それに対して、「信念」で動く者にとっては、その動機が「善」であるのかを見極めるのは「愛」よりも難しいです。「愛」に基づく「信念」であっても、その「信念」は「欲」に基づく「信念」と非常に近いからです。

「正しいこと」を行おうとすることは、「自分のため」にもできることです。例えば、「自分のため」に価値ある人生を生きるために「正しいこと」を行おうとすることはできますし、「自分のため」に他者から良く見られるために「正しいこと」を行おうとすることもできます。

そういった「偽善」への「道」はすぐそこにあり、なおかつ「信念」で生きる場合、自分自身が「善」を貫いているか「偽善」に堕ちているのかを見極めることが「愛」よりも圧倒的に難しいですから、人は「信念」よりも「愛」をベースに「善」を実践する方が好ましいです。


※こういったことは、「愛」と「信念」の違いを理解することによって、より深く見えてきますから、以下の文章も合わせて読んで頂けると幸いです。

http://junashikari.com/mind/love-and-belief/